クリスタライズ~ある狙撃手へのレクイエム~

浅倉優稀

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#23 尋問開始

#23 尋問開始

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 クラウスに頭や身体を殴られ、蹴られながら連れてこられた場所は、ミハイルに捕まった最初の日にミズキが通された部屋だった。
 薄暗い部屋には窓もなく、裸電球がぶらさがる。壁には無数の小さな穴。命乞いをした数か、それとも意識を失うまでに叩き込まれただろう無数の銃弾の痕跡。初日に見たその景色に、ミズキは小さくため息をついた。
 本来の処遇――それが今から始まるのだ。
 ミハイルと違って、クラウスには容赦がない。おそらく、ミズキが死んでも構わないくらいの尋問を行うだろう。
 今度こそ、自分は死ぬ。
 そんな未来をふうっと思い描き、ミズキは眼前のクラウスを睨みつける。
「さて、異色光彩の狙撃手オッドアイスナイパーよ。ここが貴様の終の棲家だ」
「なるほど、僕はここで私刑リンチに遭うわけか。クラリス軍は国際法を遵守していると対外的に発信していたような気がするけど」
 ミズキはふんと鼻で笑う。
「聞いて呆れる。戦争は終わったというのに」
「戦争は終わった? バカ言え、オッドアイ」
 クラウスは靴音を響かせながら、ゆっくりと椅子に座っているミズキのそばに歩み寄ると、突然勢いよくその椅子を蹴り飛ばした。ガシャンと耳障りな音がして、ミズキは椅子ごと床に転がる。
「ぐうっ……」
「立て、オッドアイ」
 受け身も取れず、不意に全身を打ち付けた痛みで、呼吸が一瞬止まる。
「戦争は終わっちゃいない。俺の親友が戻るまではな」
「親友……?」
「そうだ」
 クラウスは緩慢に立ち上がろうとするミズキの襟首を掴みあげる。
「ふ……」
 衣服で首が絞められ、苦しくなってクラウスの指を外そうと爪を立てるが、ミズキ程度の力では彼の太い指から逃れられない。
「おまえらディスタンシア軍に捕まっているに違いないんだ。アルベルト・ハノン。我が国の陸軍上級大将。ある日突然失踪し、未だに行方がつかめていない」
「アル……ベルト……?」
「聞いたことは?」
「……」
 ミズキの記憶にその名を持つのはひとりしかいない。いつの間にかシュトラウスの横にいた。
 出自は知らないが、クラリス軍のことにやたら明るく、ミズキの胸にクリスタライズを埋め込んだ人物だ。
 クリスタライズの埋め込み手術が終わった日、麻酔で朦朧とするミズキの頭を優しく撫でながら、アルベルトは言った。
『できる限り生き延びなさい。おまえの目で、外の世界を見てきなさい』
 そう言った、彼の事だろうか。本名は知らないけれど。
 任務から逃げないようにと、クリスタライズをミズキに持たせたくせに、ミズキが自ら進んで死のうとするのを良しとしなかったアルベルト。
「アルベルトだけじゃない。貴様はジュリアの夫までも殺した大罪人だ。貴様はずいぶんとジュリアに気に入られたようだが、自分の身内を殺した相手に、メシを作ってくれるなんて馬鹿な奴だと、ジュリアを嗤っていたんだろう。覚悟しておけよ、俺はそんなに気長な方じゃない。喋らなければ、喋るように仕向けてやる。どんな手を使ってもな」
(だからといって、おまえなんかに何も話すものか)
 ミズキの存在は、ディスタンシアでは存在しないもの。
 自分は兵士の慰み者じゃない。ディスタンシア軍の狙撃手。国家を背負う軍人なのだ。
 自分の任務をはじめ、軍に関わる事は機密事項だ。機密は絶対に喋ってはいけないと、かつてシュトラウスに厳しく教えられた。
 ミズキが軍人である限り、クラウスなんかに口を割ってたまるもんか。
 狙撃手の命であるスコープを突き刺されても、ソナーをそぎ落とされも、トリガーを落とされても。
 どんな傷をつけられようとも。
 絶対に、喋るものか――。

*****

 同じころ――。
 騒動のあとのミハイルの部屋には、グスタフとジュリアが残されていた。
 懐中電灯やルームライトなど、明かりが付けられる電気器具をあつめ、グスタフは部屋を片付けていた。ジュリアは床に座って空を見つめている。
 しかし二人の間には、姉弟のように気のおけないいつもの雰囲気ではなく、重苦しさが漂っていた。
 ジュリアのすすり泣く声が重さにさらに拍車をかけ、グスタフは困り果てていた。
「ミズキを困らせるつもりはなかったんだ……」
 彼女は肩を震わせ、泣きじゃくる。
 グスタフには何のことかわからない。今日二回にのぼる襲撃の影に、どうもジュリアが絡んでいるらしいというのはなんとなくわかったのだが、正直、いったいどういう事なのか。
 暗闇の中、派手にガラスが砕け落ちる音のあと、ミハイルが部屋のドアを蹴り破るようにして部屋から出ていくのを追って、乱入者たちも出ていった。
 急変した状況の終わりも、驚くほどあっという間だった。あとに残されたのはグスタフとジュリアだ。しんと静まり返った部屋の中、すすり泣く声が聞こえ、グスタフはあわてて自分がいつも持っているペンライトをつけた。部屋のスイッチが壊されているから天井のシーリングライトをつけられず、仕方なしにコンセントを入れればつく明かりを集めた。
 スイッチを入れ、室内の状況にグスタフは言葉を飲んだ。
 皿やカトラリー、ミズキの朝食になるはずだった夕食の残りが散乱する床に、力なくぺたんと座ったジュリアがいた。
 彼女は空を見つめ、涙を流して「ごめん、ミズキ」と譫言のように謝っている。
 ただ事ではないと思った。こんなに弱々しいジュリアなんて見たことがない。
「ジュリア、ジュリアってば!」
 グスタフはジュリアと同じ目線に腰を落とし、彼女の肩を掴んで揺らす。
「ジュリア!」
「ごめん、ミズキ、ごめん……」
「ケガはないか? って、ジュリア! なにここ赤いじゃん!」
 彼女の膝が真っ赤に染まっているのを見てびくっとしたが、夕食のミネストローネが洋服にかかっただけだった。目視の限り、ジュリアには怪我がなさそうで、ひとまずほっと胸をなでおろす。
「グス……タフ……。あたし、ミズキに……ごめん、ミズキ……」
「ジュリア?」
 涙声でしゃくりあげる彼女の瞳は、焦点を結んでいない。混乱する彼女をどうしていいかわからず、グスタフはジュリアをぎゅっと抱きしめた。
 小さいころ、グスタフは雷が大嫌いだった。夜空を切り裂く稲妻と、地面が裂かれる様な大きな雷鳴が怖くてたまらなくて、夜中にミハイルの布団に逃げ込むことが多かった。
 ミハイルはグスタフを抱きしめて『大丈夫、怖いことなんか何もありませんよ』と背中を撫でてくれた。
 それだけでグスタフの恐怖は去っていった。
 昔のミハイルは、花を手折るのもためらうような、とても穏やかで優しい兄だったのだ。
 自分の腕に昔のミハイルと同じ力があるかわからないけど、今はジュリアを放っておけない。
「グスタフ、ああ、どうしよう……あたし、は……ミズキを……」
「ジュリア、俺には何のことかわからないんだよ。なんでミズキに謝ってるんだ?」
「ミズキとミハイル……あの子たちを、傷つけるつもりはなかったんだ……」
「ミズキも兄貴もたぶん大丈夫だよ。でもジュリア」
 グスタフはジュリアの身体を離すと、彼女の震える濡れた瞳を真っ直ぐ見据えた。
「兄貴は陸軍の上級大将だ。その部屋に賊が来た。ジュリア、何か知っているなら教えてくれ」
 このままじゃきっと、二人の身が危ない。
 ミハイルはともかく、一番危険に晒されるのはミズキだ。
 おそらくこの騒動、ミハイルも何か知っているはずだとグスタフは踏んでいる。
 ここ最近、ミハイルは口を酸っぱくして「私がいないときは、あなたの命を賭けてでもミズキを守りなさい」と言っていた。
 グスタフにとってそれは兄のお願いではなく、上官命令だ。ミハイルがいるときにミズキのそばにいると、なぜだか逆に怒られてしまうので、ミハイルがいないときは何を置いても最優先でミズキのそばにいた。
 ミハイルとグスタフとミズキ。そしてたまにジュリア。4人で笑い転げる時間が楽しかった。ミズキを守れば、楽しい時間が増える。
 何より、ミズキが来てからミハイルが変わった。
 長兄亡き後のミハイルは、慈悲などない黒衣の悪魔と呼ばれるようになった。
 敵だけでなく、軍律を乱した味方ですら顔色一つ変えずに粛清していた。
 彼が黒い服を着るのは、相手の返り血が目立たないようにするためだ。処刑や拷問を行ったその足で、動揺一つ見せずに事務仕事をしていることもあったくらいのその彼が、ミズキと一緒にいるようになってからよく笑うようになった。
 彼を纏う氷の鎧が少しずつ解け始め、本来の優しい兄の姿が現れ始めているのを、グスタフは嬉しく思っていた。
 だが、この時間には必ず終わりが来る。
 どのみちミハイルはミズキを殺すのだろう。しかし、心のどこかでミハイルが処刑を考え直してくれないだろうかと密かに願っていた。
 もし、ミズキが死ぬ日が来たなら、自分はミズキの最期を見届ける。
 そのつもりだった。
 だが、ことはスムーズに運びそうもない。ミズキとミハイルが今、どこにいて、何をしているのか、状況がつかめないからだ。
 となると、さっきからこの騒動の真相を仄めかしているジュリアに訊くしかない。
「ジュリア。教えてくれ。この騒動はジュリアが起こしたのか?」
「あたし違う、あたしじゃない……」
「じゃあ誰なんだよ。早く教えてくれ。こうしている間も兄貴とミズキが危険なんだ」
「あたし、あたしは……」
「ジュリア!!」
 グスタフが強く肩をゆする。
「ジュリアはミズキがどうなってもいいのかよ!!」
「違う、あたしは……」
 ジュリアは縋るような目で、ようやく口を開いた。
「あたしはただ、あの人を殺した奴を知りたかっただけなんだ……!」
「あの人……って、一番上の兄貴?」
「そうだよ。あの人が亡くなってもうだいぶ経つ。戦争だって終わった。だけど、あたしの戦争はまだ終わっちゃいない。ヘンドリックだけじゃない、あいつ……父さんも帰ってこない……」
「……」
 ジュリアの口から悲しみを絞り出すように出たその名前は、暗殺された長兄の名前。
ヘンドリック・ブライデン。グスタフにとっても、ジュリアにとっても愛すべき人の名だ。
 葬儀の列でのことを、グスタフは今でも覚えている。
 黒い棺に寝かされた長兄は、クラリス軍の国旗を掛けられた青白い顔をしていた。額の真ん中には、凶弾の痕。長兄の亡骸を見た時の悔しさと悲しみを、グスタフは今も忘れていない。
 少し神経質でとても厳しかったが、優しい兄だった。髪を短く刈り上げているか、後ろに流しているかの違いで、顔はミハイルと双子かというほど似ており、将来は大将になれるだろうと言われていた。
「物が一ミリでもずれたら許せない」というほどの完全主義者の一方では、軍の生活に不安を募らせている新兵たちの良き兄貴役ともなっており、厳しい割には人望も厚かった。
 いたずらと喧嘩が好きなグスタフに手を焼き「そんなに暴れたければ軍に入れ」と無理やり放りこんだ。ヘンドリックの指揮下で、弟だからひいきしてくれるかと思ったら、ヘンドリックは誰よりもグスタフを「可愛がった」ので、同期の仲間が少し加減してやってくれとヘンドリックに申し入れをしたこともある。
 その長兄の葬儀。涙が止まらなかったグスタフの横で、ミハイルは涙ひとつ流さず、彼が天へ上るのを見送った。
 軍人として、家族として、必ず仇を取ってやると誓った。
 だが今は――グスタフ自身、その決意が揺らいでいる。それはきっとミハイルも同じだろう。
 わかっているのだ。自分たちの仇はミズキなのだと。
 ミズキを捕らえるために、ミハイルと作戦を練り、こうして計画通り、仇を捕らえることに成功した。それは、長兄の妻であるジュリアだって同じだ。ミズキを殺して初めて、自分たちの戦争は終わるのだ。
 しかし、闇討ちのような方法でミズキをどうにかするなんて、絶対に許せない。
 だからこそ、この騒動の黒幕を知りたい。
「おじさんが……クラウスおじさんが言ったんだ。あの人を殺したのはミズキだって。だからあたし、あたし……」
 ジュリアの嗚咽がひどくなる。彼女はポケットに手を触れ、グスタフに小瓶を差し出した。
「おじさんから貰ったの。これをミズキの食事に混ぜろって……」
「ジュリア、これは何?」
「わからない。ただ混ぜろって言われたの。だけどあたし、できなかったんだ。おじさんの言うことも正しいんだろうけど、あたしはミズキの口から直接聞きたかった。あの子が本当にあの人を殺したなんて、あたしは信じられない。なんとかしてあの子から聞こうと思っていた。それなのにこんなことになって……」
「なるほど……」
 ジュリアをかわいがっていた海軍大将・クラウス。騒動の背後にいたのは彼か。
「あのヒゲ親父は何が目的なんだ?」
「ミズキ……ミズキにしかるべき償いをさせるって。ミハイルが何もしないから……って」
 騒動の最中、暗闇の中でミハイルが叫んだ。「連中の目的はミズキだ」と。
 となると、ミハイルは騒動の黒幕を知っていたことになる。
「あのクソ兄貴、大事なことはいつだって何も言わずに一人で特攻する」
 グスタフはチッと舌打ちをした。
 ミハイルはとにかく秘密主義だ。上級大将になったあたりからそれが顕著になった。
 彼には彼なりの考えがあるのだとしても、もう少し早く教えてくれていたら、周囲にも、そしてジュリアにも警戒できたのに。
「ジュリア、ここにいて」
「まってよグスタフ! どこに行くの!?」
 立ち上がろうとしたグスタフのスラックスにジュリアが縋る。
「いやだ、今はあたしを一人にしないでよ!」
「兄貴とミズキを探してくる。あのヒゲ親父が闇の主格なら、二人とも危ない」
「あんたもあたしを置いていくの!?」
 ジュリアの双眸は涙に濡れ、小刻みに震えている。
「いや、いやだ、ミズキ……あたしのせいだ……だからあたしはまた……」
きっと彼女はクラウスに計にのった自分の判断を今、後悔しているのだろう。結果としてそれは、ジュリアが知りたいことではなく、ミハイルとミズキの命を危険に晒したことだからだ。彼女もまた、ミズキに惹かれていた一人なのだと知る。
 そして彼女は恐れている。自分の大切な人がまた消えてしまうのではないかと。
「ジュリア、心配すんなよ」
 グスタフはジュリアの頭を撫で、スラックスを掴む彼女の細い指を一本ずつゆっくりと解いていく。
「俺と兄貴は、絶対にジュリアを置いて行かない。もちろん、そこにはミズキもいる。俺たちはいつだって4人一緒にいるんだよ、ジュリア」
「グスタフ……」
「でもこのままじゃ兄貴もミズキも失ってしまう。助けに行かせてくれ。だから……」
 グスタフはジュリアの頬を両手で包んだ。
 恐慌に苛まれる彼女の心に、少しでも自分の言葉が届くように。止まない不安の波が、少しでも収まるように。祈りながら、彼女の顔を覗き込む。
「だからジュリアはうまいメシ作って待っててくれよ。約束する。必ずあの二人を連れて帰る」
「グスタフ、あんた……」
「ん?」
「いい男に……成長したね」
「そ、そう?」
 いきなりの不意打ちで目を丸くしたグスタフを見て、ジュリアがやっと微笑んだ。

*****

 両腕は後ろ手に縛られ、足は椅子の脚に、仕上げに椅子ごと全身を極細のワイヤーか何かで縛られていた。普通の麻とかで作られたロープと違い、このワイヤーは容赦なく体に食い込んでくる。
 痛くてたまらなくて、身体を捩ると、クラウスが小さい注射器を手にミズキの前にひざまずいた。
「いい格好だな、戦犯」
「クラリス軍はセンスがいい。おかげさまで僕は何ひとつ自由にできないよ」
「ふん、まだ元気そうだな」
 ミズキのそばには小さな鉄製のテーブルが置かれ、そこには小瓶に入ったアンプルやかみそりのような刃物、鉄の棒や銅線のようなものが並べられている。
 指でも落とすか、電気でも浴びせるか。考えつく限りの拷問を想像してみる。
 これから始まるであろう激しい尋問。だが不思議と恐れはなかった。
 男たちに身体を暴かれるのに比べたら、よほど軍人らしい扱いだと思うせいかもしれない。
「さて、華麗なフルコースの前に、オードブルを味わっていただこう」
 クラウスはニヤリと笑うと、テーブルから注射器を取り、それをミズキに首筋に突き立てた。ジグッと蜂に刺されたような鋭く激しい痛みにミズキは顔をしかめ、唇を噛んだ。
「……なにを打った?」
「貴様は素直ではなさそうだからな」
 首に突き立てられた注射器の中身が、自分の身体に吸い込まれていく。薬がすべてなくなるとクラウスは針を抜き、テーブルの上に戻した。
「さて、効き目はどうかな」
 クラウスはミズキの変化をじっと見つめていた。
 その薬が何の薬かなんてクラウスには聞かなかった。おそらく自白剤だ。途端の目の前の景色がぼんやりしたり歪んだりして見えてくる。
 昔、シュトラウスが教えてくれた。『自白剤は人の脳を破壊する。あれは自分からすらすら喋りたくなる類のものではない。意識が朦朧とし、核心に誘導されてしまう。打たれたら最期と思え』――その『最期』の意味は自決する覚悟かと聞いたら、彼は違うと首を振った。
『あの薬は人を壊す。そんなものを使う連中はクズだ。いずれおまえもクリスタライズを持って出たら、遠慮なく起動させて軍人の矜持を見せつけてやれ』と。
 とはいえ、ミズキに夜伽をさせていたせいか、シュトラウスはクリスタライズをミズキに埋めようとはせず、グスタフと一緒に出る前になって、やっと持たせてくれた。
 薬を使うのは人間のクズと言っていたシュトラウスやアルベルトは、ミズキの身体に催淫剤をよく使用していた。もっぱら座薬が多く、はやく男を受け入れられる蜜壺を作るには、座薬が一番早いのだと言っていた。
 何のかの理屈を並べたって、どいつもこいつも気軽に妙な薬を使う。使わなかったのは――ああ、ミハイルくらいだ。彼が飲ませてくれたのは痛み止め。ちゃんとミズキの傷を治療するための薬だった。
 そんなことをふっと思い出していると、何やら身体がふわふわ浮いたような感覚に襲われた。酒なんか飲まないけれど、酔っぱらった感じってこんなのかと考えていると、いきなりクラウスに顎を掴まれた。
「効いてきたな?」
「少しは友好的に見えるかな?」
「ふっ、もう言葉があやしくなっているな。しかし、貴様は要人を狙う狙撃手だ。捕らえられた時の訓練くらいしているんだろう? なにせあの国は――」
 まだ意識ははっきりしているが、舌がうまく動かない気がする。
 クラウスは右手で拳を作り、ミズキの胸に押し当てた。
「貴様のような子供にも平気でクリスタライズを抱かせる国だ。ああ、そうだ、忘れていた」
 クラウスはポケットからマウスピースを取り出した。それを無理矢理ミズキの口に押し込んだ。
「うーっ!!」
「貴様に余計なことをしゃべられると困る」
やめろとか叫ぶ間もなく、そのまま粘着テープを口に貼られ、マウスピースががっちりと固定された。
「うーっ、んぐー!」
「まだ自我があるようだな。この状況では尋問はまだだ」
 クラウスはまた、テーブルからさっきの注射器とアンプルを取り、ミズキの目の前でそれを振った。
「さて、こちらの用件を何でもしゃべるいい子になるまで、何本必要かな?」
 クラウスは愉しげに笑うと、アンプルの先端を折る。ぱきんと音がして、アルコールのような、なにか薬の匂いがミズキの鼻を刺激した。
「うう……」
 いったい何本打つ気だ。薬に耐性があるほうじゃない。
『自白剤は人間の脳を破壊する。打たれたら最期と思え』
 シュトラウスの声がふいに聞こえた気がして、途端にその薬への不安が急激に増す。
 自分はどうなってしまう? もしや廃人のようになってしまうのか。
 (いやだ、いやだ、いやだ!)
 怖くなって動かない身体をばたつかせ、やめろと訴えてみるが、クラウスはニヤニヤ笑うばかりだった。
「そう急かすな」
(違う! 僕にそんなものを打たないで!)
 もし廃人になって、全部わけがわからなくなって、生きたまま人間の尊厳を失くすような恥辱を受けるくらいなら、クリスタライズで爆死した方が何倍もマシだ!
 必死に暴れてみても、がっちり拘束されていて動けやしない。
「ううーっ!!」
「そんなに気に入ったのか。貴様とは仲良くやれそうだな?」
 注射針をアンプルに漬け、中の薬液を吸い出し始める。
「時間には限りがある。互いにいい関係を築こうじゃないか」
 すべて吸い終えると、クラウスはミズキの首筋を優しく撫でた。
「貴様の肌はきめが細かいな。なるべく少ない本数で貴様にはいい子になってもらいたい。この滑らかな肌に醜い内出斑ができるのが先か、貴様が貴様でなくなるのが先か、どちらが早いかな」
言いながら、薬剤滴る注射器がミズキの首筋に当てられる。
「さあ、待ちわびたおかわりだぞ。存分に味わうがいい、オッドアイスナイパーよ」

****

 ミズキの足元には何本ものアンプルが転がっていた。それらはすべて空で、ミズキの目で数えられる限りでも4、5本はあるように見えた。
 目の前の景色は高熱を浴びた鉄骨のようにグニャグニャと曲がってみえた。
「貴様、意外に耐性があったな。しかしもう、自分の意思でろくに話すこともできまい?」
「うう……」
 クラウスの声が正面から聞こえるのに、ミズキの目で見る彼の姿は。虹色の渦巻きだった。
(これは幻覚……? それとも僕はすでにどこか変な世界にいるんだろうか……)
 一生懸命状況を把握しようとしても、気分の悪さが思考能力を奪い去る。
 乗り物酔いにも似た気持ち悪さが胃のあたりでぐるぐると渦巻いているが、マウスピースを噛まされているせいで吐くどころか、口を開けることすらできない。
 この地下室はじめじめしている。気分が悪くなると、どんな些細な香りや光にも過敏になり、この部屋にいること自体がどんどん体調を悪化させる。
 綺麗な空気が吸いたい。せめて空でも見られたらいいのに。そんなかすかな期待を込めて上を見上げても、そこにあるのは裸電球だけだ。
「ふふ、もういいだろう。口枷を取ってやる」
 クラウスの手がミズキの頬を撫でた途端、勢いよく粘着テープが剥がされる。容赦ないそのやり方に鼻から下に激しい痛みが走り、ミズキは思わず悲鳴を上げた。
「おお、おお。頬が赤く腫れあがっているな。薄皮でも向けるかと思ったが、さすが残忍なディスタンシア人、面の皮も厚かったか」
 さもかわいそうだとばかりにクラウスの大きな手が、ミズキの両頬を包んだ。
「さあ、始めようかオッドアイ」
「う……」
「いい具合だな、もう喋る気も起こらないだろう。貴様はただ素直に応じていればいい。いいな?」
「は、い……」
 おかしなものだ。ここは尋問室のはずなのに、彼の声がミズキの頭の中で、幾重ものサラウンドを掛けたように響く。
「ここは……どこ……?」
 思わずクラウスに場所を尋ねると、クラウスはミズキの頭を撫でた。
「貴様を楽にするための場所だ」
「らく、に……?」
「ああ」
「ふう……ん」
 そうか、クラウスはミズキの気分の悪さを察してくれたのか。
「だがまずは質問に答えてもらうぞ?」
「はい……」
 ミズキがこくんと頷くと、クラウスは「いい子だ」とミズキを褒めた。
 この吐き気を止めてくれるなら、なんでもいい……。
「貴様は、アルベルト・ハノンという人物に心当たりはあるか?」
「アルベルト……?」
 ミズキの記憶には一人しかいない。ミズキはこくんと頷いた。
「間違いないか?」
苗字ラストネームは、わからない……」
 アルベルトの苗字など知らない。気が付いたときにはミズキのそばにいた人だ。
 シュトラウスとアルベルトは自分の父親のようなものだった。苛烈すぎではあるが。
 その、アルベルトの事だろうか。
「ではこの写真を見てみろ」
「……う」
 前髪を掴まれて、項垂れ気味だった顔を強制的に上げさせられる。目の前には色褪せたカラー写真。そこに写っていたのはクラリス軍の正装に身を包んだ、見知った顔。懐かしい人を見て安堵し、ミズキは口元に柔らかい笑みを浮かべた
「アル……ベルト……だ」
「貴様が知っているのは、この男か?」
「うん、アルベルト……ああ、僕を迎えに来てくれた……?」
 アルベルトに手を伸ばしたいのに、縛られている動けない身体がもどかしい。きっと彼は助けに来てくれたんだ。作戦に失敗したどころか、クラリス軍に捕らえられ、こんなところにいるなんてシュトラウスに知れたら、もう二度と外に出してもらえない。それどころかまた、あの淫らな日々が始まってしまう。
 アルベルトに何とかお願いしないと。「シュトラウスには喋らないで」って。
「離して、僕……帰らないと……!」
「帰る? どこにだ?」
「おじさんの……ところ」
「それはどこだ? アルベルトはそこにいるのか?」
「いる……シュトラウスおじさんと一緒……。地下……地下室……」
 激しい眩暈が襲い、自分がいるところが地面なのか、空なのかすらあやしい。ぐるぐる回る極彩色の幻の中に、自分を激しく抱いた二人の姿が見えた気がして、とたんに背筋が凍る。
 あのふたりは、この様子を見ているのだろうか。
 ミズキが捕まったこの様子を……。
「僕、ちゃんといい子になる……だからひどくしないで……」
「貴様はじゅうぶんいい子だ。それなのに、貴様は何を怯えている?」
「僕は、しないと……たくさんたくさん……」
 もはや質問者が誰なのかさえわからないまま聞こえる声に答えていると、また「貴様は何をするんだ?」と聞かれ、何度も何度も言わされたフレーズが口をついた。。
「僕は……ディスタンシアの……裏切り者……汚い僕に、激しい罰を与えて……ください」
「罰?」
 質問を投げる声が厳しさを帯びた。
「罰とはなんだ、オッドアイ」
「兵隊さんの精液で……汚い僕を……浄化して……ください」
 かつて何百回、何千回と言わされた呪いの懇願。
「僕は汚い……だから、だから、中にたくさん出してもらわないと……きれいになれない……」
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