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第一章
東京ラバーズ その①
しおりを挟む熱したフライパンにとき卵が流れ落ちると、ジュッという香ばしい音をたてた。
慣れた手つきで卵と刻んだほうれん草をフライパンの中でからめ、その横でコンソメベースの野菜スープを煮立てつつ、オーブンに厚切りの食パンをセットし、焼きあがる合間にテーブルの上に皿を並べる。
ダイニングキッチンで百合子が手際よく朝食の準備をしていると、廊下を駆けるスリッパの音が聞こえてきた。
夫が起きてきたのかなと百合子は思ったのだが、快活な声とともに食堂に姿を見せたのは娘の美和子だった。
「おはよう、お母さん」
「あら、美和子。今日はずいぶんと早いのね」
食堂にあらわれた娘を見て、百合子は皿をおく手を止めて軽く驚いた。
それも当然で、現在、通っている小学校は春休み中。
いつもであれば10時近くまで寝ているはずの娘が、今日にかぎってはまだ8時を過ぎたばかりだというのに一人で起きてきたのだ。
しかもパジャマ姿ではなく、背中に〈AIKE〉というロゴの入ったピンク色のスポーツウェアに着替え、肩口にまで伸びたロングボブの黒髪も、えり首のあたりでゴムできちんとまとめている。
どこかに外出しようとしているのは明らかだった。
「どこかに出かけるの、美和子?」
「うん。今日は美香ちゃんたちとね、フットサルをする約束をしているの」
なるほど、それでか。納得した百合子は小さくうなずいた。
「そうなの。ケガをしないように気をつけるのよ」
「わかってるって」
食堂内に漂うなんとも食欲をそそる匂いを吸いこみながら、美和子は冷蔵庫からプリンを取り出して椅子に座った。
その美和子に、ガスの火を弱めつつ百合子が声を向けた。
「ねえ、美和子。悪いけど、お父さんを起こしてきてくれない?」
「うん、いいよ」
プリンをひと口食べて美和子は椅子から立ちあがったが、立ちあがると同時にふと心づいて、小さく首をかしげた。
「あれ、お父さんって今日、試合だっけ?」
「ううん、ちがうわよ。でも、今日はチームの入団テストがあって、お父さんも審査員として出なくちゃならないのよ。テストは午後一時からだけど、その前にいろいろと会議やら準備やらがあるらしいから」
「あっ、そっか。今日は入団テストの日か」
納得した美和子は、できあがったばかりの卵とほうれん草のソテーを百合子が手際よく皿に盛るのを見つめながら、ふたたび声を向けた。
なにやら可笑しげで、今にも笑いだしそうな口調である。
「ねえ、お母さん。テストに誰かいい選手くるかな?」
「さあ、どうかしらね」
百合子はなかば聞き流した態で応じると、「はい、これは美和子のね」と卵とほうれん草のソテーを盛った皿をテーブルにおいた。
続いてサラダボールを手にした母親に、さらに美和子が半分笑った顔で言う。
「お父さんのチームってさ、めちゃくちゃ弱いから上手な選手とか有名な選手とか、そういう選手って誰も来たがらないんだよね。おまけにビンボーだし」
「なまいき言わないの」
事実だが身も蓋もない娘の言いぐさに、サラダボールを押しやっていた百合子はつい吹きだしてしまった。「まあ、たしかにそのとおりだけど」という内なるつぶやきは、むろん美和子に聞こえるものではない。
「さあ、つまらないこと言ってないで、早くお父さんを起こしてきてちょうだい」
「うん、わかった」
快活な声をあげて美和子は食堂を飛びだし、奥の部屋へと走っていった。
この四月から小学五年生になる美和子は、いかにも元気の塊である。
女子のフットサルチームで、まだ四年生ながらレギュラーを張る選手というのも納得の脚力を見せて、父親の寝室へと駆けこんでいった。
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