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第一章
東京ラバーズ その②
しおりを挟む新宿駅は東京の新都心に位置するターミナル駅であり、JRや私鉄、都営地下鉄などの各路線が無数に乗り入れている、日本を代表する巨大駅である。
一日の利用乗客数は約三百五十万人。これはギネスにも記録されている世界一の数で、JRの駅を中心に東西南口、周辺の各地下鉄駅、商業施設などが通路や地下街で緊密につながっている。
三月も半分が過ぎたこの日。新宿駅界隈は日曜日の昼ということもあって、目の前の甲州街道は往来する無数の車両で、車道の両側に敷設されている歩道は都心に行楽に来た多くの人々でともにごったがえしていた。
その街道沿いの歩道を駅とは反対方向に涼が歩いていたのは、正午まで三十分をきった時分のことである。
薄地の黒いタートルネックのセーターにジーンズというシンプルな装いは、三月の外出着としては軽装すぎるように思えるが、季節はずれの陽気が続いている昨今にはむしろふさわしいものだ。
涼がブラジルから帰国して、この日で五日ほどが過ぎていた。
この間、家族ともども都内の新居に落ちつき、春休み明けから転入先の高校に通うまでの時間を自宅で過ごしていたのだが、さすがに五日も経つと時間を持てあますようになった。
そこで今日は、暇つぶしに映画でも観ようと自宅のある調布市から新宿まで足を運んだわけなのだが、自宅を出てきたのは涼一人ではなかった。
彼には同行者がいて、その同行者というのが……。
「ねえ、涼。ちょっとこれ見てよ!」
ランチを取るために向かっていた駅近くの商業ビルまであと五十メートルという所で、名前を呼ばれた涼はにわかにその足を止めた。
もっとも、振り返って確認しなくとも呼んだ相手はわかる。
この場に、否、都内どころか日本中を捜しても、「兄」である自分を「お兄ちゃん」ではなく「涼」と名前で呼ぶ人間は一人しかいないのだから。
それでもある種の嫌な予感をおぼえた涼はゆっくりと振り返り、歩道の先に視線を走らせた。
クリームホワイトのタートルネックのセーターに、黒のフレアスカートという服装の女の子が一人、歩道の一角に立ち止まって何かを見ていた。
涼の双子の妹である蘭である。
妹の蘭はこの年、兄の涼と同じ十六歳になる。
背中まで伸びたストレートの髪は濡れたように黒く、それとは対照的な白皙の肌、輪郭のくっきりとした顔だち、秀麗にととのった眉目、ふっくらとした唇で構成される容姿は十分に「美少女」といえた。
歩道を行きちがう同年代の若者たちが「おっ、可愛い」と、すれちがいざまにやたら視線を向けてくるのも当然かもしれないが、当の蘭はというとそんな好意的な視線など歯牙にもかけず、ついでに通りを往来する数多の歩行者の流れも気にとめず、路上の一角に立ち止まって、路肩に設けられた掲示板らしきものをくいるように見つめていた。
歩行者の流れが激しい歩道の真ん中で立ち止まるなど、ほかの通行人からすれば迷惑以外の何者でもないが、当の蘭はわれ関せずの態で掲示板を見つめている。
昔から他人の迷惑など歯牙にもかけない「図太い」その性格を知り尽くしているだけに、涼は小さく吐息すると足早に近寄っていった。
「そんなところで何をしているんだ、蘭。通行の邪魔になるだろうが」
「いいからこれを見てよ、涼」
兄の苦言をあっさり聞き流すと、蘭はなにやら興奮した態で目の前の掲示板を指さした。
やれやれと言いたげな表情で涼も掲示板に視線を向けると、そこにはさまざま種類のポスターが板面を埋めつくすように貼られてあった。
新宿近郊で開催される自治体主催のイベントの告知ポスターがほとんどを占めていたが、蘭が見ていたのはその中でも、複数のサッカー選手の写真が入ったポスターである。
そこには一面に大きな文字で、
〈きたれ救世主。東京ラバーズ入団テスト。本日、午後一時開始〉
〈参加費は無料。当日も参加受付けを実施中〉
〈参加資格は十六歳から。明日のラバーズを背負うのは君だ!〉
と、書かれてあった。蘭が涼に向き直る。
「ねえ、これってプロのサッカークラブが選手を募集しているのよね?」
「ポスターにはそう書いてあるな」
端的に応じると、涼は思いだしたように語をつないだ。
「そういえば、東京にはいくつかのプロサッカークラブがあるって父さんが言っていたな。たぶん、そのひとつじゃないかな。この東京ラバーズというのは」
「ふうん、そうなんだ」
納得したように蘭はうなずき、ふたたび掲示板に向き直ったのだが、すぐに何かを思案するような表情に変わった。
なにやら思惑に満ちた顔つきで涼に向き直ったのは、それから十秒後のことだ。
「それにしても運がいいわね、涼は」
「うん、何のことだ?」
「こっちでもサッカークラブに入りたいって言っていたでしょう。帰国した早々、所属先が見つかったじゃないの」
「おいおい……」
涼はわずかに眉をひそめると、呆れた表情で蘭の顔を見返した。
このテストを受けてみなさいよ、と、暗にそう言っていることに気づいたからだ。
「よくポスターを見ろ。これはプロの選手を募集するテストだ。下部組織の選手を募集するテストじゃないぞ」
「だったら、いい機会だからこの際、プロになっちゃえば……あっ!」
言いかけてふと横を見やったとき、蘭はおもわず両目をむいた。
歩道を行き交う人々の群に溶けこむように、涼が軽やかな足どりで離れていったからだ。
付き合っていられん。そう言いたげに歩き去っていく涼の姿に仰天した蘭は、「ま、待ってよ、涼!」と、慌てて追いかけていった。
涼が口にしたジュベニールとは、ブラジル国内で十五歳から十七歳までの世代が所属する下部組織を指す用語で、日本ではユースという名称で呼ばれている。
ブラジルにはこのほかにもインファンチル(十歳~十四歳)とジュニオール(十七歳~二十歳)という、世代別のカテゴリーが存在する。
まるで自分の思惑を見透かしたかのように、否、あきらかに見透かして入団テストにまったく感心をしめそうとしない涼に、蘭は並んで歩きながらなおもくいさがった。
「別にいいじゃないの。プロの選手になりたいんでしょう?」
「いつかはな。今じゃない」
そっけない涼の態度に蘭は不機嫌のきわみ、顔中にぶすっとした表情を広げたが、それもごく短時間のことだった。
数種類の表情がその面上に浮かんでは消えた後、またしても薄い笑いがその口もとをかざった。
正面からの説得は無理と見て、「側面」から翻意を迫ることにしたのである。
「だったら、どうするのよ?」
頭ひとつ分高い位置にある涼の顔を見あげながら蘭が訊いた。
質問の意味がわからず、涼は妹の端麗な顔を見やった。
「どうするって、何がだ?」
「新しい学校に転入するまで、まだ半月以上もあるのよ。それまで何をしている気なの。まさか、毎日のように映画館にくりだしたり、入学するまでずっと家にひきこもっているつもりじゃないでしょうね?」
「それは……」
涼は返答に窮した。
たしかに蘭の言うとおり、転入先の高校に入学するまでまだ時間がある。
その間、家にいてもこれといってやることはたしかにない。
いくら映画が好きといっても、まさか毎日のように映画館にくりだす気にもなれないが。だからといってプロチームの入団テストを受けなければならない理由にはならないと思うのだが……。
「あと半月以上も家の中に閉じこもっている気? その間、なにもせずぶらぶらしていたら、せっかくブラジルで磨いたテクニックが錆びちゃうわよ。それでもいいの?」
「それは、よくはないけどさ」
「でしょう。だったら家にひきこもっているくらいなら、駄目もとでいいからテストを受けたほうが、涼のためになると思うわよ、私は」
なるほど、そういう考え方もあるのか。蘭の意見に涼は内心で感心したが、声にも表情にもだすことはなかった。
だが、生来より十六年の付き合いになる双子の妹は、兄の表情に生じた心情の微妙な発露を見逃さなかった。
あご先に軽く指をあて、それまでとは異なる目色で涼の顔を見つめる。
(……これは、もうひと押しでいけるわね)
無言で歩き続ける涼の表情からそう分析した蘭は、さらに別の角度から攻めることにした。
「それにこう考えたらどうかしら。たしかにあれはプロの選手を募集するテストだけど、とりあえず参加して関係者の目に止まれば、『君、うちの下部組織に入らないか?』って誘われる可能性もあるわ。ううん、涼の実力なら絶対よ。そう思わない?」
「そうかあ?」
予想に反して返ってきた懐疑の声に、蘭はあやうくつまづきそうになった。
(もう、今日はやけに意固地じゃないのよ!)
なかなか思うような反応を見せない涼に蘭は内心で舌打ちしたが、それでも諦めることなくさらにさらに別の角度から説得をはかる。
「むずかしく考える必要はないのよ。プロ選手を相手に自分のレベルがどのくらい通用するか。それを試すいい機会だと思えばいいのよ。プロになるとかどうかなんて考えないで、腕試しだと思って、受けるだけ受けてみたらどう。あくまで腕試しよ、腕試し!」
蘭はとくに「腕試し」というところを強調した。
涼を軟化させるためにとっさに思いついた言葉であったのだが、どうやらそれが奏功したらしい。
それまでテストに対してかたくなだった涼の態度に、ようやく変化の兆しが見られだしたのだ。
「腕試しねぇ……」
こういう場合「足試し」と言うんじゃないのかな、などと胸の中でつぶやいた後、涼はふっと微笑をこぼした。
何かが氷解した笑いだった。
「たしかにおもしろそうだな。ほかにやることもないし」
蘭の思惑に乗せられるのは癪だが、一方で、ブラジルで磨いた自分のテクニックが、日本のプロ選手相手にどのくらい通用するかという好奇心もわいてきた。
考えてもみれば、たしかに蘭の言うとおり日本(こつち)でもサッカーチームに入団しようと考えていたのだ。
入団を希望する特定のクラブがあるわけでもないし、帰国した早々、こうしてクラブの存在とテストの件を知ったのも何かの縁かもしれない……。
涼は歩きながら、頭ひとつ分低い位置にある蘭の顔を見つめた。
「そうだな……じゃあ、受けるだけ受けてみるか?」
「本当!?」
嬉々として瞳を輝かせる蘭に、涼がうなずいてみせる。
「ああ。だけど、テストに不合格になったからって、終わった後でネチネチと嫌味を言うなよ。『恥ずかしいわね』とか『一生、プロは無理ね』とかさ」
「やあね、涼ったら。そんな嫌味なこと、私が言うわけないじゃない。ホホホ」
わざとらしく笑う蘭になにやら物言いたげな涼であったが、声に出して訊いたのは別のことである。
「ところで、入団テストはどこでやっているんだ?」
「あっ、待ってて。今、メモしてくるからね」
蘭はくるりと踵を返すと、そのまま掲示板のほうに走っていった。
†
「待ってよ、優子!」
突然、背後から聞こえてきた、というより、とどろいてきたその声に、澤村優子は足を止めた。
振り返った先に見たのは、友人でクラスメートの篠原由美が垂直にあげた腕を左右に振りながら校舎内の廊下を駆けてくる姿だった。
この日、二人の通う学校は春休みの真っ直中。校舎内に人の気配はまばらで、静寂が紗のカーテンのように広がっていた。
そのせいもあって、廊下を駆ける足音がまるで進軍ラッパのように通路内によく響きわたる。
「由美、走らなくていいわよ。ここで待っているから!」
優子は大声で言ったのだが、暴れ牛のような勢いで廊下を走るクラスメートの足が止まる気配はまったくない。
結局、傍に来るまでその足は止まることはなく、ハアハアと肩で息を切らせる由美に優子が呆れたように声を向けた。
「もう、由美ったら。何をあわてているのよ?」
「だ、だってぇ、教室に戻ったら優子がいないんだもの。私をおいてさっさと帰ったんじゃないかと思って、びっくりしたわよ」
額からは汗、口からは荒い息と抗議を同時に吐きだす由美に、優子は端麗な口もとを可笑しげにほころばせた。
「先に帰るわけないじゃない。今さっき、部室にプリント用紙を運んでおいてって、吉田先生に頼まれただけよ。今から教室に戻るところだったのよ」
「だったら先に言ってよ。あわてて損したじゃない」
「先に言うもなにも、その場にいない人間にどうやって伝えるのよ?」
「あっ、そうか」
自分のとんちんかんぶりに由美は笑いだし、つられて優子も吹きだした。
澤村優子と篠原由美は、ともに十六歳。都内は板橋本町にほど近い私立明京高校に通う高校生で、四月からは二年生になる。二人は小学校からの同級生で、高校ではともに吹奏楽部に所属していた。
ボーイッシュなショートの黒髪に、ほっそりとした身体の優子。
薄い茶色かかったセミロングの髪に、ややぽっちゃりとした身体の由美。
外見上の「微妙」なちがいはあるものの、たいそう気の合う二人は小学校からの仲である。
春休みの今日、二人は午前中だけのクラブ活動を終えて、これから帰宅の途につこうとしていた。
「それにしても今日って、なんかやたら暑いと思わない、優子?」
廊下を並んで歩きながら声を向けてきた由美に、「それは廊下を走ってきたからでしょう」と優子は内心で笑ったが、一方で、たしかに三月とは思えない陽気であることを優子自身も感じていた。
「うん、たしかにね。今日というか、ここ数日、やけにいい陽気よね。ついこの間まで雪が降っていたのが嘘みたい」
今年に入ってから今月の初め頃まで、東京を含めた関東地方は、巷で騒がれている地球温暖化現象を鼻で笑うような厳しい寒さが続いていた。
今月だけでも雪が降ること二度。日中の気温が零度前後を観測する日などは、ほぼ毎日のことだった。
それが今週に入ってからは一転、気温はV字上昇を続け、連日、五月や六月並の気温を記録するようになり、今日などはちょっとした運動でも汗ばむほどの陽気である。
だからであろう。校舎の窓はほとんどが開け放たれ、陽気を帯びた微風がそこから建物の中へと流れこんできていた。
これが夏の時期であれば、校内各所に生え茂る木々にとりついた蝉の群が不協和音だらけの鳴き声をえんえんと響かせてくるところだが、三月半ばのこの時期。聞こえてくるのは部活動に精を出す生徒たちの声ばかりだ。
武道館からは竹刀を打ちかわす音に、それにつらなる気迫のこもった叫び声。
体育館からはボールが床板の上をバウンドする音に、館内を駆ける無数の疾駆音と重なりあう気迫のこもった部員のかけ声。
武道館や体育館よりも、さらに校舎から離れた場所にあるグラウンドからは、無数の叫び声にまじって「キーン」という甲高い金属音が、距離感をまったく感じさせずに何度も響いてくる。野球部員が金属バットでボールを打っているのだろう。
「ねえ、優子。これからうちに遊びにこない? この前の日曜日にね、キャツーンのライブDVDを買ったのよ」
由美がそう誘いの声を向けたのは、校舎の三階から二階へと降りる階段の踊り場にいたったときである。
自身も大ファンのアイドルグループということもあり、ふたつ返事で誘いに応じようとした優子であったが、ふと心づいて申し訳なさそうに両手を合わせた。
「ごめん、由美。今日はこれから大事な用があるのよ」
「えっ、大事な用?」
小さくうなずく優子の顔をきょとんとした顔で直視したのも束の間。たちまち由美の表情が驚きのそれに一変した。
「ま、まさか、デート 相手はいったいどこの誰よ!」
「ちょ、ちょっと、由美。なに勘違いしているのよ。ちがうわよ」
「それじゃ、何よ?」
「ほら、今日はラバーズの入団テストがあるでしょう。うちのお父さんも審査員として立ち会うから、見学に行こうと思ってね」
優子の父の澤村和己は、東京ラバーズのヘッドコーチを務めているのだ。
むろん、そのことを由美は知っている。知らなかったのはテストの実施日のほうだ。
「そういえば今日だっけ、入団テストって?」
「そうよ。どんな選手が来るか楽しみだわ。いい選手が入ってくれば、ラバーズの成績だって上向くはずだしね」
「でも、あのチームじゃ、誰が来たって焼け石に水じゃないの?」
という由美の一語は「なにげない」「さりげない」「悪意のない」の三拍子そろったものであったが、熱心なラバーズファンである優子の気分を害するには十分だった。
たちまち両目の端をつりあげて、友人の酷評に猛反論する。
「なに言ってるのよ! リーグ戦はまだ開幕したばかりじゃない。まだまだこれからよ、これから」
そう力説する優子に「そうかしら?」と由美ははなはだ疑問だったが、優子を怒らせたくなかったので、
「そうよね。まだ開幕したばかりだもんね」
と、熱のない声で心にもないことを言うのだった。
気分を直した優子が満足そうにうなずく。
「そうよ、まだまだこれからよ。ゴールキーパーは一流なんだから、あとは得点力のあるフォワードがいて、運動力の豊富なミッドフィールダーがいて、守備の堅いディフェンダーさえいれば、降格争いなんかしなくて……」
「あっ、オルビッシュ君!」
ふいに由美が声をあげた。
その声に優子が階段口に視線を走らせたとき、野球のユニフォームを着た長身の男子生徒が、ゆっくりと階段を降りてくる姿が見えた。
名前をオルビッシュ潤といい、優子と由美の同級生である。
オルビッシュのほうも二人に気づき、陽気な声をかけてきた。
「よう、二人とも。これから吹奏楽部の練習か?」
「ううん。今日の練習は午前中だけ。これから帰るのよ。ねっ、優子」
由美が声を向けると、優子は無言でうなずいた。
高校のインターナショナルコースに通うオルビッシュ潤は十六歳。アメリカ人の父と日本人の母を持つハーフで、優子や由美と同じく四月から二年生になる。
高校野球の強豪校として全国的に知られる明京高校野球部にあって、昨年は一年生ながらエースとして甲子園大会に出場。190センチを越える長身からくりだされる速球を武器に、それまで低迷していた明京野球部を七年ぶりのベスト4にまで導いた。
今春の選抜大会出場は逃したものの、今夏の大会において、十年ぶりの全国制覇を彼の豪腕に期待する声は多い。
甲子園のスター。イケメンのハーフ。くわえて、将来プロ野球選手になることを確実視されているとあっては、周囲の女子生徒たちが騒がないはずがない。
むろん由美も例外ではなく、オルビッシュに密かに想いを寄せていた。
明京高校の女子生徒で彼にまったく「関心」をしめさないのは、由美いわく「筋金入りのサッカーオタク」である優子くらいなものだろう。
「オルビッシュ君、今日も練習なの?」
由美がそう訊ねると、オルビッシュはしかめっ面でうなずき、
「ないほうがめずらしいよ。うちはとくにきついからな。せっかくの春休みだっていうのに、合宿で朝から晩まで練習、練習だしさ。まったく嫌になるぜ」
オルビッシュの練習嫌いはつとに有名であり、その本心からのぼやきに、優子と由美は苦笑せずにはいられなかった。
そのオルビッシュに、階下から誰かが声を放ってきた。
「おい、潤。何をやっているんだ。早く行くぞ!」
「おう、今行くよ!」
階下に向かって叫び返すと、オルビッシュは二人に向き直り、
「じゃあ、二人とも。始業式に会おうぜ」
と、軽く手を振ってオルビッシュは階段を駆け降りていった。
その足音が聞こえなくなるのを待ってから、由美は優子に声を向けた。
「ねえ、優子。オルビッシュ君って、やっぱりかっこいいわよね。そう思わない?」
「そうね」
応じた優子の声に「熱意」というものはほとんど含まれていなかったが、それに気づかなかった由美はかまわずに語をつないだ。
「背が高くてイケメンで野球がうまくてさ。まあ、勉強のほうはあれだけど、将来、プロ野球選手になる人に学歴なんて関係ないもんね」
「そう? うちのお父さんは『スポーツ選手にも学歴は必要だ』って言っているけど。現役生活よりも、その後の人生のほうが長いからって」
「優子って……」
言いさして口を閉じた由美は、まじまじと優子の顔を見つめた。
なにやら珍獣でも見るかのような目つきである。
「何よ?」
「ほんと、サッカーことしか頭にないのね。彼氏とか欲しくないわけ?」
それは皮肉というよりも本心から不思議がっている口調だったので、そのことに気づいた優子は苦笑いするしかなかった。
「そんなわけないでしょう。私だって、彼氏の一人くらい欲しいわよ」
「ふうん……あっ、そうそう。これって噂で聞いた話なんだけどね」
ふいに何事かを思いだした由美は、周囲に人の気配は皆無にもかかわらず、なぜともなく声をひそめた。
「これって別のクラスの子から聞いた話なんだけどね。オルビッシュ君って、じつは優子に気があるんじゃないかって、もっぱらの噂なのよ」
「あら、大変。ファンの女の子たちに襲われないように気をつけなきゃ」
「もう、優子ったら!」
おどけたような優子の態度に、おもわず由美は吹きだしてしまった。
「まったく、いったいどんな人がタイプなのよ。正直に言いなさい」
「決まっているじゃない、サッカーが好きな人よ。別に選手である必要はないけどね」
「じゃあ、オルビッシュ君は圏外ね。よかった、強力なライバルが一人減って」
安堵の表情を浮かべる由美に、優子はいささか人の悪い笑みを向けた。
「でも、オルビッシュ君が相手じゃ、一人や二人減ったところで、たいして変わらないんじゃないの?」
「もう、それを言わないでよ!」
二人は笑い声をあげながら校舎から出ていった。
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