フッチボウ!

藤沢五十鈴

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第一章

東京ラバーズ その⑥

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 制服姿の優子と由美が慌てた様子で小平グラウンドにやってきたのは、午後1時を20分ほど過ぎたときであった。
 
 ただでさえ開始時間に遅れていたところに最初に向かったサブグラウンドに人の姿がなく、芝の調整をしていたチームの関係者から会場の変更を聞いた二人はさらに慌てふためき、急ぎメイングラウンドへの道を駆けてきたのだ。
 
 それだけに、ストレッチなどテスト前のウォーミングアップに励んでいる選手たちの姿を見て、優子の顔に安堵の色が広がった。

「よかった。まだ始まってないみたいね」
 
 ほっと息を漏らす優子に、後背を歩いていた由美が笑い声を放ってきた。

「だから言ったでしょう、慌てる必要なんかないって。ほんと、優子はせっかちなんだからね」

「なに言ってるのよ。由美が途中でコンビニなんかに立ち寄らなければ、こんなにあわてることもなかったのよ。おまけに雑誌まで立ち読みしようとするし」

「だってぇ、これがないと見学なんかすぐに飽きちゃうじゃない」

 そう言って由美が抱えあげて見せたのは、コンビニのビニール袋である。
 
 中には練習場近くにあるコンビニで購入したチョコレート系のお菓子が袋いっぱいに詰め込まれていた。
  
 そんなに買ってどうするのよ。由美を見やる優子の表情はそう言いたげであったが、声にだしたのは別のことである。


「さてと、どこで見学しようか」

 二人はさっそくグラウンドに敷設された見学エリアに向かったのだが、そこで見た光景は悲惨の一語だった。
 
 見学用のベンチはポリエチレン製で、本来、剛性や耐候性にすぐれているはずなのだが、長年、雨風にさらされているせいか、いたる所がひび割れていたりと破損し、しかも補修されずに放置されている。
 
 破損していないベンチにしたところで、表面に黒いカビのようなものがびっしりと繁殖していたり、鳥の糞がついたまま掃除もされずにいたりと、とても座れたものではなかった。

 たまらず由美が憤慨の声をあげる。

「なんなのよ、もう。どこもかしこも壊れているわ汚いわで、どうしようもないわね」

「あそこがいいんじゃない。ほら、座っている人もいるし」

 優子が指ししめしたベンチには、自分たちと同年代と思える一人の少女が座っていた。
  
 背中まで伸びた黒髪の少女の名を久住蘭といい、ブラジルからの帰国子女で、双子の兄をなかば強引に入団テストに駆りだし、そのテストの開始を「さっさと始めなさいよ」だの「いつまで待たせるつもりよ、まったく」だのと、ぶつぶつと文句を口にしながら待っているというその辺の事情を、むろん優子と由美が知るはずもない。

「あの、すみません」

 背後から聞こえてきた優子の声に、蘭が振り返る。

「私?」

「ええ。ここに座ってもいいですか。ほかのベンチ、壊れていたり汚れていて」

「うん、いいわよ。ほかに誰もいないから」

 そう言って、蘭はにっこりと笑った。

 感じのよい笑顔もさることながら、化粧気などほとんどないのに人目を惹かずにはいられないだろうと思われる蘭の白皙の容姿に、「綺麗な子ね」とおもわず優子は感心したように胸の中でつぶやいた。 
 
 それはともかく、この世代の女の子が三人も集まれば初対面であろうと顔見知りでなかろうと、無言無口な状態が続くわけもなく、三人も例外ではなかった。
 
 まして蘭と優子は、自他ともに認める筋金入りのサッカーフリークである。由美の持参したお菓子を食べながらたちまちサッカー談義に夢中になった。

「今、世界の主流はゼロトップね。いわゆるノー・フォワードいうやつよ」
 
 だの

「現代サッカーの花形ポジションは、やっぱりボランチよ」
 
 だのと、自分以上に「業界事情」に精通している蘭に優子は内心で驚いたが、ブラジルで暮らしていたと聞いて納得したものである。

「へえ、ブラジルから来たんだ?」

「そうよ。来月からこっちの学校に通うの。明京高校っていうところにね」

「えっ、明京高校?」

 一瞬、優子と由美は驚いたように顔を見あわせた。

「知っているの?」

「知っているもなにも、私たち、その明京高校の生徒なのよ。ねえ、優子」

「うん。四月から二年生よ」
 
 すると、今度は蘭のほうが驚いたらしく、両目をパチクリさせて二人の顔を交互に見つめた。

「本当? 私も二年生なのよ。すごい偶然ね」

「本当よね。一緒のクラスになれるといいわね」
 
 優子が笑って応えたとき、笛の音がグラウンドから響いてきた。
 
 三人が同時に視線を転じた先では、番号が入ったビブス(メッシュ素材の練習着)を身に着けた選手たちが六人一組で横一列に並び、ドリブルテストに臨もうとしている姿が見えた。
 
 さらに視界を遠くに広げたとき、由美はグラウンドの一隅に澤村と伊原の姿を見つけ、優子の肩をたたいた。

「見てよ、優子。おじさんよ。それに伊原さんもいるわ」

「本当だ。へえ、伊原さんまで来ているんだ」

 オフなのに伊原さんも大変ね。そう言いたげに微笑する優子に蘭が訊ねた。

「知りあいでもいるの?」

「うん。私のお父さんってね、元プロサッカー選手で、今はこのチームのヘッドコーチをしているの。今日は審査員の一人として来ているんだけどね」

「そうなの……どうりでやたらサッカーに詳しいと思ったわよ」

 真顔で感心する蘭にまじまじと見つめられて、優子は照れくさそうに笑った。

「そんなこと……あなたにくらべたら、全然たいしたことないわよ」

「ふふん、そりゃまあね」
 
 一瞬、優子は反応を選びそこなってしまった。謙遜の「け」の字もない蘭の態度に、つい面食らってしまったのだ。
 
 もっとも、きょとんとした後におもわず苦笑を漏らしたのは別に気分を害したからではない。「さすがに帰国子女ね」と、むしろ感心したのだ。

 その優子がふと心づき、蘭に訊ねた。

「そういえば、双子のお兄さんがいるって言ったわよね。今日は一緒に来ていないの?」

「ううん、来てるわよ」

 蘭は板チョコを口にくわえたまま頭を振り、グラウンドの一角を指さした。

「ほら、あそこ。20番のビブスを着けている選手。あれがそうよ」

「えっ?」
 
 優子はまたしてもきょとんとした表情で蘭に向き直った。
 
 蘭の発した言葉の意味をとっさに理解しそこねたのだ。
 
 時間にして十秒ほどの沈黙後、優子はグラウンドに視線を転じた。
 
 その一隅で、一人黙々とストレッチに励む涼の姿を見つけるまで時間は必要としなかったが、なぜグラウンドにいるのかという疑問の答えを見出すまでには、なお時間を要した。
 
 ビブスを着けてグラウンドにいるということは、入団テストを受けるテスト選手ということだ。

 だが双子というからには蘭と、つまり自分たちと同じ年齢のはず……。

「お兄さんって、高校生よね?」

「そうよ。双子だもん」

「ええっ、高校生なのに入団テストを受けにきたの!?」
 
 驚きのあまり両目と口で三つのゼロを顔に形つくった由美に、蘭は「チッチッ」と指を左右に振ってみせた。

「うちの涼をあまく見ないでほしいわね。年齢は高校生でも、サッカー年齢はとっくにプロなんだからね」

 なんのこっちゃ? と由美は思ったが、優子だけは蘭の言わんとしていることを理解したようである。納得したように小さくうなずき、

「つまり、自分のレベルにそうとう自信があるってことよね。ブラジルに住んでいたときもサッカーをやっていたんでしょう?」

「もちろんよ。なにしろうちの涼は、あのサンパウロFCの選手だったんだからね」
  
 蘭は得意顔で言った後、「下部組織だけどね」と低声で補足したが、優子から驚きの感情を奪うことはなかった。

「サンパウロFCって、あの名門クラブの!?」
 
 蘭の一語に、今度は優子が両目と口で三つのゼロを面上に形つくった。
 
 小さく開かれたその口からは、なかなか次の言葉が出てこない。
 
 かわりに声を発したのは由美だ。

「知っているの、優子?」

「あたりまえじゃない。ブラジルのサンパウロFCといったら世界的なビッグクラブよ。ほら、クラブワールドカップでも何度も優勝しているじゃないの」

「クラブワールドカップ? そんな大会あったっけ?」

「…………」
 
 これ以上の会話は無意味であることを悟った優子は小さく吐息し、蘭に向き直った。

「それにしてもすごいわ。あのサンパウロFCでプレーしていたなんて」

「ふふん、まあね」

 またしても得意顔を浮かべると、蘭は腕を組み、しみじみとした口調で語をつないだ。

「下部組織時代、そこの監督さんがよく言っていたわ。涼がブラジル人なら将来、まちがいなくセレソンに選ばれていたってね」

「セレソンに? すごいじゃないの、それって」
 
 優子はまたしても目を丸くさせた。

 自他ともに認めるサッカーフリークだけあって、その言葉が持つ意味を即座に理解したのだ。
 
 一方、優子ほどサッカーへの関心も知識もない由美は今ひとつ理解できないらしく、きょとんとした表情で優子にささやいた。

「ねえ、優子。セレソンってなに? 野菜かなにか?」

「それはクレソンでしょう。セレソンというのはブラジル代表チームの愛称よ。つまり彼女のお兄さんは、ブラジル代表に選ばれるくらいレベルが高い選手ってことよ」

「ふうん、そうなんだ……」
  
 とりあえず納得した由美はグラウンド内に視線を転じ、そこにいる選手たちを眺めやりつつ手にする板チョコをかじろうとしたのだが、ふいにその手の動きが止まった。
  
 お世辞にもサッカー界に詳しいとは言えない由美であるが、そんな彼女でも一目でわかる「有名人」を選手たちの中に見つけたのだ。
  
 愛木たちチームの幹部が陣取る仮設テントの近くでやたら大声をはりあげながら、他の選手とボール回しをしている小柄な金髪頭の選手に。

「ちょ、ちょっと、あれっ!?」
 
 突然、金属質の声を噴きだした由美に、驚いた蘭と優子がおもわず目をみはる。

「ど、どうしたのよ、由美。いきなり素頓狂な声を出して……?」

「ほら、あれよ。10番のビブスを着けたあの金髪の選手。あれって園田じゃないの?」

「ええっ?」
 
 グラウンド内に視線を走らせた優子が、目的の人物を視認するまで時間は必要としなかった。
 
 派手な金髪の頭もそうだが、意味もなく大声をはりあげながらグラウンドを動きまわるその姿はいやおうなく目立つ。

 その園田と一緒に、同種の動きを見せる二人の元代表選手も然りである。

「本当だわ。あれ、まちがいなくソノよ。驚いたわね……って、なによ、西城までいるじゃない。それに永見も」

「有名な選手なの?」
  
 蘭がそう訊ねたのは、二人の態度を前にすれば当然のことであろう。
  
 優子と由美は同時にうなずき、園田、西城、永見の三人について詳しく説明した。
  
 ピークの過ぎたベテラン選手が、新たな活躍の場を求めて別のチームに移籍することなどめずらしいことではなく、そのことに蘭はすこしも驚かなかった。ただし、それが入団テストを経由してとなると話はちがってくる。

「それだけのキャリアのある選手が、どうしてわざわざ入団テストを受けに来ているわけ? テストを受けないと移籍できないわけじゃないでしょう」

「しょうがないわよ。はっきりいって落ち目だもん、あの人たち。移籍するにしてもまずはテストを受けてからでないと、どこのチームも相手にしないんでしょう。戦力として使えるかどうか怪しいから」
 
 という由美の推察は偏見に基づいたものであったが、移籍の条件としてテストへの参加をクラブ側から「半強制」された園田たちの事情を正確についていた。

 競技自体には興味も関心も薄いが、こういう「裏事情」にはやたら精通している由美なのである。
  
 見学エリアで女子高生たちが元代表選手たちを容赦なくコキおろしている間にも、グラウンドでは最初の関門となるドリブルテストが始まろうとしていた。
  
 


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