3 / 26
プロローグ
サンパウロの双星 その③
しおりを挟む同時分、一階ロビーを逃げるもう一人のひったくり犯は、無事にターミナル内から逃げおおせようとしていた。
すくなくとも男自身はそれを確信していた。
空港の出口まではざっと20メートル。
追ってくる警備員はずっと後方で、しかも人混みに足を遮られている。
周囲の利用客たちもただ傍観しているばかりで、自分を捕らえようとする動きはない。
この状況下でどうすれば捕まるというのか。たとえ神様でも阻止するのは不可能だ……。
敬虔なクリスチャンを自認するひったくりと置き引きの常習犯は、ロビーを走りながら内心でほくそ笑んだが、このとき自身の後方30メートルほどの距離に、神は神でも「疫病神」ともいえる少年がいたことに男はむろん気づいていない。
「距離は30メートルってところか……やれるか!」
それまで逃げ続ける男の姿を黙して眺めていた涼は、手にしていたボールを床におき、その場から数歩退いた。
ふたたび視線を走らせた先で、ひったくり犯の男はあいかわらず軽快な動きで利用客の群をよけながらロビー内を駆っている。
ああも動きが不規則だと狙いを定めるのは困難に思われたが、男を見つめる涼の顔に迷いの色はなかった。
逃げ出ようとする「場所」はわかっている。
そこまでの「距離」もつかめている。
あとは男の動きが停止する「瞬間」にタイミングを合わせられるかどうかだ。
小さく息を吐きだすと、涼はあらためて視線を固定させた。
男にではなく、その行く手にある、逃げる男の足をごく短時間だけ止めるものに。
ロビーの出入り口の自動ドア――。
備え付けのセンサーが体温なり体重なりを認識してから作動するため、すぐに開くことはない。わずかな時間だが、どうしてもドアの前で立ち止まる時間が生まれるのだ。
このとき涼が待っていたのは、犯人の動きが停止するその「瞬間」であった。
やがて自動ドアの前まで3メートルほどの距離にまで迫ったとき、それまで黙して佇立していた涼が床を駆けだした。
標的たるひったくり犯との間には、騒動に混乱する利用客の人垣が三重四重の壁となって立ちはだかっているが、ボールめがけて床を駆るその足に迷いはない。
「いけっ!」
低く吠え猛った直後、鋭く蹴りだされたボールがロビーの宙空を飛翔した。
わずかなスピンもかかっていない無回転のボールが、勢いそのままに利用客たちの頭上を越え、前方の自動ドアめがけて一直線にロビーの宙空を疾走していく。
だが、利用客を避けるために頭上越えを狙ったせいか、宙空を一閃するボールの軌道はあきらかに高い。
標的たるひったくり犯の男はもちろん、このままの軌道なら自動ドアの枠をも越えて上部のコンクリート壁に激突しそうである。
ミスキックかと思われたが、しかし、ボールを見つめる涼の双眸には確信の光があった。
(よし、狙いどおりのコースだ。いける!)
涼が左右の拳を強く握りしめた、まさにそのとき。それまで利用客たちの頭上を水平飛行していたボールが突然、宙空から消えた。
否、落下したのだ。
まるで高空を飛翔していた猛禽類が地上に見つけた獲物に襲いかかるごとく、いきなり角度を変えて落ちたのである。
一転して軌道を変えたボールの行く手には、自動ドアから今にも逃げ出ようとするひったくり犯の後頭部があった。
背後から迫りくる球体物の存在に、男はまるで気づいていない。
「へへへ、あばよ、ウスノロども」
開きだした自動ドアに逃走の成功を確信した男はにやりとほくそ笑んだが、一瞬後、その笑みは苦痛のゆがみへと変わった。
宙空を降下してきたボールが測ったような正確さで、男の後頭部に直撃したのだ。
突然、後頭部に生じた衝撃によって、ひったくり犯の男は声をあげるまもなく前のめりになって吹き飛び、まだ開ききっていない自動ドアの厚いガラスに顔面を激突させた。
のけぞるようにひっくり返った男の鼻孔からはたちまち血が噴きだし、折れた前歯がロビーの床にばらまかれる。
意味不明なうめき声をあげて床の上をのたうちまわる男を、周囲の利用客たちがあ然とした態で見守っていると、そこに警備員たちが息せききって駆けつけてきた。
とっくにロビーの外に逃げたと思っていた犯人が、鼻血にまみれた顔で悶絶している姿に警備員たちは立ちつくしたまま困惑顔を交わしたが、すぐに気を取り直すと男を立たせて取り押さえた。
歓声と拍手が不協和音の二重奏を響かせている中、涼は一人静かにロビーの隅にまで歩を進め、そこまで転がっていたボールを手に取った。同じようにボールを手にしたレイナウドが傍にやってきたのは直後のことである。
警備員たちに取り囲まれ、観念したようにうなだれるひったくり犯の男をちらりと見やると、レイナウドは涼の肩に手をおいた。
「こっちも捕まったようだな。一件落着と……」
「それよりもレイ。面倒なことで時間をとられる前にさっさと消えよう」
「面倒なこと?」
涼はうなずき、ロビーの一角に指をむけた。レイナウドがその方向に視線を投げる。
二人が見つめる先には、犯人を取り囲んだ警備員たちが何者かを捜すように周囲をきょろきょろと見まわす姿があった。
ひったくり犯の逃走を阻止した功労者、つまり自分たちを捜していることはレイナウドにはすぐにわかった。
「なるほど、たしかにさっさと退散したほうがよさそうだな」
ボールを指先でくるくると回しながら、レイナウドは小さくうなずいた。
ボールを手に「自分たちがやりました」と名乗りでれば、犯人の逃走を阻止したことを賞賛され、新聞やテレビで報じられるかもしれないが、その前に警察による事情聴取などで時間をとられる恐れがある。
帰国の飛行機の出発時間が迫っている上、そもそも涼もレイナウドもヒーロー扱いされたくて行動に出たわけではないので、二人はボールを脇に抱えて静かに歩きだすと、そのまま人混みの中に消えていったl……。
0
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました
小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」
二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。
第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。
それから二十年。
第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。
なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。
不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。
これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。
※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
老聖女の政略結婚
那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。
六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。
しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。
相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。
子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。
穏やかな余生か、嵐の老後か――
四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる