フッチボウ!

藤沢五十鈴

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プロローグ

サンパウロの双星 その③

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 同時分、一階ロビーを逃げるもう一人のひったくり犯は、無事にターミナル内から逃げおおせようとしていた。

 すくなくとも男自身はそれを確信していた。

 空港の出口まではざっと20メートル。

 追ってくる警備員はずっと後方で、しかも人混みに足を遮られている。

 周囲の利用客たちもただ傍観しているばかりで、自分を捕らえようとする動きはない。

 この状況下でどうすれば捕まるというのか。たとえ神様でも阻止するのは不可能だ……。

 敬虔なクリスチャンを自認するひったくりと置き引きの常習犯は、ロビーを走りながら内心でほくそ笑んだが、このとき自身の後方30メートルほどの距離に、神は神でも「疫病神」ともいえる少年がいたことに男はむろん気づいていない。

「距離は30メートルってところか……やれるか!」

 それまで逃げ続ける男の姿を黙して眺めていた涼は、手にしていたボールを床におき、その場から数歩退いた。

 ふたたび視線を走らせた先で、ひったくり犯の男はあいかわらず軽快な動きで利用客の群をよけながらロビー内を駆っている。

 ああも動きが不規則だと狙いを定めるのは困難に思われたが、男を見つめる涼の顔に迷いの色はなかった。

 逃げ出ようとする「場所」はわかっている。

 そこまでの「距離」もつかめている。
 
 あとは男の動きが停止する「瞬間」にタイミングを合わせられるかどうかだ。
 
 小さく息を吐きだすと、涼はあらためて視線を固定させた。
 
 男にではなく、その行く手にある、逃げる男の足をごく短時間だけ止めるものに。
 
 ロビーの出入り口の自動ドア――。
 
 備え付けのセンサーが体温なり体重なりを認識してから作動するため、すぐに開くことはない。わずかな時間だが、どうしてもドアの前で立ち止まる時間が生まれるのだ。

 このとき涼が待っていたのは、犯人の動きが停止するその「瞬間」であった。
 
 やがて自動ドアの前まで3メートルほどの距離にまで迫ったとき、それまで黙して佇立していた涼が床を駆けだした。
 
 標的たるひったくり犯との間には、騒動に混乱する利用客の人垣が三重四重の壁となって立ちはだかっているが、ボールめがけて床を駆るその足に迷いはない。

「いけっ!」
 
 低く吠え猛った直後、鋭く蹴りだされたボールがロビーの宙空を飛翔した。
 
 わずかなスピンもかかっていない無回転のボールが、勢いそのままに利用客たちの頭上を越え、前方の自動ドアめがけて一直線にロビーの宙空を疾走していく。
 
 だが、利用客を避けるために頭上越えを狙ったせいか、宙空を一閃するボールの軌道はあきらかに高い。

 標的たるひったくり犯の男はもちろん、このままの軌道なら自動ドアの枠をも越えて上部のコンクリート壁に激突しそうである。

 ミスキックかと思われたが、しかし、ボールを見つめる涼の双眸には確信の光があった。

(よし、狙いどおりのコースだ。いける!)

 涼が左右の拳を強く握りしめた、まさにそのとき。それまで利用客たちの頭上を水平飛行していたボールが突然、宙空から消えた。
 
 否、落下したのだ。

 まるで高空を飛翔していた猛禽類が地上に見つけた獲物に襲いかかるごとく、いきなり角度を変えて落ちたのである。
 
 一転して軌道を変えたボールの行く手には、自動ドアから今にも逃げ出ようとするひったくり犯の後頭部があった。

 背後から迫りくる球体物の存在に、男はまるで気づいていない。

「へへへ、あばよ、ウスノロども」

 開きだした自動ドアに逃走の成功を確信した男はにやりとほくそ笑んだが、一瞬後、その笑みは苦痛のゆがみへと変わった。

 宙空を降下してきたボールが測ったような正確さで、男の後頭部に直撃したのだ。
 
 突然、後頭部に生じた衝撃によって、ひったくり犯の男は声をあげるまもなく前のめりになって吹き飛び、まだ開ききっていない自動ドアの厚いガラスに顔面を激突させた。
 
 のけぞるようにひっくり返った男の鼻孔からはたちまち血が噴きだし、折れた前歯がロビーの床にばらまかれる。
 
 意味不明なうめき声をあげて床の上をのたうちまわる男を、周囲の利用客たちがあ然とした態で見守っていると、そこに警備員たちが息せききって駆けつけてきた。
 
 とっくにロビーの外に逃げたと思っていた犯人が、鼻血にまみれた顔で悶絶している姿に警備員たちは立ちつくしたまま困惑顔を交わしたが、すぐに気を取り直すと男を立たせて取り押さえた。
 
 歓声と拍手が不協和音の二重奏を響かせている中、涼は一人静かにロビーの隅にまで歩を進め、そこまで転がっていたボールを手に取った。同じようにボールを手にしたレイナウドが傍にやってきたのは直後のことである。
 
 警備員たちに取り囲まれ、観念したようにうなだれるひったくり犯の男をちらりと見やると、レイナウドは涼の肩に手をおいた。

「こっちも捕まったようだな。一件落着と……」

「それよりもレイ。面倒なことで時間をとられる前にさっさと消えよう」

「面倒なこと?」

 涼はうなずき、ロビーの一角に指をむけた。レイナウドがその方向に視線を投げる。

 二人が見つめる先には、犯人を取り囲んだ警備員たちが何者かを捜すように周囲をきょろきょろと見まわす姿があった。

 ひったくり犯の逃走を阻止した功労者、つまり自分たちを捜していることはレイナウドにはすぐにわかった。

「なるほど、たしかにさっさと退散したほうがよさそうだな」

 ボールを指先でくるくると回しながら、レイナウドは小さくうなずいた。

 ボールを手に「自分たちがやりました」と名乗りでれば、犯人の逃走を阻止したことを賞賛され、新聞やテレビで報じられるかもしれないが、その前に警察による事情聴取などで時間をとられる恐れがある。

 帰国の飛行機の出発時間が迫っている上、そもそも涼もレイナウドもヒーロー扱いされたくて行動に出たわけではないので、二人はボールを脇に抱えて静かに歩きだすと、そのまま人混みの中に消えていったl……。




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