吉備大臣入唐物語

あめ

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第一章『文選』

文選 2

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 しばらくして、高楼へと伸びるはしごを何者かがのぼってくる気配がした。カチャリと金属的な音が響き、扉が軋みと共にゆっくりと開かれる。
 立っていた使者は、生きた真備を視認して目を見開く。しかし、真備は決して動じなかった。
 いや、仲麻呂の忠告がなければ突然の訪問に心底驚いたかもしれない。しかし仲麻呂の話を聞いた上で対面すれば、憤りが恐怖心を上回ってしまったのだ。

「何だ、外に出てもいいのか?」

 冷めた目つきの真備に、使者は不意をつかれた顔をした。しかし眉間を寄せて睨み返すと、大げさに咳払いをする。

「そんなわけなかろう。これはこちらからのはからいだ。ありがたく思え」

 彼は無造作に一つの包みを投げてよこした。やけに上から目線な態度が鼻につく。包みを慎重に開けると、中には軽い食事が入っていた。

「何、毒などは盛っておらぬ。また時を置いてここを訪ねるゆえ、下手な動きはやめることだな」

 何が下手な動きだ。先に仕掛けてきたのはそちらではないか。そんな不満を抱きつつも、顔には出すまいと仰々しく礼をしてやった。

「心遣い、感謝致します」

 そんな真備を胡散臭そうに見つめると、深入りはしたくないのか使者はそそくさと帰ってしまった。もちろん扉に鍵をかけることは忘れない。

 再び閉じ込められた真備は渡された包みに目を向ける。明らかに残り飯であろうその食事は、決して食欲をそそるものではなかった。

「やけに素っ気なかったですねぇ、彼」

 突然背後から聞こえた声に真備が後ろを振り返る。そこには再び閉ざされた扉をじっと見つめる赤鬼がいた。彼はしばらく無言でそちらを見ていたが、ややあって真備に笑いかける。

「大丈夫です。毒は入っていませんよ、それ」

 真備は再び包みへと目を向けたが、何だか気が乗らず不満げにため息をついた。

「でも美味そうじゃねぇな。これ」
「せっかく持ってきてくれたんですし、食べてみてはいかがでしょう」

 仲麻呂はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。そのような顔も出来るのか、と思った。それが少々馬鹿らしくて、真備はまあ乗ってやるかと握り飯を口に入れた。しかし米は冷たくゴワゴワとしていて決して美味しいとは言えなかった。しかも握り方が雑で乾燥もしているのか、真備の手の中でぼろぼろと崩れる。落とさないようにするのがやっとであった。

「やっぱりお前が持ってきてくれたやつの方が美味しかったな」

 真備が不満げに呟くと、仲麻呂は少々驚いたように動きを止めた。しかし気恥ずかしそうに苦笑すると、「そうですか?」と肩をすくめる。

「少し形が崩れてしまったんですけど······」

 そんな彼をちらりと見やると真備は意地の悪い笑みを浮かべた。そして、わざと今気づいたかのような声で言ってみせる。

「なんだ、あれお前が握ったのか?」
「えっ」

 仲麻呂は焦ったように瞳を泳がせた。どうやら図星のようだ。「いやそういうわけじゃ」と言葉を濁す彼は、どこか言い訳を探す子供のようで可愛らしかった。

「だってこんな手じゃおにぎりなんて握れませんよ」

 そう言うと、仲麻呂は若干汗の滲む笑顔で両手を胸の前に掲げてみせる。人のそれよりも一回り大きな手には、赤黒いごつごつした肌と鋭く尖った大きな爪がついていた。確かにその手では、あれほど繊細な握り飯など握れないだろう。真備もその点については引っかかるものがあった。しかし、それと同時に強く確信していたのだ。あれは目の前の友が握ったものだという確信を。それに根拠などない。ただどういうことなのか、真備にはそうとしか思えなかった。

「ああ、言われてみればそうか」

 真備が目を離すと、仲麻呂はやっと胸をなでおろす。そんな彼が面白くて、真備は隠れて笑みをもらした。
 本当に不思議な人だった。一体何故これほど自分に心を開いてくれるのか。そして、何故ここまで心を開かせてしまうのか。彼に近づけば近づくほど不思議な引力は力を増してゆく。しかし、それを嫌だと思わない自分がいる。
 真備はますます知りたくなった。彼の本当の顔。本当の声を······。
 地方から都へ出てきて遣唐使として海をわたった。ある意味周りから見ればずっと異国人であった真備にとって、ここまで心を許しあえた友人は初めてであった。まだ出会ってたったの三日だというのに、恐ろしい物の怪の姿をしているというのに、不思議と人の温もりを感じてしまうのだ。
 そんな彼の本当の笑顔が見てみたかった。同じ一人のとしての彼の笑顔が······。

 味も香りも素っ気ない握り飯を食べ終えた頃、不意に仲麻呂が立ち上がった。そちらに顔を向ければ、彼は不思議そうな顔をしている真備に気づいて柔らかく微笑んでみせる。

「また出かけてきますね。夕方には戻ります」
「おう」

 真備が返事をすると仲麻呂は高楼から出ていこうとする。しかし、扉に右手をかけた所で再びこちらへ振り返った。

「そうだ、真備さん。今のうちに頭と身体を休めておいてください。今夜はお出かけすることになりますから······」

 予想し得なかった言葉に数度瞬きをした。一体どういうことなのだろう。そんな真備を楽しそうに見つめると、仲麻呂は再び目尻を下げた。

「特に頭を働かせるかと思いますので、一度中身を整理しておくと良いかと」
「出かけるって、俺も行くのか?」

 恐る恐る問いかけた真備に対し、仲麻呂は「もちろん」と笑ってみせる。

「逆に貴方がいなくては困ります。貴方に関わることなのですから」
「でも俺はここから出られないぞ? それにここには鍵も掛かって······」

 真備が言い終わらないうちに、重くも軽くも聞こえる金属の音が高楼に響いた。そちらを見れば、開いた扉から吹き込む風に、仲麻呂が衣をなびかせている。

「もうお忘れですか? たった今、私がここを出ていこうとしていたことを」

 真備は呆けた表情で彼を見つめた。確かに思い返せばそうなのだ。もはや頭が動いていなかった。

「移動についてもご心配には及びません。貴方はただ集中力だけを用意しておいて下さればそれでいいのです」

 そう言うと、赤鬼はひらりと衣を翻して静かに扉の奥へと消えた。彼が何をしようとしているのか全く分からず、ただただ細く閉まりゆく扉を見つめ続ける。

「ほんとに何なんだよ、あいつは」

 ぽつりと零れた疑問だけが薄闇の中に響いて掠れた。




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