吉備大臣入唐物語

あめ

文字の大きさ
上 下
18 / 68
第一・五章『詩仏』

詩仏 2

しおりを挟む


「晁衡、皇帝陛下のことは聞いた?」
 仲麻呂は一瞬身体を強ばらせると、長いまつ毛を軽く伏せた。それは「はい」を意味しているのだろう。
「大丈夫。主上は君のことを憎んでいるわけじゃない。そもそも真備さんの側にいることを知らないからね。主上は嘘を吹き込まれたんだ、あいつらに」
「嘘?」
「うん。真備さんがこの国に悪いことしようとしてるってね」
 男の言葉に、仲麻呂は「そういうことでしたか」と口をゆるめる。しかしそうは言ったものの、彼の瞳は寂しげに揺らいでいた。彼も皇帝の敵にはまわりたくないのだろう。
「主上はずっと君のこと探してるよ。あの日以来、君は行方不明扱いだからね。たまにぽつりと嘆かれるんだ。朝衡は私を嫌ってしまったのだろうかと」
 その言葉を聞いた瞬間、仲麻呂がガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。盃の酒にうつった月が波のようにゆらゆらと揺らめく。
「そんなこと! 私は今すぐにでもあの方のもとに戻りたいのです。異国人である私をも信頼して下さった優しいお方ですから」
 仲麻呂はつい声を上げてしまったことを恥じたのか、「すみません、大声出してしまって」と言って気まずそうに腰を下ろす。その気持ちは痛いほどに分かる。男は優しく眉を寄せながら、「気にしないで。君の主上に対する尊敬の意はよく分かってる」と笑う。しかし、直ぐに真剣な表情をして声をひそめた。
「でも、気をつけた方がいいよ。あいつらまた真備さんに嫌がらせしようとしてる。この間宮中で聞いたんだ」
「やはり······次はどんなことを?」
 男はそんな仲麻呂をじっと見つめると、負けず劣らずな美しい顔をきゅっと歪めた。
「囲碁だって」
「囲碁?」
「うん」
 男はそっと仲麻呂から顔を離すと、困ったように腕を組む。
「何かねぇ。学はあっても芸能があるとは限らないだろう、ってことみたいだよ。ほんと次から次へとめんどくさい奴らだね。対戦相手は長安一の囲碁の名人だってさ。真備さんは囲碁は出来るの?」
「いや、それは私にも······」
「そうだよね。うーん、次はどう切り抜けるか。とりあえず、何か情報が入ったらまた木簡とか使って連絡するよ」
 礼を言う仲麻呂に頷くと、男は再び月へと目を向けた。懸念するかのように眉を寄せると、「でも、忘れないようにね」と息をつく。
 突然の言葉に仲麻呂は首を捻った。男はどこか心配そうな目をすると、酒を一口こくりと飲み下す。
「明後日が満月だ。君が気兼ねなく真備さんの側に居られるのもそこまでだよ。満月を過ぎたら用心だね。前みたいなことが起こらないように」
 仲麻呂は俯くと、拳をキュッと握って瞼を閉じた。「そうですね。私も、真備さんには絶対にあんなこと······」と答えた彼の声は、どこか震えているようだった。
 眉間を狭めてしまった仲麻呂の背に、男はそっと手をのせる。どこか子供をあやすかのようにトントンと軽くさすってやった。
「大丈夫、何も完全に奪われるわけじゃないよ。新月の時以外はまだ······ね。僕も調べてみるから、そこんところも」
 男は優しく微笑んだ。淡い月明かりが彼の端正な顔に美しい陰影をつける。仲麻呂はその微笑みをしっかりと受け取ると、まだ少し悲しそうな色を残しながらも柔らかく目を細めた。
「そうですね、本当に助かります。いつもありがとうございますね、王維おういさん」
 仲麻呂がふふっと笑うと、王維と呼ばれた男はニコッと笑って酒瓶を持った。
「ま、とりあえず今は飲もうよ! 李白がいないうちに美味しいお酒は飲んでおかなきゃ! じゃないとまーたあの酒オバケにうちのお酒全部飲まれちゃうからね!」






しおりを挟む

処理中です...