吉備大臣入唐物語

あめ

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第二章『囲碁』

囲碁 5

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「碁石が見当たらないだと?」
「はい、全く」
 下っ端な役人の言葉を聞いて、主導者らしき男は顔を顰めた。下剤を使えば腹の中にある碁石が必ず出てくると思っていたらしい。
 しかし、それは真備も同じ思いであった。役人達は必死に真備の排出物の中を調べている。もちろん双方にとって気持ちの良いものではないが、そうでもしなければ碁石の有無を調べられない。
 彼らは碁石はなかったといった。しかしながら、真備は確かに碁石を一つ飲み込んだ。ならば出てこないはずはない。
 そう思いながら衣を一枚だけ羽織った真備は役人達の姿を見ていた。一瞬彼らの戯れで嘘をつかれているのではないかとも思った。碁石はないと言い、油断させてから身を捕える。そんな罠ではないかと。
 しかし彼らの焦りぶりを見るに、碁石は本当に無いようであった。それだけ彼らの顔が青くなっていたのである。

 真備が彼らの姿を見ていると、あの役人が自分の方を見つめていることに気がついた。その瞳に先程までの疑わしそうな光がなくなったわけではないが、確実に色は薄くなっている。しかし代わって溢れんばかりの悔しそうな色が見て取れた。
「真備殿。本当に碁石を飲み込んでいないのですは?」
 彼は歯ぎしりをしながら問いかけてくる。真備も何故碁石が出てこないのかは分からなかったが、それを表に出してはせっかくの幸運が無駄になる。それゆえ敢えて冷静に言葉を返した。
「ええ、もちろん。碁石など知りません」
 役人は一層悔しそうに真備を睨んだ。彼らはまたしても真備に負けたのだ。悔しくないはずはない。
 しかし今回の件については諦めたようで、彼らはあっという間に碁盤やら何やらを片付けると、さっさとその場をあとにしてしまった。その背中には怒りと悔しさが満ち満ちている。

 彼らの姿が遠くに消えたところで、真備は投げ捨てられていた衣に手をかけた。疲れたように息を吐くと、土埃を払いながら着替え始める。
 すると何者かがこちらに近づいてくるような気配がした。真備が気づいて振り返る前に、背後から低い声が掛かる。
「中々のものであった。名は何といったかな」
 そこに居たのは対局相手である名人であった。彼は先程とは打って変わって、にこやかに真備に問いかける。
「下道真備と申します。先程はお騒がせ致しました」
 彼の表情の変わりように些か驚きながらも、対局を無駄にしてしまったような罪悪感から頭を下げる。すると彼は「いや、いいんだ」といいながら顔を上げるように促した。
「その名前にその動作······君は日本人かね?」
 先程日本風のお辞儀をしてしまっていたことに今更気がついた。しかし真備はさほど気にとめない。それよりも気になることがあったのである。
「······何も聞かされていなかったのですか?」
 目を丸くしながら問いかけた真備に、名人は「うーん」と口をゆるめる。
「まあ相手が異国人だという話は聞いていたのだがね。どこの国かまでは聞いていなかったのだ。私は異国人になど興味はないのでね。話を聞いたところで······という気がしたものでな。しかし、日本人か。日本人には少しだけ恩があってなあ」
「恩?」
 真備が食い気味に身を乗り出すと、彼は笑って言う。その瞳は囲碁の名人というよりも、一人の人間として、とても優しいものであった。
「以前、唐と日本は戦ったことがあっただろう?」
 ああ、白村江の戦いか。真備はそう思った。
 朝鮮半島にあった百済と新羅という国が戦になった際、日本は百済を、そして唐は新羅を援助して戦ったものである。そのおかげで唐と日本の関係が悪化し、関係改善という重い役目を真備達遣唐使が託されたことは言うまでもない。
「私の旧友に新羅の人がいてね。そこそこ高い地位で戦に赴いたのだが日本の海軍に捕まってしまったのだ。もちろん彼は殺されたのだが、死ぬ直前、私や家族に文を送ってきたんだよ。文を送るのも許されないような場であったはずなのに。そして彼の手紙を読んでみるとこう書いてあったのだ。征新羅の将軍である阿倍比羅夫殿に手紙を書くことを許して頂けた。その将軍は当時の日本国王の目を上手く盗んでそれを許可したのだ、と。おかげで最期の挨拶をすることができた、と」
 その名を聞いて思わず目を丸くした。阿倍比羅夫あべのひらふ。彼は仲麻呂の祖父であった。
「まぁそれだけではないのだがね。つい三ヶ月ほど前だろうか。食事処で酔っ払ってしまった時に、恥ずかしながら階段から転げ落ちてしまってね。その時に友人と談笑していた青年が身を呈して私を受け止めてくれたのだ。彼がいなければ頭を打っていたと友人に話せば、何と彼はその将軍の孫だと言うではないか。とても優しい目をした美しい青年だったよ。全く、私は二度も日本人に世話になってしまっていたのに、今回は君にも世話になってしまったね。久しぶりに楽しい対局だったよ。いい思い出になった。ありがとう」
 真備は彼の優しい目を見て、思わず姿勢を正した。思いがけない言葉に驚くとともに、どこか照れくさかった。込み上げる想いにやっとのことで口を開いても、「こちらこそ。ありがとうございました」としか返すことが出来なかった。
 日本人でも唐の人間の役にたてるのだと知り、胸が熱くなったのだ。それだけ当時の日本と唐の差は大きかった。
 真備は名人を見送るとふっと息を吐く。そしていつの間にか高く澄んでいた空を見上げた。
「お疲れ様でした。真備さん」
 真備が上を向いたところで、隣に友人の温かみを感じた。しかし真備はそちらを向かずにただただ笑った。そちらを見ずとも、それが誰でどんな顔をしているのかなど分かり切っていたからだ。その温もりだけで安心出来る。隣にいるのはそんな友人だと。
 同様に、彼もまた真備の方を向かずに並んで空を見上げていた。
 彼はどんなことを思っているのだろう。彼も先程の話を聞いていたはずだ。彼にとって、その偉大な祖父はどんな存在で、唐というのはどんな国なのだろう。そして自分は彼にとってどんな存在になれるのだろう。
 彼に聞きたいことは沢山あった。しかし、それはまたいつか聞けばいい。きっと彼はこれからも自分のそばに居てくれるのだろう。
 だから今は······。
 真備はそこまで考えて、青空を飛ぶ一羽の鳥に目を移した。相変わらず空は寂しいほどに高く高く澄んでいる。
 しかし、真備は寂しさなど感じなかった。その理由は自分でもよく分かっている。それはきっと隣の彼も同じなのだろう。

 だからこそ、二人は何も言わずに空を見上げていた。徐々にその空に赤い光が差してくるまで。




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