吉備大臣入唐物語

あめ

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第三章『野馬台詩』

野馬台詩 8

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 真備が目をこらしながらやっとのことで道を歩んでいると、突然辺り一帯に生ぬるい風が吹いた。それが真備の横を通り過ぎた時に、何故か真備の鼻を鉄臭い匂いがかすめる。
 この匂いはなんだ。
 真備が眉を寄せた時、先ほどの風が雲を飛ばしたらしく空に浮かぶ細い月が顔を出した。辺りがサッと明るくなる。真備は闇が薄れて喜ぼうとしたのだが、次の瞬間、喜びどころか絶望を味わうこととなった。
 真備の目の先には赤い水溜まりが広がっていた。その中心には、肩から血を流して横たわる一つの人影。その地獄のような光景に、真備は一瞬身動き一つとれずに固まったが、横たわった人物の顔を見てハッと目を見開く。

「······真成まなり?」

 それは同じ趙玄黙ちょうげんもくの元で学んでいた、あの学友······白猪真成しらいのまなりであった。しかし陽気で明るかった面影など残っておらず、ただただ顔が青白く月明かりに照るばかり。

「真成? 真成っ!?」

 真備はすぐさま彼に駆け寄った。血の気のない唇から、かすかに荒い息が漏れている。どうやら辛うじて生きているようだ。それが分かってひとまず安堵した真備であったが、彼が瀕死の状態であるのには変わりがない。
 すぐに医師に見せなければ。そう思って医師を呼ぼうと立ち上がった、その時······。

 真備の背後から草を踏むような小さな音が聞こえた。突然のことに思わず肩を震わせる。そしてそこで初めて、自分の背後に人の気配がすることに気がついた。
 真備は恐る恐るといったように物音のした背後を振り返る。そして次の瞬間、真備は背後にいた人物を見て絶句した。何もかもが全て吹き飛んで頭が真っ白になった。
 なぜなら、そこにいたのは······。

「なか、まろ······?」

 その赤鬼は生気のない顔で目の前の血溜まりを眺めていた。しかし、その服にも顔にも赤黒い液体がはねている。そして何より、右手全体が血で濡れ、鋭い爪からぽたりぽたりと赤黒い雫が垂れていた。

 ──どうか、どうか、お逃げください。

 真備の頭の中に、あの李林甫の言葉が蘇る。
 彼の不思議な色合いをした瞳が渦を巻いた。

 ──鬼とはいえそろそろ空腹の限界だろうと占い師は言っておりました。

 まさか······まさか、彼が本物の人喰い鬼だとでも言うのか。真備は最も恐れていたことが現実になり、思わず唇を震わせた。

「仲麻呂、お前······」

 顔を引きつらせながら声をかけると、彼はハッとしたように真備を見つめる。

「まきび、さん?」

 焦点の定まらない目が真備から目の前の血溜まりへと移る。赤鬼はその光景を見て大きな身体を強ばらせると、絞り出したような小さな声でぽつりと呟いた。

「ま、なり······?」
「え?」

 真備はその呟きに首を捻った。
 今、彼は真成と言ったのか?
 しかし真備がそれに気づいたのもつかの間、彼はその場から二、三歩後退りをすると突然何も言わずに駆け出した。

「っ! おい、仲麻呂っ!」

 真備が背中に言葉をかけるが、彼は全く振り返らない。

「仲麻呂!」

 彼の名を呼び続けた。人気ひとけのない裏道に真備の声だけが虚しく響く。
 しかし、真備がいくらその名を叫ぼうとも、彼はもう帰ってこなかった。












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