吉備大臣入唐物語

あめ

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第四章『疑惑』

疑惑 4

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 風に吹かれた木々がざわざわと踊る、月のない新月の夜。高楼の周りは墨を流したかのような闇に包まれていた。
 真備はただ一人、松明をもって佇んでいる。もう片方の手には李林甫に渡された短刀。覚悟はもう決まっていた。

 赤鬼の挙動。真成の証言。李林甫の口舌。

 その全てが一つに繋がった時、真備の前に現れた赤鬼はもう既に阿倍仲麻呂ではなかった。それは都に害なす日本水軍の亡霊だ。ただの悪しき魍魎もうりょうだ。
 ならば、それを討つことが日本人としての役目ではないか。日本、そして今は亡き阿倍仲麻呂の誇りを取り戻す唯一の手立てではないか。

 真備は強い瞳で空を見上げた。黒々とそびえる高楼は異様な圧を放っている。果たして、今そこに赤鬼はいるのだろうか。真備は短剣を腰につけると、ゆっくり、ゆっくりとそのハシゴをのぼった。
 そして、高楼の扉の前でじっと息を潜めてみる。しかし重たい扉の奥を探れど何の気配もなかった。真備は再び短剣を握りしめると、一気に扉を開け放つ。
 案の定そこには何もいなかった。ただただ懐かしい古木の匂いだけが立ち込めている。真備は高楼に足を踏み入れると、松明を持ってあたりを見渡した。
 隠しておいた文選の写書き。碁盤のような天井の目。硯も筆も、水筒も毛布も、全てが記憶のままだった。二人で最後の試練に旅立った日の夕暮れ。あの時から何も変わっていない。どうやら誰も足を踏み入れていないらしい。

 しばらく無言でそれを眺めていた。その時、真備は何を思っていたのか。そんなこと、今となっては知る由もない。しかし、彼の瞳に少しの陰りがあったことは確かである。ほんの、ほんの少しだけ、瞳の奥が揺らいで見えた。まるで何かに気が付きかけた時のような、そんな小さな迷いだった。

 しかしそれは直ぐに消えた。真っ直ぐに天井を見上げると手に持った短剣を強く握りなおす。そして、冷たい夜の空気を吸って名を呼んだ。しかし、それは今までの呼び方ではない。

「赤鬼」

 真備はそう口にしたのだ。随分と落ち着きを含んだ声であった。しかし、真備だって赤鬼が素直にやってくるとは思っていない。
 何度呼んでも来なかった彼だ。今更来るはずもない。そう思っていた。

 しばらく静寂が辺りを包んだ。聞こえるのはザワザワと揺れる木々の音だけ。
 人の気配は全くしなかった。月のない新月の闇が人の営みさえ呑み込んでしまったかのようで、真備は軽く不安を覚える。
 あいつは今どこにいるのだろう。真備は右手の短剣を見下ろした。仲麻呂の姿を借りているのなら問題なかろうが、鬼である彼が人目につくところに行くわけはない。しかしこの高楼にいないのであれば、一体どこに身を潜めているのか。

 真備が眉をひそめたその時、突然小さな物音が聞こえた。それは暗く舞い込む夜風の向こう、ちょうど高楼の入り口から聞こえた音であった。真備はハッと振り返る。そしてそのまま身体を固めた。
 そこには、黒々とした影があった。いや、月もない暗闇の中ではハッキリとした輪郭は分からない。ただ何者かの気配が確かにそこにあった。松明の光が届かぬ先に、確実に何かがいる。真備は、その気配が誰のものなのかよく分かっていた。だからこそ、呆気に取られたようにその影を見つめることしか出来なかったのだ。
 影がそろりと真備に近づく。松明の炎がその足元をぼんやりと照らしだした。沓は履いているものの、人間よりもずっとずっと大きな足だ。見間違えるはずもない、そんな人外れの体格は彼以外に考えられない。真備は思わず怯んで彼を見上げた。
 改めて見ると恐ろしい姿だ。背丈は約二メートル。巨体を赤黒い肌が覆い、松明の炎が鋭く尖った爪と牙を照らす。彫りの深い顔には陰影がつきまとい、落窪んだ瞳は影の中にいてほとんど見えない。まるで目がないかのようだ。
 それは味方でなくなったからこそ気づく、彼の人ならざる怖さであった。初めて彼を目にした時のような恐怖。人ならざる物の怪への恐怖であった。

 真備は思わず乱れた息を整える。右手に持っていた短剣を両手でぎゅっと握り直した。
 対する赤鬼はじっとして動かない。薄闇の中で、ただただ真備を眺めている。瞳が影で見えないからか、その表情は全く読めなかった。
 しばらく静寂が続いた。空気がピンと張ったかのような静けさだ。ただ、風に押されてギシリと軋む高楼の音と自分の鼓動だけが耳にこだました。しかし、そんな静寂の中で、真備はどこからか声が聞こえたことに気がついた。

 「あいつは敵だ」······そう言っている。それはどこか聞きなれた声。真備は思わず冷や汗を流して声の出処を探す。

 あいつは敵だ、あいつは敵だ。

 声は再びそう告げた。繰り返し、繰り返し、そう告げた。それを聞いているうちに、真備は声の主に気がついてハッとする。それは自分の声であった。
 頭の中で自分の声がそう繰り返している。目の前の鬼を殺せと言っている。真備は耳鳴りがしたかのような気味の悪さに、思わず短剣を握りしめた。

 殺せ。
 殺せ。

 止まない声が心を煽る。無意識にも呼吸が乱れた。頭の中で響き続ける声に頭痛がする。何者かに頭を押さえつけられているかのようだった。
 もう地面に立っているのさえ分からない。視界がチラチラと点滅して、目の前の闇がくらりと歪む。
 真備はその苦しみから逃れたかった。息をすることもままならずに浅い呼吸を繰り返す。これ以上は重圧に耐えられない。霞む意識の中で、それだけはぼんやりと分かっていた。

 苦しい。
 逃げたい。
 帰りたい。

 真備の心がそう叫ぶ。
 すると、再び声が聞こえた。

「殺せ。逃れたくば殺せ。父母に会いたくはないか。友に会いたくはないか。殺せば無事故郷に帰れるぞ。さあらば殺せ、さあらば殺せ」

 頭の中で己の声がそう言った。心の芯にまで響き渡るような声でそう言った。それと同時に声はどこかへ消えてゆく。ただただ苦しげな鼓動だけが真備の耳の奥に残った。

 真備はついに短剣を構えて目線を上げた。その先にいるのは赤黒い物の怪である。彼は何もしなかった。話しも、動きもしなかった。感情の読めない顔でただただ真備を見つめている。
 真備は震える手で短剣の刃先を向けた。生きようとする本能が、苦しみから逃れようとする己の心が、真備の足を一歩前へと進めた。
 汗の滲む手で短剣を握り直す。そして虚ろな瞳で目の前の物の怪を捉えた。

 殺せ。
 殺せ。
 殺せ。

 一歩、また一歩、真備は物の怪に近づく。高楼の隅に置かれた松明の炎がゆらりと揺れ、それを最後に冷たい夜風がピタリとやんだ。
 真備の耳から風の音が消える。代わりに松明がパチリと音を立てた。

 その瞬間、その微かな音を合図にして真備は一気に目の前の胸元に飛び込んだ。赤鬼が苦しげに低く呻く。重苦しい感触の奥で、短剣の鋭い刃先が赤鬼の腹を突き抜けた。









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