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第四章『疑惑』
疑惑 9
しおりを挟む「あれは······確か文選の試験の前でしょうか。李林甫殿や儒学者達の話を盗み聞いている時に、新羅の僧が赤鬼に襲われたという話を聞きました。それに、俺も実際に見たんです。赤鬼に人が傷つけられた現場を。それで、仲麻呂のことを疑ってしまって······」
真備の声が震えたのを見て、王維はそっと立ち上がった。真備の背に自らの手を添えると、お茶を片手に優しく微笑む。
「言いたいところだけ言えばいいさ。嫌なら思い出さずともいい。彼は生きているんだ。君に罪はないよ」
真備は再び仏を見たかのような心地になった。彼の声は本当に不思議なもので、心の奥にふわりと舞い降りるような優しい響きを含んでいる。そんな温もりに思わす涙が出そうになって、真備は慌てて目をそらす。
「俺の友人に真成という人がいるんです。こちらでは井真成と呼ばれているのですが、昨夜彼が何者かに襲われて······倒れているのを見つけて······それで、そこに赤鬼がいたから、てっきり仲麻呂が裏切ったのだとばかり」
「なるほどね。昨日は新月前夜だった上に、雲が多かったからねぇ。確かに晁衡が乗っ取られててもおかしくないかな。まぁ晁衡もそれを分かっていたからね。月が欠け始める満月の夜以降はあまり君にも僕にも会おうとしなかったんだけど、昨日は野馬台詩の件があったから、晁衡も君の力になりたいと思って傍に······あれ?」
そこで突然王維が首をかしげたので真備も不思議そうに彼を見上げる。
「井真成殿が襲われたってことは君と晁衡がバラバラになる機会があったってことだよね? 一緒にいなかったの?」
真備は「ああ」と眉をあげると、結界が張ってあった旨を伝えた。王維は「なるほどね」と一言頷く。
「多分その結界が原因だよ、亡霊が暴れ出した訳は。結界の衝撃に抗おうとした結界、亡霊の力が強まったんだろうね。全く、結界を張ったのが李林甫殿なんだから全ての元凶は唐側じゃないか······ごめんね、君たち日本人を巻き込んで。僕が代わりに詫びるよ」
深々と頭を下げた王維に、真備は慌てて首を横に振る。力添えをしてくれていた彼に頭を下げる理由などない。真備がそう言うと、王維はおかしそうに笑った。
「真面目だね、君は。唐に来て羽目を外す人も少なくないのに、誠実で謙虚で······その辺は晁衡と一緒だよ」
その言葉に、真備はそっと王維を見つめた。ふと聞いてみたいことが出来た。
「仲麻呂は······鬼になる前の仲麻呂は、どんな人だったのですか? どんな話をして、どんな風に過ごしていたのですか?」
王維は思いがけない質問に一瞬目を丸くした。目の前の青年は、鬼と共に生きる晁衡の姿しか知らないのだ。そのことに改めて気付かされる。
王維はしばらく何か考え込んでいた。しかし、すぐにふふっと笑う。
「それはもう素敵な人だったさ。彼に出会って、僕の中にあった日本の印象はガラリと変わったよ。でも、人間としての彼はどんな人なのか、それはこれから君が自分の目で確かめるのもいいんじゃない? 君が彼を助けようとするならばの話だけどね」
意味深な言葉に真備は顔を上げる。王維は再び正面に座り直すと、椅子から半ば身を乗り出した。
「ここから先は君の判断に委ねよう。これから君がとれる選択は二つだ。一つは、このままこの一件とは縁を切って一人で日本に帰ること。これは無事に帰れる可能性は高まるけど、晁衡はこのまま死ぬことになるね。そしてもう一つは······」
そこで王維は言葉を切ると、糸のように細い瞳を緩めて続けた。
「晁衡を人間に戻して蘇らせること」
真備は思わず背筋を伸ばす。果たしてそんなことが本当に可能なのか。そこだけが気がかりであった。
「大丈夫。彼を人間に戻す方法は分かってるからね。あとは君がどちらの道を選ぶか。それだけだよ」
王維は真備をじっと見つめた。「さぁ選べ」とでも言っているかのようかのようだった。
真備はしばらく考え込んだ。もしこれも嘘だったら、と思ってしまったのだ。いくら仲麻呂の友達とはいえ王維とは初対面。そうたやすくは信じられない。
どうも李林甫の一件を受けて用心深くなったらしい。その変化は真備自身も感じている。そのため、すぐには答えを出せなかった。
しばらく静寂があたりを包む。もうすっかり夜は更けていた。テーブルを挟んで向かい合う二人は、両者とも全く動きを見せない。
しかし、しばらくした後に真備がふっと息を着いた。それに王維が気づくと同時に、真備は真っ直ぐに口を開く。
「俺は仲麻呂と一緒に帰りたいです」
王維が軽く眉を上げた。
「俺は仲麻呂を人間に戻したい。そして、あいつと一緒に新しい日本を作りたい。だから、教えて頂けませんか? 仲麻呂を人間に戻す方法を」
「お願いします」と頭を下げた。王維は無言で見つめていたものの、ふっと柔らかく相好を崩す。
「もちろん。君がそう言うのならいくらでも力になるよ。一緒に晁衡を人間に戻そう」
王維は嬉しそうに頷いたあと、部屋の外にいた使用人を呼び寄せる。王維が何やら言葉をかけると、彼は礼をして廊下へと消えていった。
「実は助っ人を呼んでたんだ。君が晁衡を助けると言った時のためにね。晁衡を人間に戻す方法は、彼も交えて説明させてもらうよ」
真備が首を捻っていると、使用人が再び戻ってきた。
しかし今度は一人ではない。彼の後ろからもう一人、ややひょろりとした青年が入ってくる。彼は真備のことを見止めると、爽やかな笑顔で礼をした。
「お初にお目にかかります。私、常々晁衡殿にお世話になっておりました、儲光羲と申します。先程王維から連絡がありまして、私も貴方様へお力添えをしたいと思いこちらへ参りました。どうぞ、お見知り置きを」
そう言うと、その青年──儲光羲はにこやかに目を細めた。真備がお辞儀を返すや否や、王維が「よしっ」と口を開く。
「今から晁衡を人間に戻す作戦決行だ! 絶対に二人を日本に返してみせようじゃない!」
そんな王維の言葉に、儲光羲が「そうだそうだ」と強く頷く。二人の優しさと熱意を見て、真備は思わず目を潤ませてしまうのだった。
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