月影に藤

あめ

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月影に藤

月影に藤 2

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 春のぬくもりに満ちたその日から、また幾つか時が流れた。それでも唐に行きたいという二人の夢は変わらなかった。
 しかし、ひと足早く阿倍仲麻呂に転機が訪れた。十七になり、冠も被った彼に遣唐使船へ乗る許可が降りたのだ。その年に選ばれた留学生は、仲麻呂の他に下道真備しもつみちのまきび白猪真成しらいのまなりなど、粟田真人の学堂に通っていた天才児ばかり。もちろん、そこに藤原仲麻呂の名前などあるはずがなかった。


「行くのか、仲麻呂」

 旅立ちが決まった後、久しぶりに訪ねてきた阿倍仲麻呂は前に見た時よりも爽やかに大人びた顔つきをしていた。しかし、それでも瞳の強さや肌のやわらかさはあの日のままに温かかった。

「ええ、申し訳ございません。共に唐へ行きたいと言っておりましたのに」
「いいんだよ、俺だって行ける気なんてしてなかったから」

 正直、自分が笑顔を保てているか分からなかった。それは唐に行けない悔しさなのだろうか。いや、悔いとはまた違う、それよりも心を抉る何かがある。それが目頭に押し寄せては、熱を持って呼吸の邪魔をした。

「おめでとう」

 やっと声に出した言葉はたった一言、それで精一杯だった。自分でも分かるほどの下手くそな笑みを浮かべて彼の肩を叩いてやる。
 彼はそんな笑顔を見て眉を下げた。どこか儚げな微笑みを浮かべると、「寂しくなりますね」と言葉を落とす。
 心に風がさした心地がした。そうか、自分は寂しいのだ。この男が目の前からいなくなることが、この男と二十年近く会えなくなることが、心の底から寂しいのだ。それに気づいた途端、どこか自分が恥ずかしくなった。何を執着しているのだろう。今、彼は長年の夢が叶って大海原に漕ぎい出ようとしている。それなのに、自分は友の夢も応援出来ぬまま赤子のように寂しがっているのだ。もう十二になったと言うのに。

「行きなよ」

 少しぶっきらぼうな声音で強がるように言った。彼の瞳から離れるように、庭の辛夷を目でなぞる。

「夢が叶ったんだよ、嬉しそうにしなよ。仲麻呂ならきっと唐へ行けるって信じてた」

 それは嘘のようで本当のことで、何が本心なのか分からなくなった。彼を信じていたのも、彼の夢を応援したいと思っていたのも事実なのだ。しかし彼と共に進めない自分が、藤に捕らわれたこの足が、無性に憎くてたまらなかった。
 阿倍仲麻呂は何も言わなかった。何も言わずにただただ自分の頭を撫でた。しばらくして震える唇に弧を描くと、「仲麻呂さまの、そういうところが大好きですよ」と眦を下げる。

「必ず帰ってきますよ。その時はまた一緒にお話させてください」

 言葉にのせて撫でられた頬に、ふわりと花の香りが広がった。それは優しくて甘い、春のような儚さを含んでいた。

「約束する? 帰ってくるって」

 自然に零れた言葉とともに涙までもが零れそうになった。拳を握ってグッとこらえると、「お願い、答えて」と眉を寄せる。
 その震えた声に心が揺らいだのだろうか。阿倍仲麻呂はこちらの姿を閉じ込めるように目を伏せた。そして長い睫毛に日の光を絡めると、「ええ、もちろん。約束いたしますよ」と春風のような声を紡ぐ。

「きっとその頃には、仲麻呂さまも立派なお役人になられているのでしょうね」
「そうだよ。絶対に負けないから。誰にも負けたりしないから、帰ったら俺を支えてよ。お願いだから一人にしないで。唐で学んだこと、全部俺にちょうだい」

 まるで傲慢な言葉だった。自分で言っておきながら、駄々をこねる子供のようだと思う。しかしいいのだ。それくらい強がっていないと、今にも足が崩れそうだったから。
 一筋の風が頬に触れた。それに小さく微笑むと阿倍仲麻呂は頷いた。

「ええ。いつか貴方さまの助けになれるようしっかり学んでまいります。決して一人になどしませんとも。また会える日を楽しみにしておりますね。それまで、どうかお元気で」

 最後に向けられた微笑みはまるで朧月のようだった。霞にぼやけた輪郭が少しずつ遠ざかっていく。忘れたくない、忘れられたくない。しかし、遠のくその光が霞にかき消される心地がして、根拠の無い不安が胸の中に渦巻いた。
 また会えるだろうか。忘れられたりしないだろうか。そればかりが春雨のように胸に流れ込んだ。

 阿倍仲麻呂の背が消えた先で東の空が明るくなった。天に浮かぶ月船は今はまだ三笠山みかさのやまの上にある。しかし、明日の朝にもなれば西の山に流れてしまうのだろう。そこに取り残された闇が自分のことのように思えてきて、思わず裾を握りしめた。

 あと二十年、月は帰ってこない。下手すれば四十年、いや永遠に······。
 しかし、彼にとっては輝かしい船出なのだ。夢見た唐に向かい、同じ志を持つ学友たちと海へ出る。そうだ、自分にとってはたった一人の師友であったが、彼には同じ夢を持つ仲間が大勢いるのだ。どうして彼も寂しがっているなどと思い込んでいたのだろう。彼はきっと恐れてなどいない。彼は孤独になどなったりしない。堂々と胸を張って船に乗り込めばいい。気を許した友人たちと談笑しながら······。
 そう思うと、一人で寂しがっている自分が馬鹿らしく思えてきた。きっと彼の目に映る花は自分ではないのだ。蔓に覆われた藤の花など月影に照らされるわけがない。

「······でも、約束したから」

 強がるような情けない声が小さく零れた。それは風にさらわれて、すぐに口を開けた闇に呑まれていく。
 二十年経っても彼は約束を覚えているだろうか。せめて彼が真っ直ぐに帰ってこられるよう、小さく小さく名を呼んだ。自分と同じ在り来りな名前。しかしその個性のない響きだけが、自分と彼とを繋ぐ唯一の光だった。
 仲麻呂。その名を捨てることなどきっとないのだろう。もしもその時が来たのならば、それは彼との約束を捨てる時だ。しかし、そんな日など来るはずがない。彼は確かに帰ってくると誓ったのだから······。

 そうだ、彼が帰ってきたら何を話そう。まずは唐の話を聞いて、自分も日本の話をして、そうして共に歩むのだ。そしていつか海を渡ろう。たった二人の船でいい。月明かりを指で辿り、あの天の原を駆け巡る。
 うん、きっと上手くいく。彼と一緒ならば叶えられる。強がりに過ぎぬことは分かっていたが、そう信じることだけが、暗闇を歩くための唯一の糧となった。

 見上げた空に星が瞬く。それはかいの雫のようにチラチラと瞳の奥で踊った。綻び始めた辛夷の横で、風に煽られた藤の蕾がしゃらりと揺れた。








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