台本置き場

うめめ

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春(比率:男:1)

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 彼女が久しぶりに、俺の名前を呼んでくれた。



 それは、生命が芽吹き、温かい風が心地いいそんなある日のことだった。

 今日から新しい場所で、新しい生活が始まる。新居の匂いを感じながら、俺と彼女はダンボールを片づけていた。自分の仕事が軌道に乗り、長いこと待たせてしまっていた彼女とようやく一緒になることができた。

 これからの生活に胸を膨らませながら、俺は「雑貨」と書かれたダンボールを開けていた。この奇天烈でどこか可愛げのある小物は、彼女の趣味だ。彼女の部屋が可愛い小物で飾られていて、その位置をずらしてしまうたびに「直しておいてよ」と注意されていたものだ。今日からはずらさないように一層気をつけないといけない。

 ふと彼女の方を見ると、「食器」と書かれたダンボールを開けていた。たまに彼女と一緒に料理を作っていたことを思い出した。凝り性な彼女に小言を言われながらする料理は、なんだかんだで楽しかった。彼女の口癖は、「見た目も味だから」だった。

 ちょうど荷ほどきが一段落したところだっただろうか、彼女が近所のドラッグストアに買い物に行くと言った。そういえば、身の回りのもので足りないものがいくつかあったんだった。俺はそれを彼女に伝えて、空いたダンボールの解体をしながら彼女の帰りを待つことにした。

 そのダンボールの解体も終わった頃、そろそろ彼女が帰ってくるだろうと思い、コーヒーを二人分淹れた。片方にはなにも入れず、もう片方に砂糖を二杯入れた。砂糖を二杯入れる、という彼女の好みを理解している自分に若干の高揚を感じながら、マグカップに口をつけた。砂糖を入れていないはずなのに、少し甘く感じた。

 彼女のマグカップから、湯気が立たなくなった。買い物にしては遅い。俺は、少し嫌な予感を感じ、彼女のスマホに電話をかける。同時に、着信音が部屋で鳴り響いた。近くだからとスマホを置いていったのだろう。嫌な予感が、どんどん確信に変わっていく。胸騒ぎに駆り立てられ、俺は玄関を出た。

 慣れない景色を見まわしながら、近所のドラッグストアへの道につく。胸を躍らせるはずの新しい景色が、不安を煽る異世界のように感じた。どうか、気のせいであってほしい。その思いが届いたのか、道の先に彼女の姿が見えた。重そうなレジ袋と、片手には文庫本のようなものを持っていた。どうやら、熱心な宗教家に目をつけられてしまったようだ。なるほど、それで時間がかかったのか。

 彼女も俺に気づいたのか、本を持っている方の手を上げた。心配損、か。どうやら俺は、よほど彼女に惚れ込んでいるらしい。

 安堵の息を漏らしたその刹那、耳が痛くなるほどの音を上げている鉄の塊が俺を追い抜いた。その鉄塊が俺の目の前で歩道に乗り上げ、壁にぶつかって動きを止めた。その瞬間だけ、スローモーションに見えた。頭にふと浮かんだことを振り払い、一抹の希望を抱きながら、俺はその現場に向かった。

 ガサッ、足になにかがぶつかった。反射的に視線を下げる。それは、俺が彼女に買ってきてほしいと頼んだものだった。

 ……認めたくなかった。



 俺は手術が終わるまで待った。彼女が手術室に運び込まれてから、どれくらいの時間が経っただろうか。待っている間、俺の頭の中は負の感情に支配されていた。なぜ彼女がこんな目に遭わなくてはいけないのか、なぜトラックが突っ込んだのが反対の歩道じゃなかったのか、と。

 手術中のランプが消え、中から医者が出てきた。一命は取り留めたらしい。ただ、このまま意識が戻るかどうかはわからない、と告げられた。俺は、買い物に行かせた自分を呪った。

 面会時間ギリギリまで病室にいたが、医者に帰されてしまった。家に帰ると、テーブルに置きっぱなしになっていたコーヒーがあった。彼女のために用意した、砂糖二杯のコーヒー。俺はそれを一口飲んだ。すっかり冷たくなったそれは、少し苦かった。



 翌日、仕事を少し早く切り上げて彼女のいる病室に向かった。その途中で会った看護師から、彼女がまだ目を覚ましていないことを聞いた。病室に入ると、昨日と変わらない彼女の姿があった。彼女の寝顔を見ていると、もうこのまま起きないんじゃないかと思ってしまう。ふと窓の外に目をやると、桜の花びらが散り、宙に舞っているのが見えた。

 西日が差し込み、ちょうど彼女の顔を照らした、そんなときだった。彼女が目を開いた。よかった、奇跡は起こるんだ。俺は嬉しさのあまり彼女の名前を呼び、顔を覗きこむ。しかし、彼女は全身の痛みに顔をしかめて、苦悶の表情を浮かべていた。それもそうだ、軽度とはいえ骨折しているんだ。その痛みが一気に押し寄せるのは、当然だ。それでも、よかった、目を覚ましてくれて。

 だが、そんな喜びも束の間。彼女が短く一言だけ発した。
 
 誰。

 俺は、何が起きたのか、何を聞いたのか、わからなかった。だれ、という二音が何を意味しているのか、理解したくなかったのかもしれない。

 医者には、彼女が事故のショックによる記憶喪失だと告げられた。それは今後治るかもしれないし、ずっとこのままかもしれない、と。



 あれから、1年の月日が流れようとしている。まだ、彼女の記憶は戻っていない。記憶を失った彼女は、どこか遠慮がちだった。理由を聞くと、記憶をなくす前の私に申し訳ない、と返ってきた。思えば、彼女が記憶を失ってから、俺は下の名前で呼ばれたことはなかった。

 今日はたまたま仕事が早く終わり、夕方に帰ることができた。道中の桜並木は、満開だった。夕焼けに照らされた薄ピンクの花を見ると、いつか病室から見た景色を思い出す。ああ、もうそんな時間が経ったのか。

 玄関の少し重い扉を開けて中に入ると、彼女とよく作った料理の匂いが鼻腔をくすぐった。懐かしい。そう感じたとき、俺の頭の中にひとつの可能性が浮かんだ。俺は、その可能性を信じて、廊下の扉を軽快に開けた。

 それに気づいた彼女が、「おかえり、祐介くん。早いなら早いで連絡してよ」と溜息まじりに出迎えてくれた。
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