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はじめての作曲依頼

自由に魅入られし二人

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 そして舞台の幕が開く。
 幕が完全に上がらないうちにピアノの音が流れ始める。ミスではなく演出である。
 舞台の上には演者よりも存在感を示してしまう巨大な最新型の88鍵ピアノ。
 その前にピアニーは座っていた。
 豪華絢爛なピアノに恥じぬ、煌びやかなおろしたてのドレスに身を包んで。
 ピアノを弾くためには袖が邪魔という意見を元に大胆に肩を露出している。生地も通気性に優れ、長時間の演奏にも向いている。エルメス商団特製のオーダーメイド品。
 会場は円柱型で四階建ての劇場。天井にはドナタ・ソナタを舞台とした最も有名な古代の聖戦の絵が描かれている。一階は平らな床にクッションのある椅子と人がすれ違うには充分な広さの通路。二階より上は個室となっている。
 地上から天井まで演者を食ってしまうほどの趣向を凝らした風雅と共に威厳を示す偉大な劇場の中、一年前は畑を耕していた田舎娘が堂々と、偉大な建造物をアクセサリーにするかのようにピアノを美しく奏でる。
 フォルテはその姿を最も離れた四階席から目を細めて眺める。

「ほほう。野に咲く可憐な一輪の花かと思いきや、大輪の華で着飾る麗しい薔薇の木でございましたか。やはり芸術とはわからぬものですな」

 個室に招いてはいない客が訪れる。

「お久しぶりでございます。フォルテ殿。マシュー・カンタービレでございます」
「お久しぶりです、マシュー様。この度はお招きいただきありがとうございます」

 フォルテは立ち上がってお辞儀をする。

「隣に座ってもよろしいですかな」
「私は構いませんが、よろしいのですか? 他に尋ねるべき貴族もいるでしょうに」
「演劇開始前に挨拶は済ましております。それに貴族のほとんどは私への挨拶が主目的でしょう。そんな者にほど、演劇に集中してもらいたいのです」
「そういうことであれば」

 個室には二つの椅子。
 フォルテは座っていた椅子を譲る。

「そのまま座っていて構わないのですよ」
「こちらのほうが都合がいいでしょう。演劇も私の声も聞き取りやすい。左耳、聞こえないのでしょう」
「……お気づきになられていましたか。まさかというべきか、さすがというべきか」

 気遣いを無駄にせず、譲られた席に座る。

「あ、おつまみにこれはどうです?」

 大きな紙のカップに入った綿花のような菓子。

「これは?」
「ポップコーンです。エルメス商団からおすすめされ、せっかくなので取り入れてみました」
「コーン?」
「まあまあ、家畜の餌とは思わず、騙されたと思って一口」

 フォルテは一粒を口に放る。

「もきゅもきゅしてるな……それとこれは蜂蜜をしみ込ませてるな……案外いける。しかし量が多くて残すことになりそうだな」
「残しても問題ありません。落ちたものも後に回収します。家畜のえさになるので」
「なるほど、よくできてる」

 二人でポップコーンをほおばる。
 するとマシューから話を切り出す。

「聞こえなくなったのは先の大戦からでしてね。部下が火薬の取り扱いを間違え、火薬庫が暴発してしまいましてな、離れていた私も少しばかし影響を受けてしまったのですよ」
とは言わないのですね」
「ええ、部下の責任は上官の責任で他人事ではございませんから。それにドナタ・ソナタに大砲の技術を取り込んだのは私だ。過去も未来も、同様の事故が起きれば私の責任ということになります」
「上官ともなればすぐ側に治癒魔法が使える高位衛生魔術師がいたはずでは? 治癒魔法であれば損傷してすぐになら離れた腕もくっつくはず」
「いましたとも。ですが私よりも怪我をした部下を優先させました。勿論上官の立場故に両耳が聞こえなくなれば戦術、戦略に影響が出てしまう。幸い片耳が生きていたのでその時の私はそのように判断しました。そしてそれは間違っていなかったと今でも胸を張って言えます」

 舞台に一人の演者が立つ。背筋が伸び、声がよく通り、きびきびと動き、右の肩から下は腕を失っていた。だけど顔は晴れ晴れとしている。

「……ドナタ・ソナタは良き軍人を持ったもんだな」
「良き軍人ですか」

 マシューは苦笑する。

。お気づきになられませんでしたか? 一階の観客席には演劇よりも他に気を取られている者がいるでしょう」
「まあ、どこかの国のスパイくらいには。それも一人じゃないな」
「ああやって我が国のレベルを測っているのですよ。技術力や文化力、貴族だけじゃなく庶民の生活までも。また演劇の台本から民衆は何を求め、何に不満を抱いているのか。隅々まで調べようとしている」
「そのためのピアノですか」
「ええ、七英雄ともなると馬車なしに気軽に外出できないのですよ」
「それでは貧乏と変わりませんね」
「いいえ。それでも貧乏よりも贅沢してるに違いありませんよ。自由だってあるのですから」

 マシューは体格に見合わず、ポップコーンを一粒ずつ味わって食べる。

「……ピアニー殿には大変ご迷惑をおかけしました。まさかこのような事態になるとは。きっと彼女の腕前は外国にも知れ渡ることになるでしょう」
「ピアニーには説明済みです。そのうえで彼女は演奏すると決めたのですから」
「彼女は政争をわかっていない。いまや芸術は金にもなり、弾丸にもなる。大戦で儲けて勘違いした貴族もどきが彼女のもとに押し寄せるでしょう。芸術のためではなく、金儲けのために。出世のために策略だって練るでしょう」
「その時は存分にシュバルツカッツェ家の名前を使いますよ。よっぽど馬鹿でない限り、迂闊に手出しはしないでしょう。それに彼女だってのろまではあるが馬鹿ではないですよ」
「……失言でした」
「失言ではありません。政争をわかっていないのは真実ですから。ただ、何があっても俺が何とかしてくれると信じてくれているだけです」
「……危なっかしいですな。見ていられませぬ。老いぼれとしてはお節介を焼きたくなります」

 ふふふ、と笑みをこぼす。
 ピアノのソロが始まる。演者が舞台袖に引き下がり、独演会となる。
 従者の見せ場。しかしフォルテは頭を抱えて耳を塞ぐ。
 聞くに堪えない演奏だったからではない。呆れたからだ。

「あいつ……またやりやがったな…………散々付き合った俺の苦労を不意にしやがった……」
「あはは、音楽は芸術。芸術は自由。そういうこともあるでしょう」

 マシューはフォルテの肩をぽんぽんと叩いて慰める。

「目の前で演劇を繰り広げられて気持ちが舞い上がったのでしょう。私はもっとより良いものになったと思いますよ」
「どうして観客寄りの俺よりも最高責任者のあなたが笑っていられるのですか」
「戦場では部下が指示通りに動くとは限りません。それに比べれば、こんなの可愛いものですよ」
「はあ……マシュー様は肝が据わってらっしゃる……心の底から尊敬します。皮肉抜きで」
「そういうあなたは本当にお優しい。まるで自分のことのように心配なさるのですから」
「……臆病なだけですよ」
「おや、フォルテ様は臆病でおいでで? 何を隠そう、私も筋金入りの臆病でね、臆病自慢なら誰にも負けませぬぞ?」
「何をご冗談を。軍人のあなたが臆病なわけが」
「なにせ大砲を取り入れたのは銃剣突撃が怖くて怖くて仕方なかったでありますからな」
「……初耳ですね」
「頼れる側近と愛する妻以外には内緒にしてますからな」
「……そんな大事な話をなぜ俺……いや私に」
「ははは、言葉遣いは気にしないで。ここには私と君しかいない」
「いや、そういうわけには」
「先短い老いぼれの頼みだ、ちょっと肩の力を抜こう。互いに『自由』に魅入られてしまった間柄ではないか」
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