夢の

安藤ニャンコ

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にのまえ

不知火。知らぬ意。

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「…………」
「ねぇ、わたしの魂」

 彼女は鏡越しに私の顔をじっと見つめていた。

「解ってる、ここ・・に居てはいけないのは」

 彼女は喋る。まるで彼女の口は開いているだけで、他の人の声が響いているような、彼女のその透明な雰囲気に似つかわしくないしわがれた声が響く。体は私と同年代の彼女だが、『声』は『魂』と同じ年齢なのだろうか。それとも単に、彼女という像に私の意識が介在しているから、そうなのだろうか。
 可憐な花々が揺れ、ぬるまな湯治が揺れ、そして風情が揺れ。全てのものが揺れている。カタチも、ナカミも、存在するもの全てが揺れている。湯気のようなあやふやなものも、大地のようなゆるぎないものでさえ、揺れて・・・いる。それと同じように、私のココロも、彼女が語らう事によって揺れた。いや、それは違うのかもしれない。揺れたのは私を含むこの場所全てではなく、或いは私のココロだけが揺れているのか。
 過ぎ去ったはずの時の中の、死んだ祖母の幼げな肢体が私に巻きついている、この状況に私の気がいささか動転しているのだろう。私の目は、いつからか涙を催している。
 彼女は私から離れ、ひた、ひた、と足音を立てて湯船に再び浸かった。湯の中に入る音が、再びこの世界に広がった。

「泣かないで、わたしの魂」
 彼女はさらにのたまわく。
「わたしを見て。確かにここに来て、言って、わたしに触れて」

 彼女の呼びかけが、私に届いた。私は動かない。
 彼女の手が、私の掌の上に乗せられた。私は握り返さない。
 彼女の眼が、私の眼を捉えた。私は見ない。
 彼女の囁きが、私の耳に触れた。私は耳打ちに行かない。

「私はなぜ、あなたわたしを忘れられないのかな」

 呟いた。忘れたくないものである祖母を、同時に私は、いつの間にやら忘れたいものとしても見ていた。彼女が死んだ直後から、私はわたしで無くなった。私とわたしが乖離したとでも言おうか。存在と魂がマヨネーズのように混在していたのに、今は卵と油を繋ぐ成分を失くして単品に成り下がったかのよう。私には、私がわたしである証拠が見つけることができなくなった。私をわたしたらしめる証拠が、彼女だけだったからだ。彼女はわたしだったのだ。兎にも角にも、私はわたしであって、わたしでなくなってしまった。

「見て、わたしを」
 無理だ。
「そして私はわたしだと、証明してみせて」
 私は顔を向けられなかった。依存し続けた報いがこれとは、私ながら情けのない事柄だ。わたしをこうして見せつけられる事が、こんなに奇異で忌避したい事だとは思わなかった。
 弱々しく、私は言った。


あなたわたしなんて、私は知らない」
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