自慰行為

安藤ニャンコ

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アーレフ

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「……………」
 雨の日に彼は死んだが、皮肉にも今日のこの墓には陽が当たっていた。
 父の名前が刻まれた、かつての父だったものがその下に納められているであろう、ちんけな防腐処理の施された木に手を当てた。
 父は、この死者が大いに利用される時代の前に存在した。存在したというのは、この世に在った、生きていた、という意味だ。そして彼は死んだ。二○一○年八月二十四日、その死という言葉が元来意味する通り、彼は死んだのだ。今の死という字の意味は随分と多様化してしまっているため、今彼の事を表現しようとするならば、死んだ、ではなく。亡くなった、という言葉が適切だろうか。もっとも、今の死も定義的には昔のそれとほぼ変わらず、今使われているツール死者についてのその文字が意味するところの意味とは少しズレが生じた、というだけの話なのだが。どうも私には「読んで字の如く」という、そのハッキリとした境界を欲する傾向があるようだ。
 死因は数十の弾丸が体を貫いたことによるショックらしいが、写真を見た限りそれだけではなかった。詳しく聞いてみれば心臓に弾丸が何発か入室し、頭蓋にも乱暴なノックの末に何発かが入退室をしたらしい。彼の死に様を見たものだけが、彼の生き様を物語る事ができる。つまりは彼の中に残された弾が、血が、煙が、そして付近に置かれた銃が、父の悲劇の語り部として全てを物語っていた。
 想像する。血が本や絨毯や机、果てはランプに吹き付けられ、弾痕がこれ見よがしに散らばって穿たれた書斎を。その弾痕一つ一つに番号付けがなされた、まだほのかに硝煙香る冷たい現場を。死んだ人間の位置を正確に記録した、薄れかかった白チョークを。二時間ほど前に終焉を迎えた肢体を、まるで美しいものを見るかのようにまっすぐな瞳で見つめる、精度のいいカメラの瞬きを。
 彼はモルグの前身である組織、特別戸籍管理室の室長だった。仕事場には当然身を護ってくれる人間を連れていたし、家には執事とは名ばかりの用心棒が置かれていたらしい。私はその当時まだ園児くらいで、よく本を読んでくれたり私の質問に対しての答えを遠回しに教えてくれたりした。またはっきりとまでは行かないが、父が体格のいい人間とばかりと連れ添っていたことも憶えている。

 というか、それが私の持つ父についての記憶の全てだ。

「父さん。私もあなたのようになったよ。……もっとも、私の意志じゃないけどね」
 モルグ職員が死んだ。または行方不明とされた場合。身内の誰かに必ずその時点で所有していた権限が強制的に渡る。モルグ職員は元々“戸籍を持たざる者達”で構成されているため、元々所持していた、また譲渡された者の戸籍情報は抹消されなければならない。つまり、モルグ職員の人間は皆公には死亡した事になっているのだ。その強要を断れば一族もろとも殺され、新たな家系を殺す引き込むのだろう。それは私も例外ではなく、私が今死んでいられる生きていられるのは、その強要に対してイエスと答え応じたからだ。そして私の欲した明確に目に映っている境界ボーダーは、目の前のこの父親の隣に存在する、女性の名前の彫られた墓にある。
 しかし受け継ぐとは言っても、前任者から継いだ時点で余りに経験が無さすぎる、つまり、一般人として生活していたという場合、身に余る権限にはいくつか制限が設けられる。例えば私の父親は室長───今で言う所長───だったが、その権限は現所長に移行しているし、生まれながらのモルグ姓は与えられた権限に制限がない。私が全ての権限解除するのはいったいいつになるのだろうか。しかし、私は時間がいくら経っても一向に構わない。
 私の死体はある。とりわけそれは他の一般人の死体と比べ綺麗に、奇麗に防腐処理され、安らかで自然な顔を死体化粧人が施すことによって浮かべられている。
 それはもう一人の私だ。つまりは鏡。つまりは死に写し。つまりはクローン。私が生まれた瞬間の身体から盗られた細胞の成れの果て。クローンは私と共に成長していた。私はそれを知らずに成長した。そして父が死に、私がモルグ姓を獲得した時点で、同時にクローンも死んだ。私は、見ることの叶わなかったクローンドッペルゲンガーの生き様を語る事ができない。語る事が出来るのは、常にクローンを観察し続けていたモルグの変人共だけだ。私のおっぱいが何センチ発達した、おしりが大きくなってきた、思春期が到来した、生理がやってきた、だの。その全てを私は知らず監視されて二十余年生きてきた。溜め息をつきたいどころじゃない。今すぐ裁判だ。法廷で会いたいレベルだ。クローンは本当に気の毒だったと思う。


 今日ここに来たのには、いくつかの理由がある。
 父が長として君臨していた組織、特別戸籍管理室が………シェオルだったこと・・・・・・・・・は、その中のとりわけ大きな理由の一つだ。理由はもちろん他にもある。
 この墓の前に来たのは、いや、この墓に来たのは、大いなる死者への冒涜のためだ。
 私は墓場を耕し始めた。自分のおよそ半分を構成する遺伝子を与えてくれた、自らの親の体を収穫するために。

────────────









 亡骸は無かった。
 思えばこの瞬間、私の中で何か直感が働いていたようにも思える。それともそれは、ある種の安心だったのだろうか。父の亡骸がなかった事に対しての。私はどこかに父の面影を求めているのだろうか。それは室長だったり、サティだったりするのだろうか。突然父という存在を意識し始めた私は、しかししっかりと状況を分析することに成功していた。
 墓にはしっかりと刻まれた名前。掘り返した枯れ草が混じり気味の芝生。そして、あるべき所にない棺。中を覗けばすっかり乾いた花びらが、心なしか人を囲んでいるような形で散りばめられている。その花の言葉は別れ。
 それが全てだった。私にとっては、これで充分だった。墓荒らしに遭ったものと似ていたとしても、私の中では彼が生きているという充分な証拠になり得た。そして全てが繋がった。父がまだ生きていて、そしてごく最近、再び動き出したのだと。シェオルの内部調査とは、モルグ死体保管所の前身だったシェオル本当の墓の内部調査だったのだと。現室長は、シェオルのオーナーでもあった父の娘である私だからこそ、この捜査に当てたのだと。
 私には現室長ですら知らない過去のモルグの前室長陽炎が、捜査すべき残像が見え始めていた。父親の残滓が娘の私を導いているように感じられる。それは間違ってはいない、と思う。なぜなら私にとっての父親は、やはり父親なのだ。ヒントをそこかしこに散りばめて、私を必ず答えへと導いてくれる人なのだ。なら、私がすべき事は墓荒らしの続きだろう。私にとってはこれらが全てだが、彼にとってはこれらが全てであるとは思えないから。そうして私はまた墓を犯す。その動作にはもう死人を掘り起こすということの申し訳なさなどかけらもない。私はもう墓荒らしなどではなく、父から与えられた問題に嬉々として取り組む子供だったのだから。
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