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人生楽あり苦あり

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 ヴィヴィアンヌの夢自体は最高だったが、寝起きはおそらく彼の人生で最悪だったと言っていい。

 まず臭いが酷かった。生臭い。うっかり船酔いにつながりそうな悪臭だった。
 次に身体がとにかくあちこち酷い。下半身の感触が何とも言えない気持ち悪さで満ちているのが最も気になる。樽の中で身を縮めて寝ていたので、背中をはじめ身体のそこらかしこが軋んで痛みを放っている。
 特に頭、両耳の上辺りが奇妙に疼いて、彼は何度もそこをかきむしった。ばりばりと肌を掻くと、鱗が引っかかってきらきら光りながら落ちた。

 その時暴れた音で、船員に所在がばれたらしい。ズズは甲板に引っ張り出された。

 船長らしき男は、最初ズズを怖い顔で覗きこんだが、彼の鱗のある身体を見ると、おや、とても言いたげな表情に変わった。

 ズズはその間もばりばりと頭を掻いていた。実は股間もむず痒かったのだが、さすがに衆人の前である、自重した。
 大層悪い気分だったが、強面の船長に問われるまま、「好きな相手がいたが想い叶わず、それどころか接近禁止命令を受けたので行き所がなくなって出てきた。当てがないので適当な船に潜り込んだ。町には傷心で戻りたくない」と答えた。

 質問の中で嘘を吐いたのは一つだけ。ズズは自分に身寄りはなく天涯孤独だと答えた。正確には違うが、これもまた状況を考えればあながち嘘とは言えないような言葉だった。

 ますます甲板に何とも言えない空気が漂った。船長は深く息を吐き出して、うずくまっているズズに合わせるようにかがめていた身体を起こした。

「まず服をなんとかしろ、臭くて仕方ねえ。そんで、次の港に着くまでは船の一番下っ端だ、先輩達の言うことをよく聞きな。船が着いたらそこで下ろす。その先はテメエでどうにかしろ」

 船長はそう言いつけて、話は終わりだとでも言うように立ち去っていった。
 そういうわけで、意外にもズズは海に投げ出されることはなかった。
 あまりにも間抜けな格好で発見されたので、怒るだけアホらしいと思われたのだろうか。
 彼を半眼で見守っていた船員達も、密航者が下っ端に変わるとあっさり新しい服をよこしてきた。
 その前に海で丸洗いさせられることになったが、仕方あるまい。
 塩水がパリパリ染みる、と思いつつズズは堪えた。与えられた待遇は良すぎるほどだ、文句を言っていい立場ではない。

 その後の航海は驚くほど順調に進んだ。天気が荒れることもなければ、海賊の類に出くわすこともない。

 ズズが乗ったのは貨物船だ。見た目が異様なズズのこと、客船とは相性が悪いように思えたから、観光用や人の運搬を目的とするような船は意図的に避けたのだ。
 先輩達は何でも言いつけられる後輩が来ると、嬉々として用事を振ってきた。
 やれ雑巾がけをしろ、見張り台に上れ、帆を手伝え、荷物の整理をしろ、料理をしろ、肩を揉め……起きている間ずっと、ズズはあっちに呼ばれこっちに呼ばれ、常に足や手を動かしていた。
 それでも文句一つ言わず、また元々何でも屋のような生き方をしてきた成果もあってか、次第に下っ端としてこき使われるなりに可愛がってもらえるようにもなっていた。

 そのうちズズが大失恋の概要を更に詳しく話すと、先輩達には大受けした。
 何しろ相手は有名人のカストレード、そしてこちらのしたことは不法侵入である。
 ズズの馬鹿っぷりをゲラゲラ笑うのと同時に、「それじゃああの町にはいられねえわなあ」「いやあ、お前もよくそこまでやるわ」なんて口々に言ってばんばん身体を叩いてきた。その拍子にパラパラと身体から鱗が落ちて、ズズはちょっとだけ迷惑に――それから不思議に思った。

 鱗が剥がれることは、今までもあったけど。なんだか最近、というかこの船に乗ってから、更に頻度が上がっているような……。
 頭と股間のむずむずも残念ながらなかなか収まってくれそうになかった。他の事をしていると気にならないのだが、寝るときなどは大いに邪魔になった。ズズが日中やたら走り回っていたのは、彼としてもその方が助かったという理由もある。

 ともあれ、ささやかな苦労はありつつもちゃんと船は目的地までたどり着き、ズズは約束通り波止場で下ろされた。
 船員達は結構別れを惜しんでくれて、一緒に行こうと誘ってくれた者も何人もいた。
 ズズの働きっぷりと健康さはとても重宝されたようだ。

 船長はただ一人、うるさい連中の中でじっとズズを見てから、いつぞやの時のように彼の目の高さに合わせるようにかがみ込んだ。

「この港はお前の故郷ん所よりさらに大きいし、色んな場所に、人に繋がってる。俺たちは三日ほどここにいるから、行く所がなかったらまた戻ってこい。これは駄賃だ」

 最後にそう言って、硬貨の入った小袋を投げて寄越した。
 ズズは心を込めて頭を下げてから、特に未練なく新たな町に向かって歩き出した。

「船長、薄情ですよ!」
「馬鹿お前、あれでいいんだよ」

 背後でのやりとりを、もしかしたらこれが最後かと思うと少しじんとする気持ちもある。

 さて、それにしても人が多い。それと、ズズの生まれ故郷では人間の方が多数派だったが、この港町ではどうやら亜人と人間が半々――いや、人間の方が多いぐらいだろうか?

 きょろきょろ当たりを見回していたズズは、ふとくんくんと鼻を動かす。いい匂いに釣られていくと、どうやら露天で食べ物を売っていた。鳥の串焼きと聞いて、早速もらったばかりの硬貨を使う。

「ほいよ、毎度あり!」

 店主も亜人で、鱗の人間に嫌な顔をすることもなくぽんと串を渡して寄越した。意外と自分は小さな世界にだけ生きていたのかもしれない。ささやかなカルチャーショックを、異国の美味と共に噛みしめる。

「もし、もし。そこの方」

 良い気分で立ち食いに興じていたズズに、どこからか声がかかった。最初は聞き違いかと思っていたが、ちょんちょん腰の辺りをつつかれるとさすがに振り返った。

 ズズのことを引き留めたのは、随分と小さな人間だった。見た目は老爺なのだが、少年であるズズの胸より更に下に頭がある。小人、という言葉がズズの頭の中に浮かんだ。
 その小人はじいっとズズの顔を見守っていたが、歯の欠けた口を開いて変な声を上げた。

「やや、やはり、そうですじゃ――龍神様、どうしてこのような所におわしますのじゃ!」

 ズズはきょとんと目を見張った。
 首を傾げた拍子に、またぽろりと頭から鱗が落ちた。
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