上 下
92 / 95

しおりを挟む
 侯爵がかっと血走った目を見開いた瞬間、彼を黒い影が取り巻き、そして殿下に向かって飛ぶ――というか、黒!? 見たことのない魔法の色。直感で駄目な奴――禁術の類いだってわかる。

「――殿下!」

 けれどしなやかな鞭のように伸びた影は殿下に届くことなく、その手前で弾かれて霧散した。

 ……あれ、そういえばこれも今更の発見ですけど、本日の装いはいつもの学園制服姿とは異なりますが、護衛ゼロのお一人様行脚は平常運転ですね? それなのにさっき、あんな挑発台詞連発してたの? いや、いつものことではあるけれど、もうちょっと御身を大事にして!?

「僕に精神汚染は効かないよ。これでも皇族の末席に連なる者だからね」

 皇子殿下は穏やかに微笑まれる。

 わあ……そうか、今のが精神操作系の魔法の色……?
 そんな危ないものを知っている上に使えることにもドン引きですが、それを皇子殿下にぶつけるとは、いよいよ侯爵閣下も追い詰められているらしい。

 いや、殿下、あの、その、この人ヤバいお方ですがそれなりのお立場の人でもあり、なんかこうもうちょっと穏便に済ませるルートってなかったのでしょうか。

 なかったね、あの顔ヤる気満々だ。前に食堂で見た。見た目はまごうことなき天使の微笑みだけど「絶対許さねえ今からボコボコにしてやるからな」って意思を宿した表情なんですよね、今改めて理解を深めました。やはり皇室で最も大人しい男(ただしあくまで皇室基準)ということなのでしょうね……。

「……なるほど。ならば殿下には、この世から消えていただくほかありますまい」

 けれどぶち切れていらっしゃるのはどうやら侯爵閣下も同じらしい。

「晩鐘に帳は落ち、星満ちて空は瞬く――」

 彼が不敵な笑みを浮かべて詠唱を始めると、にわかに空の雲行きが怪しくなる。
 周囲が暗くなり、ゴロゴロと不穏な音が鳴り出した。ポツポツ降り出す雨粒……。

 いや、正気かこの人。元々狂気だった。そんなことはどうでもいい。
 天候操作――大精霊級も飛び越えて神霊級魔法に手を出すとかバッカじゃないの!? それいかに魔力と才能に恵まれている貴族でも、一撃放てるかどうかも定かじゃないし、詠唱完了後に魔力系統に後遺症出ますよ? 「天を操ろうとするなかれ、成功しても廃人確定だからね」って魔法学の最初に習うのに!

 しかし殿下、既に迎撃準備中の模様。わあ、もう相殺詠唱始めてる……いえ、まあ、ほとんど同時に唱えないと間に合わないんですけどね、級が上の魔法の場合。

 …………?

 でも、なんだろう。この違和感。何か変だ。発生した雨風で顔にまとわりついてくる髪を指でどかしながら、わたくしは目を細める。

 天を操る魔法とは言え、雨を降らせるならば水、大気を操るならば風、雷を落とすなら光が該当する属性だったはず。大規模に嵐を起こそうとするならば、だからこれらの色が混ざり合った風になるはずで……いや、見えないわけじゃない。

 確かに青とか緑とか黄色の発光だって目に映ってはいる。

 だけど……一番濃い色は違う――黒だ。ならば侯爵の本当の狙いは――。

「天候操作はおとりです、殿下!」

 ――叫ぶ。殿下がこちらを向く。はっと気がついて、大きく見開かれる青い目。

 一瞬の出来事。

 わたくしはとっさに手で顔を覆ったが、おそらく本能的な防御反応だったのだろう。直視していたらちょっと目がどうなっていたのかわからない。まばゆい、両手で瞼を覆ってもちくりと痛みを感じるほどの閃光と、耳の奥がキーンとなる爆音。

 ……恐る恐る、辺りをうかがう。
 意外にも、雨風で多少酷い有様になってはいましたが、逆にそれ以外の被害は見当たらない。

 殿下も侯爵閣下も立ったままだ。

 ――いや。
 程なくして、侯爵閣下が膝から崩れ落ちた。

 皇子殿下がふーっと大きく息を吐き出し、前髪をかき上げる。

「神霊級魔法はブラフ、本命は意識の乗っ取りとはね……。僕もまだまだ修行不足みたいだ」

 彼が前髪をかきあげていつものように微笑んだのを見てようやく、わたくしは体から力が抜けるのを感じた。
しおりを挟む

処理中です...