Lost

とりもっち

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Ⅴ. lapdog

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読み終えた本を棚に戻し、青年が大きく背伸びをする。
続いて首を左右に倒す度、カチャカチャと鳴る金属音と。
首元で揺れる鎖の重さにはもう慣れていたが、時折肌に触れる冷たさだけはどうにも慣れなかった。
それもシャツを羽織った今ではもう問題ではない。
加えて不格好ながらも久しぶりに短く刈られた頭髪とすっきりとした顎元は、青年の姿をそれなりに見せていた。
ただ性の捌け口として彼を扱っていた頃、最低限の食糧を持ってくるだけだった男は、今では多少の世話すら焼くようになったのだ。
怪我の功名とでも言うべきか、長らく置き去りにした時のあの一件が、男の心境に何らかの変化を与えたのだろう。
手が届く範囲に動かされた本棚には、元からあった古い雑誌や漫画に加えて、真新しいものが数冊ほど並んでいる。
おかげで一日のほとんどを読書で過ごしているから、目の疲れが酷い。
それよりも特筆すべきは、上だけではあるが服を与えられた事だろう。
この薄布一枚が、僅かながらも人としての誇りを感じさせてくれるのだ。
丈の合わない袖口を見詰めながら、男の行為は自分を認めてくれたものだと、満たされた思いで青年は笑んだ。
それが例え、性玩具から愛玩動物に昇格したくらいのものだとしても。

***

二人分の重さにベッドが軋む。
蛍光灯の無機質な白が、圧し掛かる人影を黒く映して。
響くのは濡れた水音とぶつかり合う音、そして抑える事を止めた青年の嬌声。
腹の奥を穿つ昂ぶりは相変わらず容赦無かったが、今では痛みよりも快楽が勝っていた。
「ん、……っ、はぁっ……」
恍惚に緩んだ口元は男の精で汚れ、鼻を突く雄の臭いが理性に靄をかける。
ねだる様に首へと手を回し背中に足を絡めれば、内臓まで掻き潰される程に男の勢いが増して。
ふと笑ったような吐息を耳に感じ、ぞくぞくと背筋が打ち震える。
何の事は無い。初めから受け入れてしまえば良かったのだ。
今頃になって気付くとは、いつだって自分の選択は遅いのだと。
胎から引き抜かれた男の屹立が唇に触れ、躊躇いなく口腔へと受け入れる。
髪を掴まれたまま喉を突かれる苦しさにえずきながらも、ひたすらに耐えるだけ。
青年にとって、男との行為は自分と男とを繋ぎ止める絆となっていた。
同じ事の繰り返し。時間感覚などとうに無い。
世界は二人だけで完結しているのだ。
それは永遠とも呼べる程。
ならば、目の前の相手に縋るより他は無い。
満足すればすぐに帰っていた男は、いつしか煙草一本分の時間だけ過ごすようになっていた。
煙を吐き出すその隣へと腰掛ける。
ふと横目で窺って男と目が合い、思わず逸らした一瞬に、その暗い瞳の奥が複雑に揺らぐのを青年は見逃さなかった。
煙草を放した唇が遠慮がちに近付き、あと僅かで止まる。
「っ、……帰る」
すんでのところで気を取り直したかの如く、弾ける様に立ち上がった男は、お茶を濁すように呟くと、青年には目もくれずに扉へと向かっていった。
開け放たれた空間から光と共に肌寒い風が一瞬入り込む。
男が外に消えてすぐ閉じられた室内に一片、何かが舞い込んだ事に青年は気付いた。
ギリギリまで近付いてようやく、それが桜の花弁であると分かる。
春を告げる薄紅色。
枯れ木が賑わうだけの冬は過ぎ去り、柔らかに色付き始める山々の風景を。
鮮やかな世界が脳裏を一瞬にして駆け巡る。
「あ、……ああっ……!」
狂乱に悲鳴のような大声を上げると、青年は頭を勢いよく壁に打ち付けた。
鈍い金属音を何度も響かせて。
確かに過ぎていた時の実感をここに至って思い知らされるとは。
「俺は……何、を……」
大きくかぶりを振って溜息と共に呟く。
まともな精神状態では無かった。危うく飼い慣らされる所だった。
これではまるでストックホルム症候群だと。
従順に媚びへつらい痴態を見せていた己を思い出し、青年はぞっと身を震わせた。
浮かされるように明瞭さを失っていた意識が少しずつ冷め始めると共に、確固たる思いが胸の内から湧き起こるのを感じる。
ここから生きて出たい。
逃げたい、と。
その為には、と考え、ふと先程の男の態度を思い出す。
唇に触れかけたあの逡巡を。
それは男が青年を人として意識し始めたのに他ならなかった。
ならば反対に飼い慣らしてやろう、懐柔してしまえば良いのだ。
壁にもたれ冷たい天井を仰いだ青年の瞳に、強い光が宿る。
呼応するかのように、吹きすさぶ春風が倉庫全体を揺るがせて。
閉ざされていた世界が動き出した事を、青年は確かに感じていた。

***

まずは一言程度から始めた。
入ってきた時や帰っていく時の挨拶や、ちょっとした時の感謝の言葉を。
あくまで遠慮がちに、恐怖と好意のせめぎ合いの中で漏らしてしまったように。
最初は驚き戸惑い警戒すら見せた男が、やがて自分の言葉を待つようになったと感じてからは、少しずつ独り言のように青年は自らの身の上を話し出した。
ボロが出ない程度に、良かった事は小さく、嫌だった事は大きく、共感を得らえるよう言葉を選びながら。
青年の目論見通り、男が重い口を開き始めるのにそう時間は掛からなかった。
煙草を片手に、感情を交えず出来事だけを淡々と。
少しずつ語られていく過去。
元々出来が悪かった男は、受験の失敗を切欠に家での居場所を失い、山奥に暮らす祖母の家へと転がり込む事となった。
地元の工場に勤めながらの、束の間の平穏な日々。
それも長くは続かなかった。
祖母の死により家を相続した両親は、母屋からこの倉庫へと男を追い出したのだった。
見放され期待もされず、窓の無い室内で鬱屈を抱いたまま唯一人。
家族との確執は男の精神を歪ませるには十分だったのだろう。
それでも――自分への行為を正当化する事も、許す事も出来るはずがない。
男の告白を聞きながら、青年は胸の内に嫌悪感が広がるのを感じていた。
「だから……殺した」
唐突に聞こえた言葉に、思わず耳を疑う。
「え、……っ」
顔を上げて、青年は絶句した。
愉しそうに薄ら笑いを浮かべる男の顔。
ムカついたから、寝ている隙に両親を殴り殺したのだと、軽く言ってのける。
にやついた笑みを張り付けたまま、ぐりんと首を回して男が覗き込む、その瞳の奥は青年の反応を窺うように冷静な色を浮かべていた。
試されているのだ。
ここで引いては、怯んではいけないと。
ぞっと背筋に冷たいものを感じながらも何も言葉を吐かず、青年は柔らかにそっと微笑みを返してみせた。
それは否定され続けてきた男にとって、初めての肯定とも言えたのだろう。
男の驚愕に見張った目が歪み、みるまに涙を浮かべる。
「ぅわっ!」
突然の衝撃と振動に、青年は思わず声を上げた。
一瞬にして視界が奪われ面食らう。
唇に触れる感触と煙草の臭い、頬にぽたぽたと垂れる滴の温度と。
勢いのまま抱き付いてきた男に口付けられていると青年が気付いたのは、ベッドの上に倒れ込んだのを理解してからだった。
しがみ付く背中をあやすように優しく叩き、両腕で頭を掻き抱く。
不器用に口付けたまま差し入れられる舌を素直に受け入れて。
男が落ち着くまで、青年は静かに抱き留め続けていた。

「何か……欲しい物、あるか?」
しばらくして気まずそうにそそくさと立ち上がった男がぼそっと呟く。
思いも寄らない言葉に少し考えあぐねてから、
「……ワインを一緒に飲みたい」
おずおずと上目遣いで青年が吐いた提案に、男は頷いて返した。
同時に頭の中で、金曜日の仕事終わりにでも買って帰ろうと算段をする。
心なし高揚する気分を自覚しながら。
「んー、……じゃ、また」
気恥ずかしさを誤魔化すように、振り返りもせず部屋を後にする男の背に、おやすみ、と青年が声を掛ける。
静かに閉められた扉の向こうで、挨拶を聞いた男が少し頬を緩めた事を、青年は知らなかった。
そしてまた、優しい声音とは裏腹に危うさを含んだ青年の視線を、男は知らなかった。
ただ賽は投げられた事を、青年だけが知っていた。
もう後戻りは出来ないと。
例え男の身に同情する余地があったとしても、到底受け入れられるものではない。
このまま飼い殺されてなるものか。
男の感触を消すように手の甲で乱暴に口を拭い、服の皺を叩いて伸ばす。
染み付いたベッドの臭いから逃れるように、離れた床の上へと寝転がると、青年はしばらく険しい表情で天井を見つめ続けた。
 
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