上 下
13 / 104

十二話 潜入

しおりを挟む



「重治様、いよいよです。覚悟はいいですか」


「様は、勘弁してくれませんか。‥‥ご先祖様。ふふふ」


「‥‥ご先祖様は、酷いです。ははは」



金ヶ崎城を前にした織田軍が、織田家存亡の緊急軍議を開こうとしていた少しにさかのぼる。

竹中半兵衛と重治は、妙に緊張感漂う中、その緊張感を少しでも和らげようと冗談を交わし会っていた。

それもそのはずである。今、この二人の動向に織田家の命運が握られていたのである。


「では、まいりましょう」


「はい」



半兵衛、重治とその部下として付き従う三人の忍びが、その言葉を合図に歩みを始めた。

織田家の命運を握る五人が目指すのは、眼前にせまる、小谷の山に建てられた難攻不落の城、浅井家の居城である。


織田家の越前侵攻で、浅井家は、朝倉家を盟友とするものと、織田家に着くべきとするもの、二派に別れていた。

そして現在、信長討伐の指揮を執るのは、長政の父、久政である。

織田家の背後を突くため、浅井家のほとんどの諸将は、出陣してはいるものの、その実は、意志の統一の出来ていない、まとまりのない軍団の出陣となっていたのだ。



「半兵衛様。わりと、スムーズに忍び込めましたね」


「すむうず??」


「あっ‥‥、そうですね……簡単にという意味のことです。南蛮の言葉でスムーズと言うんですよ。」


「ほう、やっぱり解っていても凄いですね。この時代の人間でない事を再認識してしまいました」


「駄目ですよ。そんな大きな声で。それに、それを知る者は、数人しかいないんですから。知られてしまうと、あとが面倒ですから」


などと二人は、城内に潜入したにもかかわらず、緊張感のない会話を緊張感を漂わせながら、続けていた。何とかして極度の緊張をほぐそうと必死になっていたのである。


先に城内へ潜入し、情報収集に飛び廻っている忍び三人の報告を目立たぬ場所で隠れ待つ、二人に出来る精一杯の準備であった。


そうこうしていると、黒ずくめで装いを決めた三人の忍びが半兵衛、重治の前に音も無くあらわれた。


その忍び三人のうち一人、頭となる者の名を伊蔵。残る二人の名を、才蔵、末松と言った。

忍びの術にかけては、右に出る者がいないほどの手練れ達であった。


「重治様。長政様、捕らわれの場所、確認できました」


「で、中の様子は?」


「はっ、警備は手薄で、侵入には、何の障害もないと思われます」


三人の忍びは、そう、告げた後、頭を下げた。


「ご苦労でしたね」


「いえ、我ら三人、重治様に命を預けたもの。何なりとお申し付け下され」


「……じゃ、死なないこと。‥‥何があっても、生きて帰るよ。いいね」


「……はっ」三人の忍びは、互いに顔を見合わせたあと、一層深く頭をさげた。


「それでは、行くとしますか」


「はい。半兵衛様」


「いいかい、三人とも約束だからね」


重治は三人の忍びににっこり微笑みかけ、そう念を押した。


「はっ」


「それじぁ、案内を頼みます」


五人は、難攻不落と言われる城の奥深くへと潜入して行ったのである。

城内に入り辺りを警戒をしつつも、極力、素早く進んでいく。

忍びの頭、伊蔵の報告の通り、警備の者に誰一人と出会う事なく、城のかなり奥まった場所、最深部といえる所にまで達した時である。

重治たちに女性のかん高い、ヒステリックな叫び声が聞こえてきた。


「まずいな。声の聞こえてきた方向に目的の座敷牢があるのに‥‥」


立ち止まって周辺の様子を警戒する才蔵がつぶやいた。


重治たちは、それまでよりも更に警戒を強め、進んでいく。

小さな窓一つない薄暗い回廊を進み、その回廊の曲がり角まで来たとき、先頭を行く、伊蔵が両手を広げ、あとに続く者達の動きを止める合図をだした。


「この先に人の気配が。間違いなく、先ほどの女ではないかと。いや、……一人。そう、他にもう一人、ひとの気配が感じられます」


伊蔵は覗きみる事なく、気配のみで、その状況を把握した。


「さて、どうしますか‥‥。伊蔵殿、この道より他はないんですか?」


竹中半兵衛の問に、伊蔵は、軽くうなずいた。


「‥‥正面突破と行きましょう。ここで時間をかける訳にはいきません」


「そうですね。ではまず、私が行きましょう」


「いえ、半兵衛様の腕では、危険すぎます。伊蔵さん達の格好は、当然の事。ここは、私がまいります」


重治は、そう言うと四人の顔を見たあと、こくりと頷き頭を下げた。


振り向いて、四人に背を向けた重治は、堂々と歩いて回廊の角を曲がっていく。

そこに残こされた四人は、いつでも援護に飛び出せるよう準備していた。


角を曲がりきった重治の目に飛び込んだその状況は、番兵らしき兵士と、その兵士に抗議をしてくいざる女性の姿であった。


番兵は、ちらりと重治を確認はしたが、特に騒ぎ立てる様子はない。

重治の態度があまりに堂々としている事と、揉めている女性の関係した者と思い込んだ勘違いが原因であった。


理由はともかく重治は、揉めているその二人のすぐそばにまで、苦もなく近づく事ができたのである。


「どうした?なにかあったのか」


重治は堂々と、さも、そこにいる事があたり前のように、そう二人に語りかけた。

その突然の声を聞いて、女性は振り向いた。
振り向いたその女性の姿に、重治は、はっきりと見覚えがあった。


「はぁ。奥方様がどうしても、お館様に会わせるようにと、ここから動こうとなさらないのです」


「……し、げ、は、る」


女性は、重治の顔を暫の間、見つめていたかと思うと、いきなり、その名前を口にして、勢いよく重治に抱きついた。


‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡


― 時は遙かにさかのぼり清洲の城 ―


「重治、これが、わしの妹じゃ。少し気は強いがこれほどの、おなごは他にはおらぬぞ」


「兄上、その方は?」


信長の紹介した、その少女の美しさに重治は、金縛りにかかったようで、まばたき一つできないでいた。


「はっははははは。どうした重治。声も出ぬか?」


「兄上、その方を紹介してくださらないの?」



最初は、はにかんで信長の影に隠れていたその少女は、金縛り状態の重治にゆっくりと近づいた。


「はっははは、この重治は、お前の連れ合いになる男じゃ」


「えっ‥‥、そうですか。重治様、市と申します。よろしく、お願いいたします」


変わらず全く動けずにいる重治に、市は、にっこりと微笑んだ。


天使のような微笑みを見せた市は、金縛りにかかって動けない重治の手を優しく取って、握りしめた。

その市の一連の美麗な動きのなか、手を握られた事で、重治は目が覚めたように我を取り戻した。そして、その暖かな握られた市の手をそっと握り返した。


「‥‥重治です……」


極度の緊張に重治の脳裏に、それ以上の言葉が浮かんでくる事はなかった。


「はっははは。めでたいのぉ。これで、ほんとうの義弟じゃ。はっははは」


市と重治の握り合わされた手と手は、いつまでも離される事はなかった。

重治は、自分に向けられる、市の微笑みに胸が熱くなった。

重治の初恋は、こうして信長の妹、市姫を相手に体験する事となったのである。



この後、重治の初恋は、信長の目前から消える事で終わることになる。

そして、重治の初恋の相手の市姫のその後の運命は、織田家、浅井家友好の掛け橋となるべく、浅井長政に嫁ぐ事になるのである。


‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡


重治の胸に、飛び込んできた市姫は、出会った頃と少しも変わらなかった。
いや、その頃よりも一層に、神秘的な美しさが増していた。


「重治。私に力を貸して」


重治の耳元に市はささやいた。

突然の市姫の行動、その様子を兵士は、不審そうに見つめている。

このままでは、こちらの行動について、問われかねない状況になってきていた。


重治は、この状況ででもできる一計を案じた。


「うん‥?何の音だ?」


重治は、振り向きながら、半兵衛達の隠れた回廊の曲がり角の方向に目をやった。

重治のこの言葉と動作に兵士は、反応を示した。
それまで、正面を遮る位置に立ちはだかっていた番兵が、重治、市に近づき、そのすぐそばで止まった。


「どうした?もしや、曲者か?」


重治に声をかけた兵士は、再び、ゆっくりだが確実に、回廊の先に注意を払いながら進み始めた。

やがて兵士は、重治のすぐ横を通り過ぎた。その瞬間。

『バッシィ!』

重治の手刀が兵士の首筋に背後から鋭く入れられた。


「うっ、うぅー」


手刀を入れられた兵士は、その場に呆気なく崩れ落ちた。


重治の手刀が決められたとほぼ同時に、隠れ潜んでいた四人も、飛び出して来ていた。

素速い動きだった。四人は、崩れ倒れる番兵を確認すると走る速さをゆるめた。

重治に抱きついている市姫に、気を使うように、ゆっくりとした歩みに変えていた。


「兄上のおっしゃる通りでしたわ」


「?……」


「困った時には現れて、必ず何とかしてくださる」


顔を上げた市姫は、先ほどまでの悲壮感を漂わせていた人とは思えぬほどの優しい微笑みを重治に向けていた。

重治は、市姫の笑顔に、初めて彼女に出会った時のように、ただただ見つめるだけしかできないでいた。


「くやしい!」


重治は、自分の頬をつねられて、我に返った。

頬をつねる市姫と惚けていた重治の事をにやにやと見ている八個の目がそこにはあった。


「重治様は、ほんとに年をとらないのですね。……市だけが年をとるなんて、許せません」


そういうと、そのつねる力をさらに強めた。

市には、自分の周りを囲むものたちの視線に動じる様子はまるでない。


「市姫さま、そろそろ重治殿を解放していただけませぬか」


「?……」


「竹中半兵衛と申しまする」


半兵衛は、市に軽く会釈した。
それに続き三人の忍び達も頭を下げた。


「えっ、‥‥あっ、はい」


市姫は、この時になって初めて自分の行動すべてが見られていた事に気づいたのであった。市は、重治の頬から抓る手を慌てて離した。

それまでとは違い、恥ずかしげにしている、市の目を見つめながら重治は、言った。


「市姫。必ず長政様を救い出し、ここに戻ってきますから、ここで待っていてくださいね」


そう言った重治は、市からゆっくりとその場を離れようとした。
しかし、市姫の両手は重治の右腕をつかんでおり、離れゆく重治を惜しむように、指と指が離れるその瞬間まで、重治の事を追い続けいた。


「‥‥大丈夫ですから」


突然に、不安げな表情に変わった市姫を再び抱きしめた重治は、市姫の頭を撫でながらそうなぐさめた。

抱きしめ慰めながらも、重治は後方からの視線を感じていた。

重治はその視線の方を振り向いた。そこには、四人の仲間が何も言わず優しく微笑み、待っていてくれていた。


落ち着いた市姫を残し、重治達は目的地である、その先に向かって歩き出した。

市姫は、重治にこの場に残るように諭され、五人の後ろ姿を安全無事を祈りながら、静かに見送ったのだった。



「この階段を降りると目的の座敷牢があります」


才蔵が言った。

その間に階段の手前までいった伊蔵は、慎重に下の様子をうかがっていた。
伊蔵の力をもってすれば下の様子が手に取るように全てわかるはずである。


「どうやら下には、見張りはいないようです」

「わかった。それじゃあ、私と半兵衛様で下へ行く。お前たちは、ここで見張っていてくれ」

「はっ」


「半兵衛様、それでは、まいりましょう」


重治と半兵衛の二人は、慎重に階段を降りていく。

階段を降りきったその先には、忍びの才蔵が言った通りに牢が存在していた。

薄暗いその座敷牢のなかには、一人の男が座っているのがわかった。

二人は座敷牢にゆっくりと近づいた。

牢の中の男は、こちらに気づきはしたが、ちらりとこちらを見ただけで、それ以上の反応はみせなかった。


その男のいる牢屋には、鍵はかけられていなかった。
牢の中の男、長政には、全く逃げる意志はなかったのである。


「長政様。…長政様」


長政は、ゆっくりと目を開けた。すぐそばで声をかける重治をじっと見つめた。


「‥‥長政様、お久しぶりでございます」

「?……おぉ、そなたは‥‥たしか、……重治殿」


声をかけた重治を長政は、すぐには思い出さない。
重治は、長政の顔をじっと見つめて、その時を待った。長政が重治の記憶を呼び起こすには、しばしの時を要したのであった。


「長政様、さあ、ここから早く出てくだされ」


「……重治殿、こちらの御仁は?」


「はっ、竹中半兵衛と申しまする」


長政は、重治の言われるまま立ち上がり、座敷牢の扉をくぐり抜けた。


「そうか、そなたが……」


「さあ、そんなことよりも早く」


重治、長政、そして最後に半兵衛が、座敷牢から急いで歩き出した。
座敷牢から出た三人は、階段を上り、もと来た道をもどっていく。
途中、三人の忍び達とも合流し、市姫の待つ場所へと急いだ。


一日千秋の思いで待つ市姫は、そんな重治たちに、いち早く気がついた。

そんな市姫は、その場では待ちきれず、こちらに向かって手を振り駆けだした。

駆けるといっても着物の動きである。何度も倒れそうになりながらも、裾の乱れも全く気にせず、ひたすら、こちらに向かい進んでくる。


浅井長政の方も近づいてくる市姫の事に気がついた。
長政もまた、市姫に気がつくと、いきなりにかけ出したのだった。


「いちー」


長い回廊の長い距離を互いに走り寄った二人は、出会った瞬間、強く強く抱きしめあった。


「……さあ、再開の感動はそれぐらいにして、早くこの城から脱出しなくては‥‥」


重治がそう言うと長政は少し困った顔を見せ、重治を見つめ、ゆっくりと語り出した。


「‥‥重治殿、私は、ここから逃げ出す訳にはいかない。浅井家の頭領として、この戦の責を負わねばならぬ。せめて、市だけ、市だけは、連れて行って下さらぬか」


「いやです。わたくしは、あなた様の元を離れる気は全くありません。そのような事を申すのであれば、いっそ、死ねといわれたほうがましです」


二人のやりとりを見ていた、重治と半兵衛は、予測とは違う事のなりゆきに、この先の対策をどうするか、考え直さなくてはならなくなったのである。


竹中半兵衛と重治は、長政に信長の窮地を救ってもらうつもりでこの城に潜入していた。
しかし、ここにきて、その長政が頼りにできない状況である事が明らかになったのである。


「重治殿、すまぬな。わしの勝手で、そなたの思惑、はずれたのであろう‥‥」


「えっ。‥それは……」


さすがは、長政と言うべきか。突如として、自分の前に重治が現れた事で、すべての事を悟ったようであった。


「‥‥わしは、重治殿達について行く事は出来ぬ。‥‥が、かわりに、浅井家の中でも親信長派の武将宛てに、文をしたためよう。しばしのあいだ、待っていてもらえぬであろうか」


計画の頓挫した重治達にとって、この長政の申し出は不幸中の幸いであった。

長政の申し出は、重治たちの予定のほぼすべてをクリアする条件を満たしていた。断る理由など、どこにも有りはしなかったのである。

その申し出をした長政は、市をその場に残して歩きだした。
そのうしろ姿は、戦国武将としての自信と殺気が滲み出ていた。
先ほどまでの座敷牢にいた、影の薄い男と同一人物とはとても思えなかった。

堂々と城の中を歩く長政を止める者は、誰ひとりとしていない。

長政の、いやこの城の主の部屋に着くまで、一切の障害は発生することはなかった。たとえ黒ずくめの怪しい忍び三人が後ろをついていっていたとしてもである。



「さぁ、これでいいでしょう」


そう言うと長政は、まだ墨の乾ききらない、三通の文をにじませぬよう、細心の注意しながら巻き上げていった。


「さあ、この文を早く届けて下さい。もう、それほどの時は残されてはいないでしょう」


長政は、そう言うと三通の文を重治に手渡した。

長政の手渡したその三通の文は、浅井家重臣、赤尾、磯野、海北の三人に宛てたものであった


重治達は、三通の文を受け取ると、長政への挨拶もそこそこに、小谷の城をあとにした。

織田家の命運は、この三通の文に、かかっているのである。


「では、ここで別れよう。猶予の時は、もうないも同然」


「はっ。重治様、半兵衛様もご無事で」


重治は、運命を握る三通の文を三人の忍び達にそれぞれたくした。

今、織田軍の背後を包囲し、取り囲んだ浅井の軍の中に、信長の為の退路を作るため、親織田派の三人、赤尾、磯野、海北の三人の将に、長政からの文を届けるのである。


「伊蔵、才蔵、末松。それでは、たのんだぞ」


「はっ」


三人の忍びは、それぞれの目的の方向に素早く走りだした。

それは、容易な事ではない。戦渦の中、敵に無事に接触できるとは、現代に育った重治とて簡単に想像がついた。
重治と半兵衛は、うまく事が運ぶようにと祈りながら三人の背中を見送る以外の術はなかった。


「‥‥それでは、参りましょうか。半兵衛様」


三人の忍びを見送った、この二人にも、その三人に負けないくらいの困難な仕事が待ち構えている。

それは、包囲された信長のもとへ、これまでの事の成り行きを伝えに帰還するという、もっとも大事な作業が残されていたのである。


半兵衛と重治の二人は、ひたすらに歩いた。人目を避け、小谷から北へ北へと歩みを速めた。

幸いなことに、最小人数の行軍は、浅井軍の陣と陣の間を見つかることなく、湖北にまで到達する事ができた。
あとは、浅井軍の最前線、近江と越前の国境に当たる峠越えである。


「重治殿、何とか、ここまでは無事に来れましたね」


「はい。今頃は、信長様が、しんがりの役目を藤吉郎様に伝えている頃。早く戻らねば、退却戦が開始されてしまいます」


「そうですね。事の成り行きを早くお伝えして、被害を最小限にしなくては」


「……?、あっ、あれは」


前方より黒い人影がこちらに向かって、やって来るのが捉えることが出来た。
捉えた当初は、一つの黒いゴマ粒のような、小さな小さな影であった。


峠を目前にしているわりには、今、居るこの場所は、見晴らしの良い場所であった。
峠に向かう上り坂すべてを見通せるかのような開けた場所であった。


半兵衛と重治、二人にとっては、この難所をどう敵に見つからずに通り抜けるか思案を巡らしていたときであった。


一つのその小さな黒い影は、やがて人の形に姿を変え、その影が二つの者からなる影であった事がはっきりと確認できるまでになっていた。

こちらが、人である事をはっきりと認識できる前から、相手にはこちらの事に気づいていたのであろう。
まったく迷うことなく、ひたすらこちらに向かってくる。


重治と半兵衛の緊張は、俄然、高まっていった。
拳に力が入り、背中には、冷たい一筋の汗が流れた。


しかし、その人影が誰のものかが判ったことで、その冷たい汗も、二人の取り越し苦労であったと安堵することになった。

その謎の人の姿がはっきりとした時、二人の緊張は一気にとける事とになった。

重治たちをやきもきさせた影の正体は、長政の文を届けに行っていた、伊蔵と末松、二人の忍びであったのだ。


「報告いたします。この峠を越えたさきに陣を張りし、海北綱親様、長政様からの文をご覧になられ、『兵、これ動く事なし』との伝でございます」


使命を無事終えた伊蔵は、そう重治たちに告げた。
そして伊蔵の後を同様にして、末松が語り始めた。


「ここより西方、峠の手前一里半に陣を張りし、赤尾清綱様、同じく文をご覧になられ、兵、動かさずの言をいただいてございます」


こう、伊蔵になぞらえたような報告を告げたのだった。


「‥‥とりあえずは、一安心という事ですかね。あとは、才蔵殿の報告ですか‥‥」


「半兵衛様、先を急ぎましょう。才蔵殿ならば必ず、追いついてくれるでしょう」


「そうですね。‥‥伊蔵殿、この先、峠の様子は?」


「この先は、峠を越えてからは、織田家本陣まで特に浅井家の厳しい警備は、敷かれておりません」


重治と竹中半兵衛は、織田家の本陣までの道中、浅井方の布陣の詳細を伊蔵から報告を受けて確認したのち、峠道をのぼり始めた。


峠道を上りきり、眼下をすべて見渡せる場所に出ると、伊蔵からの報告の通りの布陣が遠くに敷かれている事が確認できた。

もし、この状況を知らずに、朝倉方に攻め込んでいる背後を突かれたとしたならば、例え、信長の指揮する織田軍といえども、織田家はこの戦いで滅んでしまっていたかも知れない。


今、浅井長政の説得により、浅井方の布陣の真ん中に穴が空いた状態になっており、この状況下であれば信長軍の撤退は最小限の被害で完了すると思われた。
唯一、朝倉軍の矢面に立たされた、しんがり部隊を除いてはであったが……。


峠からは、下りの山道を早足で進んでいたとき、一人戻っていなかった忍び、才蔵が追いついてきた。


「ご報告いたします。
浅井家重臣、磯野員昌殿、当主長政の命ならば、いた仕方なしとの事。なんとか内諾をいただきましてございます」


最後に戻った忍び才蔵の報告であった。


「これで、多少の犠牲は出るでしょうが、致命的な結果になる事だけは、避けられました」


「半兵衛様、ありがとうございました。半兵衛様の策がなければ、どうなっていた事か」


「それを言うなら重治あなたの情報のおかげです。この戦いに、当主である長政様が関わっておられない事を知り得ていたからこその結果ですよ」


忍びの三人が無事に帰還した事で、五人の歩みは、ますます早まっていった。
本陣に近づく頃、重治は、半兵衛に、これからの自分が起こそうと思う行動を告げた。


「……なるほど、しかし‥‥」


「…………」


重治は、小さく首を横に振った。


「……では、私はその様にお館様に、ご報告致しましょう。‥‥で、重治殿は、今からすぐに?」


「はい。とにかく時間が惜しいのです。あとの事、お願い致します」


「わかりました。もう、ここからは、僅かな距離、私一人でも危険は在りますまい。それよりも、決して無理をなさらないように……」


重治は、心配をする半分兵衛に笑みで答えた。


信長の本陣までは、後わずかな所にまで来て、半兵衛は一人、重治達とは別れ、信長の元へと向かっていった。


「打てる手は、全て打った。あとは、行動有るのみです。頼みます、才蔵殿、末松殿、そして伊蔵殿。さあ、これからが本当の撤退戦だ!!」


「はっ、おまかせくだされ」


そう話し、気合いを引き締めなおすと、重治は、伊蔵の案内で、しんがりの役を与えられた、木ノ下藤吉郎隊の陣へと向かったのであった。


木ノ下隊の陣の近くまでくると、陣中からもれる、大きな叫び声が聞こえてきた。


「兄じゃ、声が大きすぎまするぞ。それでは外まで丸聞こえですじゃ。兄じゃは、大将なんですから、もっと冷静になって頂かなければ‥‥」


「小一郎。これが冷静でおられるか。我らは、お館様に切り捨てられたのじゃぞ。もはや、助かる見込みは微塵もないわい」


「藤吉郎、声がでかい、声が。そんなんじゃ、雑兵どもが逃げ出すぞ」


興奮してどんどんと声の大きくなる藤吉郎を弟の小一郎が懸命に鎮めようとしていた。


「そうは言うがの、蜂須賀の。ここは、さっさと引き払い、山にでも逃げ込んで美濃に帰るのが得策というもの」


「何を言うんじゃ、兄じゃ。やっとのことで武士になれたというのに……」


「武士と言っても織田家があればこそ。前後を大軍に挟まれ、逃げ道など一つもない。今度こそ、織田家も、おしまいじゃあ」


次から次へと、陣幕の中からの声が漏れ聞こえ、重治は、入るに入れないで躊躇していた。


重治が、木ノ下藤吉郎という人物の本質を始めて垣間見た瞬間であった。

諦めがついたのであろうか、陣幕の中が突然に静かになった。これをきっかけに重治は、陣幕の中へと入って行くことにした。


「おぉ、これは、重治殿。兄じゃ、重治殿じゃ」


「なんと。よくぞおこしで。……重治殿がおこしという事は、お館様が、何か……」


「はい。まずは、お館様のことですが、竹中半兵衛様の策がなり、退却が無事、可能となりました」


「それは、どういう?」


織田家もこれで滅びてしまうと、思い込んでしまっている藤吉郎には、重治の告げた言葉は、雲をつかむようで、まるで理解する事が出来ない。


「浅井家の赤尾、磯野、海北の三人の将より内諾をとり、退路を確保いたしました」


「……で、では、お館様は、助かるのか!?」


「はい、間違いなく。……で、次は、藤吉郎様です」

「わし?、…わ、わしも、助かるのか?」


「はい。そのために、私が、ここに来ました」


「…………」


藤吉郎は、発する言葉を失った。頭のなかが真っ白になり、重治に応える言葉がみえなくなった。

重治は、そんな藤吉郎に朝倉軍に対する備えと策略を手短か、かつ正確に話して聞かせた。


「うーん、さすがは、重治様‥‥。兄じゃ、織田家の軍神様がついておられるのじゃ、もう、心配はいらぬわ」


「そうじゃ、そうじゃ」


小一郎と正勝は、重治の策略に、ただただ、感心して唸った。


「……だ、誰が、心配など、して、おるか。うふぉん、わしはな、どおすれば、みなが無事に撤退できるかをだなぁ……」


「さぁ、時間はもうありません。早くみんなを集めて、命令を」


このようなやり取りを経て、織田家しんがり部隊、木ノ下隊は、重治の言うとおり、朝倉軍の追撃に対する備えを開始した。


準備の整った次に、藤吉郎は、重治の指示により部隊の士気を高めるため、部隊全ての者にむかい演説をする事になる。



木ノ下藤吉郎しんがり部隊、三千人を前に藤吉郎は、すべての者に聞こえるような大きな声でさけんだ。


「よいかぁ、皆のもの。ここが正念場じゃ。家族のため、友のため、出世のため、好いた女のため、何のためでもいい、なにか一つでも生きる目的を心に刻め!」


「おぉ」


「いいかぁ。生き残ることだけを考えよ。一瞬たりとも死んでいいなどとは思うんじゃない」


「うおぉー」


「今から我らが行く道は、死地への道じゃ。だがなぁ、その死を超える事こそが生きると言う事じゃぁ。いいかぁ、われわれには、戦いの神、竹中様がお力添えをしてくださる」


「うおぉー」


「朝倉の田舎侍など、恐るるに足らず。目にものみせようぞ」


「うぅおぉぅー」


藤吉郎のいや、秀吉と言う名前に変わるに相応しい統率力の片鱗を見せた瞬間である。


「これより我ら修羅になりて、金ヶ崎撤退戦を始める」
しおりを挟む

処理中です...