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五十話 悲運の将 徳川信康(その三)
しおりを挟む伊蔵は、集められた全ての情報を冷静かつ沈着に分析して、家康の行動を予測し重治に伝えた。
「‥‥伊蔵。二俣城へ急ぐぞ!!」
重治の吐き出した厳しいその言葉とは裏腹に、何故かその口元には笑みが見てとれた。
「?はい……」
重治の表情に伊蔵は、一瞬戸惑いながらも深く頷いた。
今ある最大限の情報を駆使して予測した目的地をはじき出し示唆したのは、伊蔵である。
現時点で信康が二俣城に幽閉されていると言う的確な情報は、まだ伊蔵にまであがってきてはいない。
しかし、重治にはそんな情報などなくとも信康の幽閉先は、史実の一つの事実として当然のように頭の中にあった。
そして、その信康の幽閉先が、今、伊蔵が示唆した目的地と合致したのである。
『もう、大丈夫』
重治は、無言で伊蔵に笑みを向けた。
これまで重治は、傷の治らない事が焦りに繋がり、繰り返される伊蔵のその伊蔵らしからぬ行動を危惧していた。
しかし、皮肉にもライバルである半蔵との直接の遭遇が、本来有るべき姿の伊蔵を蘇らせた事を重治は確信した。
例え傷が完全に癒えていなくとも、冷静沈着な本来の伊蔵さえ取り戻せば、重治にとって鬼に金棒状態の片腕復活と言っても過言とはならないのである。
末松を忠次へと向かわせた重治は、伊蔵とともに二俣への道を急いでいた。
この日は、夏の始めにしては、かなりの暑さで、川沿いの道ではあるものの足を進める二人には、かなりの負担になっていた。
「若。せめて、お食事だけでもとっていただかねば、お体に……」
「…………」
若と呼ばれた男は、それまでの瞑想を解き、ゆっくりと瞼を開いた。
「ふっ、お体も何も‥‥、明日には腹を斬らねばならぬ身。食事を断つが誠‥‥」
「‥‥しかし、若……」
その年老いた男は、涙を頬に伝わらせ言葉を何度も詰まらせた。
「‥‥何が起こるか解らぬが戦国のたとえ、‥‥最後の最後まであきらめては……」
「わかった、わかった‥‥」
老人の執拗な言葉に根負けしたのか、その若者、徳川信康は、目の前に置かれたその膳に箸を付け始めた。
それは、重治たちが浜松の街にたどり着く一日まえの二俣城での事であった。
浜松についた重治が家康への会見に向かったあと、隠れ家で待つ伊蔵に配下から重大な情報がもたらされていた。
今回の旅の最大の目的である家康の嫡男、岡崎城城主、信康の姿が岡崎城から消えたという知らせであった。
伊蔵の焦りは、この時、頂点に達したといってよかった。
思い通りに動かない体。
命をかけて守らなければならない主に心配をかけている現実。
そして、極めつけの最新に入ってきた最悪の状況の情報。
これまで伊蔵は、いつまでも完治しない傷に、重治の荷物になっているのではないのかと、ずっと強く感じていた。
『思い通りに、否、極普通に、当たり前にさえ動けていたならば』
どんなに思い込んでも、なにも変わることはない。
そうして伊蔵は、自らをどんどん追い込んでいった。
今の状況のどれも伊蔵自身が悪い訳ではない。しかし、伊蔵は全てが自らに、その責を感じてしまっていたのであった。
「‥‥重治さま……」
「な、なに?」
すぐ横を歩く伊蔵から不意に声をかけられ、そのいつにも増して真剣な眼差しの伊蔵に重治は、どぎまぎと戸惑いを見せた。
それは、この日の天候のせいもあってか、目的地、二俣へと急ぐ足が、思うように速まらない焦りを感じ始めた時の事であった。
「……」
「‥‥あっ、あそこで、少し、休憩でもしようか‥‥」
どぎまぎと重治はそう告げると、指差した先にあるすぐ近くにそびえ立つ大木の根元に、まるで話しをはぐらかすように慌てて近づき、ゆっくりと腰を下ろした。
「‥‥し、しかし、き、今日は、暑いねぇ‥‥」
重治は、先ほどの真剣な眼差しの伊蔵の様子が気にかかっていた。
気にかかって、気にかかって、考え抜いた挙げ句に飛び出した言葉が、なんとこんな言葉であった。
「……ぷっ!ぷっははふふふ……」
伊蔵は、嬉しかった。
「…………??」
重治の自分に向けられた優しい眼差しが嬉しかった。
『何年経っても、どんな事が起ころうと、この人は、この人なんだろうな』
そう思うと嬉しかった。それだけで嬉しかった。
自分の事よりも、まず相手を思いやる優しい主。
嬉しくて嬉しくて、最後には我慢できずに笑いだすくらいに嬉しかったのである。
「……??」
重治は、突然に吹き出したかと思うと笑い出した伊蔵に何が何だか解らずに首を傾げるばかりであった。
「重治様。有難う御座います。‥‥これからもよろし‥‥!?」
伊蔵は、出掛かった言葉を思わず飲み込んだ。
「……??どうした?」
重治は、伊蔵の表情の変化を見逃さなかった。
しかし、その時、重治には自分に起こり始めていた変化に気づいてはいない。
「重治様、‥‥お任せくだされ‥‥。ご心配なく、万事滞りなく、ご指示通りに‥‥」
そう話し始めた伊蔵の顔からは、一切の笑いは消え、先ほど同様に強い意志を感じさせる、真剣な眼差しを重治に向けていた。
その時になってようやく重治は、自分に残された時間が無いことを知った。
「‥‥うん。頼む……。信長様のこと……必ず、戻るから……、必ず、帰ってくるか……」
「……し、重治さま……」
伊蔵は、高まる感情を抑え込み、何とか冷静さを保ちながら対応を続けようとした。
しかし、そんな自分の感情を抑え込もうとするのとは正反対の、重治と離れたくないとよう強い感情が、何度もこれまでの不甲斐ない自分をなんとか詫びを伝えたいと思う気持ちが、目も眩やむほどの眩しい光に包まれた重治に手を伸ばさせていた。
それが、どういう結果をもたらすものかなど考えるまえに、理性を掻き消してしまうほどのどうしようもない欲望が、冷静で計算高いはずの伊蔵を突き動かし、暴挙としか言えない行動を起こさせていた。
「重治さま……」
光の中にある重治の腕を掴んだ伊蔵は、力いっぱいその腕を引き寄せ、そして近づいた重治の体を包み込むように抱きしめた。
そうしている間にも重治を包み込んだ輝く光の球は、益々輝きを増して、やがて伊蔵までも包み込む大きさにまで達していった。
「うっ、うぅぅうぅ……」
「爺ぃ、いいかげんにせぬか。せっかく飯を食おうとするに、爺ぃに泣かれていては、不味ぅなるわい‥‥」
信康は、手に持った食べかけの椀を膳におくと、優しく泣き続ける老人に話しかけた。
「爺ぃ、もう泣くでない。最後の最後まで、わしは諦めないと決めた。例え腹を切る寸前の時まで、決して生きることを投げをすまい……」
「わ、わか……ぅうぅ……うぅうぅぅ……」
老人の願い、生き抜くことを決意した信康ではあったが、現実といえば、ただ一人の家臣すらそばに居らず幽閉された状況にあり、今日明日にも詰め腹を斬らされるか、毒殺されるか、どちらにしても明日をも知れぬ命、風前の灯火とかわりない状況にあった。
「ふぅ……。しかし、最後まで諦めないとは言ったものの‥‥」
食事を終え一人きりになった信康は、大きなため息を吐いたあと苦笑いを浮かべ思案に耽っていった。
「‥‥親父殿が本気である以上、ここからの脱出はまず不可能‥‥。はてさていかがしたもの!!‥‥誰じゃ!!」
「……」
信康は、不意に誰かの視線、気配を感じとった。
侵入者に誰だと尋ねて、はい私はと答える者など有りはしない。
無言の確実に存在するで有ろう侵入者に対して信康は、そばにある脇差しを手に取ると相手の出方をうかがった。
「……何者じゃ……」
「……」
信康は、再び問いかけた。
無言ではあるものの、その侵入者からは、まるで自分を攻撃してくる気配が感じられない。いや、それどころか、殺気や闘気めいたものの微塵も感じ取ることができないのである。
信康は、身構えた姿勢を崩すと、ゆっくりと腰を下ろし、手に持った脇差しを床に置いた。
「‥‥どうじゃな、一つ、酒でも……」
「……」
攻撃を仕掛ける様子が見られない以上、それは暗殺者であるはずはない?
物事というものは、信康が考えるほど単純明快で割り切れるものではない。攻撃の意志を見せないからといって、それがイコール敵ではないに結び付く訳はない。
しかし、この時の信康は、生命の危機に瀕しているにも関わらず、なにものとも解らない相手に対して受け入れる姿勢を見せたのである。
この出来事一つ取り上げてみても、徳川信康という人物の器の大きさが本物である事がうかがえる。
後に家康が、後継である秀忠の凡庸に嘆き、信康を失った事を悔いたと後世に残すことになるが、その史実に関していえば、信康の器の大きさが本物である以上、間違いなき事実と言えよう。
そんな信康の友人を誘うかの如き言葉に、二俣城への侵入者は、僅かにだが反応を見せる。
まるで信康に自分の存在を示すかのように気配をはっきりと見せたかと思うと、何もなかったはずの薄暗い部屋の片隅にその姿を現したのである。
才蔵が、その噂を耳にしたのは、伊賀の里攻略に奔走するなかでの事であった。
流言飛語と言われるように、噂などというものは関わり合いのない人間にとっては無責任なもので、面白可笑しく話しは大きく尾鰭を付けて勢いよく、文字通り飛ぶかの如く広まってゆく。
それは、画策し噂を流した者の思惑や噂を流された者の思惑など、まるで預かり知らぬところで広まって、一度流れ出た嘘か誠か判らぬ噂が、予想の範疇を越えた結果をもたらしていく。
徳川信康乱心、徳川家・武田家、両家の接近。
風説を流した人間の思惑は、確かに画策予測した方向へ、徳川家に対する織田信長の疑心へと結び付く。
しかし、広く一般に知られる織田信長の性格は、虚像の部分が大半であり、ごく身近にある織田家重臣でさえ、その奥底に隠した本来持つ顔を知る者は少ない。
そして、その奥底にある本来持つ信長の優しさ、強い情という部分が、もはや、国内統一には足枷にしかなっていない徳川家を切り捨てるであろうという予測をした風説流布を画策した者の期待を裏切ったのである。
才蔵が、その噂を耳にしたのは、伊賀の国攻略での最後の仕上げ、詰めの打ち合わせのため信長の次男、信雄に会いに向かう途中、伊勢の国に入ってすぐの事であった。
「徳川の後継ぎの若君が、ご乱心なさったそうじゃ」
「何のそれは、表向き‥‥実のところは、武田と手を組み、自分の父親を追い落とすための芝居‥‥」
「わしが、聞いたのは、何と若君のお母上も協力なさってるそうじゃ‥‥」
世に広まる噂話の真偽、信憑性など、まるでとるに足らないレベルであり、信用するには値しないものである事を理解していない才蔵ではない。
もし、その耳にした話しが徳川家にまつわるものでなければ、才蔵も聞き流したに違いなかった。
しかし、その噂話しの真偽が例えはっきりしていなくとも、嘘か誠か判別がどちらに傾こうとも、才蔵には、この嘘話しに、この流された風説自体に何らかの利用価値、意味がある事を感じていた。
才蔵が、ただ優秀なだけの忍びであったならば、自らが主に任じられた仕事以外、どんなに意味や興味があろうとも関わりを持ったりはしない。
この時代の忍びにとって、主の命令は絶対であり、個人の意志や感情は必要ないものとされていたのである。
しかし、才蔵は、優れた忍びの技を持ってはいるものの純粋なる忍びではない。
まして、主である重治自身、そんな忍びのあり方を否定している。そして今、自分の受けた命そのものが、そんな忍びのあり方を壊すことに繋がると才蔵は知っていた。
才蔵は、噂の真偽など確かめるまでもなく、事の発端となっている徳川領内へと歩む足の向きを変えたのである。
才蔵は、噂される本人、信康の治める岡崎の街に入ってすぐ、その以上とも思える街の空気、雰囲気を感じとった。
それは、今にも戦が始まらんとする一種異様な独特な緊迫した空気。これまで才蔵が何度となく経験したものである。
背中に大きな荷物を背負い、どこからどうみても行商人の完璧なる変装を施した才蔵は、ごく当たり前に商売をするように世間話を交えながら、誰にも怪しまれることなく情報を集めていったのである。
しかし才蔵が情報を集めて回っても城主信康の乱行、武田家との内応に結び付く事実は上がってこない。
「‥‥さてさて、如何したものか?……」
そう独り言を呟いて才蔵は、すぐそばにある迫り来るようにそびえ立つ岡崎城の防壁を見上げてニヤリと微笑んだ。
その夜、闇夜に乗じ全身黒ずくめの衣を身にまといた才蔵が、明るいうちに下見をすませた潜入ルートを使い、まんまと城内へと忍び込んでいた。
それは、才蔵が飛び抜けた忍びの技を持っていることを差し引いても、あまりに呆気なく成さしめていた。
侵入を成功させた才蔵自身、そのあまりの呆気なさに、そのことから城内の異常を感じ取らざるを得なかった。
まるで我が家屋敷を闊歩するが如く、警戒などというものを必要としない。
徳川家嫡男の住まう城にして、この無警戒さは通常時では有り得ないことであった。
才蔵は、この異常とも呼べる状況の城内を隈無く探索した。そしてそのある事実を知る。そう、城の主である信康がいないのである。
それは、所要において城を空けているのではないことなど、家臣の様子、城の異常な状況からしても一目瞭然であった
数時間を要し才蔵は、少しでも詳しい状況を掴むため城内のあらゆる場所を調べ回った。
しかし、決めてとなるべき情報は皆無といって良いほど現れてこない。
「ちっ、面倒なことになった……」
舌打ちした才蔵の瞳は、言葉とは裏腹に笑っているようにさえ見えた。
消えた信康に関する情報が、きれいに消されていればいるほどその噂の信憑性は高まる。
そしてその噂が、真実であった時、その事実は間違いなく家康のアキレス腱となる事は間違いない。
これまでに掴んだ家康の裏の顔、そして、主や兄、伊蔵に対するその諸行は、才蔵から見れば万死に値する。
もし主の重治や兄、伊蔵からのブレーキがかけられていなければ、才蔵は、最も得意とする暗殺という安直な手段を選んでいたに相違なかった。
今、才蔵の掴みつつある情報は、家康や半蔵に対して暗殺という行為ではないものの、それにも匹敵する最大に効果のある意趣返しに繋がる可能性を秘めていた。
今回の噂の主人公である城主、信康の行方に繋がる情報を全く得ることなく才蔵は、入る時と同様に苦もなく城を脱出した。
城外に降り立った才蔵は、人の目からは死角になる石垣に身を寄せると、さっと黒ずくめの着衣を脱ぎ空中へと放り投げた。
そうして、その一連の動作の中、頭を覆った黒頭巾をとり、腰に巻かれた帯を緩め、体をぐるりと回転させながら空中に舞っている着物を裏地であったはずの縦縞の模様を表に袖を通して受け止めた。
その一連の動作は、目にも止まらない早技である。
帯をゆっくりと結び直し、頭巾を丸めて懐に入れた才蔵は、何事もなかったように街へと向かって歩き出した。
岡崎での情報収集に見切りをつけた才蔵は、夜の街へと消えていったのである。
それは、頭を悩ませ続けた森蘭丸が、重治を訪ねた日の事であった。
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