悪女は、幸せを望んだだけだった——冷酷CEOの檻で、逃げ場のない溺愛に堕ちる

由香

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■第4話:囲われる温度


 その夜、玲花は眠れなかった。

 ベッドに横になっても、目を閉じるたびに蘇る。

 壁に押しつけられた感触。
 逃げ場のない距離。
 そして——あのキス。

 ゆっくりと、唇に指を当てる。

 何度も触れられた場所。
 それなのに、まるで初めてのように意識してしまう。

「……慣れるって、どういうことなの」

 彼は言った。

 “全部、慣れさせてやる”と。

 それは、優しさなのか。
 それとも。

 ——檻の鍵を内側から壊されるようなものなのか。

 考えても、答えは出ない。

 ただ、胸の奥がざわついて、落ち着かない。

 結局ほとんど眠れないまま、朝を迎えた。

 リビングに出ると、すでに彼はいた。

 相変わらず、隙のない姿。
 まるで昨日のことなどなかったかのように、静かにコーヒーを飲んでいる。

「……おはようございます」

「ああ」

 短い返事。

 それだけで、なぜか少しだけ安心してしまう自分がいる。

 ——おかしい。

 玲花は、そっと視線を逸らした。

「今日は予定がある」

 彼が、カップを置きながら言う。

「外ですか」

「いや」

 一瞬の間。

「ここだ」

 玲花は首を傾げた。

「……ここで?」

「人が来る」

 それだけで、理解する。

 ——また、“妻”として見せる場。

「準備をしておけ」

「……わかりました」

 短く頷き、部屋へ戻る。

 クローゼットには、すでに何着もの服が用意されていた。

 どれも上品で、彼の隣に立つのに相応しいもの。

 選ばれている。
 すべてが、彼の基準で。

 その事実に、少しだけ息苦しさを感じる。

 けれど同時に。

 ——守られている。

 そんな感覚も、確かにあった。

「……本当に、ずるい人」

 小さく呟く。

 逃げ場を奪うくせに、安心まで与える。

 そんな矛盾が、じわじわと心に染み込んでくる。

 数時間後。

 訪れたのは、彼の側近たちだった。

 仕事関係の人間たち。
 鋭い視線。隙のない会話。

 その中で、玲花は“完璧な妻”を演じた。

 微笑む。
 隣に立つ。
 必要なときだけ口を開く。

 そして——

「仲がよろしいのですね」

 誰かが言った、その瞬間。

 彼の手が、自然に玲花の腰へ回る。

 引き寄せられる。

 驚く間もないほど自然に。

「そう見えるか」

 低い声。

 穏やかにすら聞こえる。

「ええ、とても」

 視線が集まる。

 試されている。

 玲花は、ゆっくりと息を吸った。

 そして——

 彼の胸に、そっと手を添える。

 距離を受け入れるように。

「……ええ」

 小さく微笑む。

「優しい方ですから」

 嘘ではない。

 少なくとも——今の自分に対しては。

 一瞬、彼の指先がわずかに強くなった。

 腰を抱く力が、ほんの少しだけ増す。

 それが何を意味するのかは、わからない。

 けれど。

 視線を逸らさないまま、玲花は微笑み続けた。

 来客が帰ったあと。

 静けさが戻る。

 張り詰めていた空気が、一気に緩む。

「……お疲れさまでした」

 息を吐きながら言うと、

「ああ」

 彼は短く答えた。

「悪くなかった」

 その一言に、少しだけ肩の力が抜ける。

「それは……よかったです」

 そう言いながら、ふと気づく。

 ——評価されることに、安心している。

 それが、怖い。

 気づかないふりをして、視線を落とす。

 そのとき。

「こっちを見ろ」

 低い声。

 顎に指がかかる。

 また、持ち上げられる。

 もう、何度目かわからない仕草。

 なのに、慣れきれない。

「……何ですか」

「確認だ」

 距離が近い。

 息が、触れる。

「さっきのは、演技か?」

 問われる。

 真っ直ぐな視線。

 逃げ場がない。

「……もちろんです」

 即答する。

 それが正解だと思ったから。

 けれど。

 彼は、わずかに目を細めた。

「そうか」

 短い返事。

 そのまま——

 唇が重なる。

 唐突に。

 逃げる間もなく。

「……っ」

 息が止まる。

 今までと違う。

 ゆっくりで、深い。

 確かめるようなキス。

 拒む理由を探す前に、感覚が塗りつぶされる。

 やがて、離れる。

「今のも演技か?」

 囁かれる。

 玲花は、言葉を失った。

 違う。

 そう言いたいのに、声が出ない。

「……答えられないなら」

 彼の指が、頬に触れる。

 優しく。

 けれど逃がさないように。

「少なくとも、嘘ではないな」

 断定。

 逃げ道を、静かに塞ぐ言葉。

「……違います」

 ようやく、絞り出す。

「私は——」

 何を言おうとしたのか、自分でもわからない。

 否定したかった。

 でも。

 何を否定すればいいのか、わからない。

 彼は、少しだけ黙った。

 そのまま玲花を見つめる。

 深く、静かに。

 そして。

「……まあいい」

 不意に、手が離れる。

 距離も、少しだけ開く。

 それだけで、息がしやすくなる。

 なのに。

 どこか、物足りなさを感じてしまう。

 ——ありえない。

 玲花は、自分の胸を押さえた。

 こんなはずじゃない。

 これは、ただの契約だ。

 演技で、条件で、必要だからやっているだけ。

 そう思っているのに。

「顔に出てる」

 彼の声が落ちる。

「何を考えているか、わかりやすいな」

「……そんなことは」

「ある」

 即座に遮られる。

 そして。

 一歩、近づく。

 また、距離が縮まる。

「だから——」

 指先が、そっと玲花の手に触れる。

 今度は、掴むのではなく。

 絡めるように。

「逃げられない」

 静かな声。

 強制でも、命令でもない。

 けれど。

 それ以上に、抗えない響き。

 玲花は、目を閉じた。

 ——わかっている。

 逃げようと思えば、まだ逃げられる。

 でも。

 もう、足が動かない。

 理由は、わからない。

 ただ一つ、確かなこと。

 彼の隣は——

 危険で、息苦しくて、怖いのに。

 どうしてか。

 少しだけ、温かい。

「……どうして」

 無意識に、呟く。

 彼は、答えない。

 ただ、手を離さないまま。

 玲花を見ている。

 その視線から、逃げられない。

 逃げたくないと、思ってしまう。

 その矛盾が、胸を締めつける。

 やがて。

「慣れてきたな」

 ぽつりと、彼が言った。

 玲花は、否定できなかった。




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