1 / 11
第1話|幼き皇孫、後宮に降り立つ
しおりを挟む瑞栄王朝の後宮に、春の気配が満ち始めた頃。
その日、誰もが息を潜めて見守っていた。
皇帝・景帝の唯一の孫――凌曜が、三歳の誕生日を迎え、正式に後宮へ迎え入れられる日だったからだ。
金と朱で彩られた回廊の奥、静かに進む小さな影がある。
柔らかな絹の衣に包まれた幼子は、乳母に手を引かれながらも、転ぶことなく歩いていた。
――泣かぬ子だ。
それが、後宮に仕える者たちの共通した印象だった。
三歳の子どもなら、慣れぬ場所に怯え、泣き、しがみつくものだ。
だが凌曜は、ただ静かに周囲を見渡している。
その黒曜石のような瞳が、あまりにも落ち着きすぎていることに、気付く者は少なかった。
「まあ……なんて可愛らしい」
最初に声を上げたのは、後宮の上位妃のひとりだった。
微笑みは柔らかく、声は甘い。だがその視線は、価値を測る商人のそれに近い。
「殿下は、まだ何も分かりませんものね」
別の妃がくすりと笑う。
その言葉に、周囲の空気がわずかに緩んだ。
――三歳の皇孫。
可愛がられる存在ではあっても、脅威ではない。
そう、誰もが思っていた。
凌曜は、そのやり取りを、何の感情も浮かべずに聞いていた。
理解していないわけではない。
だが、理解していると悟られる必要もなかった。
彼は、後宮という場所を「見て」いた。
香の濃さ。
人の立ち位置。
誰が誰に頭を下げ、誰が視線を逸らすのか。
(……ここは、声より、沈黙のほうが多い)
幼いながらに、凌曜はそう判断していた。
広間の奥、玉座に座す人物が立ち上がる。
「凌曜」
低く、よく通る声。
景帝だった。
その瞬間、後宮の空気が一変する。
妃も宦官も、すべてが頭を垂れた。
凌曜は、乳母の手を離し、よちよちと皇帝のもとへ歩く。
そして――
何の躊躇もなく、両腕を伸ばした。
「……じぃじ」
その一言に、景帝の表情が崩れた。
「おお……凌曜!」
皇帝は笑い、迷いなく孫を抱き上げる。
先ほどまでの威厳は消え、そこにいるのはただの祖父だった。
「よく来たな。怖くはなかったか?」
凌曜は首を振る。
「みんな、きれい」
それは、事実でもあり、そうでなくもある言葉だった。
景帝は満足そうにうなずき、孫の頭を撫でる。
「そうか。ならよい」
その様子を見て、妃嬪たちは改めて理解した。
――この幼子は、皇帝の心臓だ。
どれほど無力に見えようと、触れてはならぬ存在。
だが同時に、別の感情も芽生える。
(溺愛されすぎている……)
(この子が成長すれば、厄介な存在になるかもしれない)
誰かが、凌曜の背後で眼差しを細めた。
その瞬間、凌曜はふと顔を上げ、広間の隅を見た。
視線が、合う。
宦官のひとりが、慌てて目を伏せた。
「……?」
凌曜は小さく首を傾げる。
「どうした、凌曜」
「ねえ、じぃじ」
甘えるような声で、凌曜は言った。
「あそこ、静かだね」
景帝は、何気ないように視線を向けた。
――そこには、確かに妙な沈黙があった。
景帝の目が、わずかに細まった。
「……そうだな」
その一言で、宦官の背に冷たい汗が流れた。
凌曜は、何も知らない子どもの顔に戻り、祖父の胸に頬を預けた。
後宮は、今日も美しく、穏やかだった。
――だが、確かに、歯車は動き始めていた。
この幼き皇孫が、
国を変える存在になるとも知らぬままに。
1
あなたにおすすめの小説
雪嶺後宮と、狼王の花嫁
由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。
巫女として献上された少女セツナは、
封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。
人と妖、政と信仰の狭間で、
彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。
雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。
炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~
悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。
強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。
お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。
表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
第6回キャラ文芸大賞応募作品です。
【完結】偽りの華は後宮に咲く〜義賊の娘は冷徹義兄と食えない暗愚皇帝に振り回される〜
降魔 鬼灯
キャラ文芸
義賊である養父を助けるため大貴族の屋敷に忍び込んだ燕燕は若き当主王蒼月に捕まる。
危うく殺されかけた燕燕だが、その顔が逃げた妹、王珠蘭に似ていることに気付いた蒼月により取引を持ちかけられる。
逃げた妹の代わりに顔だけは綺麗な暗君である皇帝の妃を決める選秀女試験に出て不合格になれば父の解放を約束するという密約を交わした。
記憶力抜群、運動神経抜群、音楽的才能壊滅の主人公が父のために無難な成績での選秀女試験不合格を勝ち取れるのか。
実は食えない性格の皇帝と冷徹だがマメな義兄蒼月に振り回され溺愛される燕燕は無事2人から解放されるのか。
後宮コメディストーリー
完結済
人間嫌いの狐王に、契約妻として嫁いだら溺愛が止まりません
由香
ファンタジー
人間嫌いで知られる狐族の王・玄耀に、“契約上の妻”として嫁いだ少女・紗夜。
「感情は不要。契約が終われば離縁だ」
そう告げられたはずなのに、共に暮らすうち、冷酷な王は彼女だけに甘さを隠さなくなっていく。
やがて結ばれる“番”の契約、そして王妃宣言――。
契約結婚から始まる、人外王の溺愛が止まらない和風あやかし恋愛譚。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―
喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。
そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。
二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。
最初は手紙も返ってきていたのに、
いつからか音信不通に。
あんなにうっとうしいほど構ってきた男が――
なぜ突然、私を無視するの?
不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、
突然ルイスが帰還した。
ボロボロの身体。
そして隣には――見知らぬ女。
勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、
私の中で何かが壊れた。
混乱、絶望、そして……再起。
すがりつく女は、みっともないだけ。
私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。
「私を簡単に捨てられるとでも?
――君が望んでも、離さない」
呪いを自ら解き放ち、
彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。
すれ違い、誤解、呪い、執着、
そして狂おしいほどの愛――
二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。
過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる