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第4話|皇帝の膝の上で
しおりを挟む張廉による毒殺未遂事件から、五日が過ぎた。
後宮は再び平穏を取り戻した――
少なくとも、表向きには。
庭は掃き清められ、水瓶はすべて新しいものに代えられた。
宦官の配置も変わり、警護は二重、三重になっている。
だが、後宮に仕える者たちは皆、気づいていた。
静かすぎるのだ。
囁き声が減り、笑い声が減り、
代わりに増えたのは、意味のない報告と過剰な礼。
そしてその中心にいるのは――
相変わらず、感情を表に出さぬ三歳の皇孫だった。
凌曜は、皇帝の書斎にいた。
重厚な扉の向こう。
朝廷の要事が話し合われる、王朝の心臓部。
本来、幼子が足を踏み入れる場所ではない。
だが今、凌曜は当然のように、景帝の膝の上に座っていた。
「……であるから、内務府の再編は急務かと」
重臣の一人が、慎重に言葉を選ぶ。
凌曜は、その声を子守歌のように聞き流しながら、
机の上に並ぶ文鎮をじっと見つめていた。
ひとつ、ふたつ。
材質も形も異なる。
凌曜は、そっと手を伸ばす。
「凌曜」
景帝が小声で呼ぶ。
「それは――」
止めようとしたが、遅かった。
凌曜は文鎮を一つ、持ち上げた。
「……おもい」
その一言に、重臣たちの背筋が凍る。
まただ。
誰もが、そう思った。
だが今回は、何も起こらない。
ただの文鎮だ。
凌曜は、しばらくそれを眺めてから、元の場所に戻した。
景帝は、孫の頭を軽く撫でる。
「飽きたか?」
「ううん」
凌曜は、今度は部屋の奥に目を向けた。
そこには、重臣たちが並んでいる。
その中の一人――
張廉の背後にいた派閥の長、魏尚書。
凌曜の目が、ほんの一瞬、そこに留まった。
魏尚書は、気づいた。
そして、僅かに顔色を変えた。
(なぜだ……なぜ、あの子がこちらを見る)
根拠はない。
だが、確信めいた恐怖が、胸に広がる。
会議が終わり、重臣たちが下がる。
部屋に残ったのは、景帝と凌曜だけだった。
「疲れたか?」
景帝はそう言いながら、孫を抱き直す。
凌曜は、祖父の胸に寄り添った。
「……じぃじ」
「なんだ」
「ここ、こわい」
景帝の手が、止まる。
「何が怖い?」
凌曜は、少し考えた。
「みんな、えがお。でも……」
言葉を探す。
「ここ、つめたい」
それは、三歳児が口にするには、あまりに的確な表現だった。
景帝は、深く息を吐いた。
「そうか」
そして、静かに言う。
「だがな、凌曜。ここが冷たいからこそ、国は保たれている」
凌曜は、理解したとは言えない。
だが、祖父の声の重さは感じ取った。
「……でも」
小さな声。
「こわいの、いや」
その一言で、景帝の中の何かが決まった。
――この子に、恐怖を背負わせてはならぬ。
同時に、思う。
――この子が恐れるものを、放置してはならぬ。
「凌曜」
景帝は、孫の額に額を寄せる。
「安心しろ。お前が怖がるものは、すべて、じぃじが片付ける」
その声は、優しく、そして冷酷だった。
その夜。
景帝は密かに命を下した。
「魏尚書を調べよ。張廉との関わり、金の流れ、すべてだ」
翌日から、動きは早かった。
帳簿が消え、証人が現れ、
魏派の官僚が次々と更迭されていく。
処刑はない。
だが、官位剥奪、財産没収、地方左遷。
――生きてはいるが、終わりだ。
後宮では、誰もが悟った。
毒未遂は、終わっていなかったのだと。
今、清算が始まったのだと。
そして、その発端が――
皇帝の膝の上で、静かに「怖い」と言った幼子であることを。
凌曜は、そのことを知らない。
夜、寝所で、乳母に髪を乾かしてもらいながら、
ぽつりと言った。
「きょう、じぃじ、あったかかった」
乳母は、涙ぐみながら微笑む。
「それは……よろしゅうございました」
凌曜は、満足そうに目を閉じた。
後宮は、今日も静かだ。
だが、その静けさは、
嵐の前のものだった。
誰もが、理解している。
この幼き皇孫が、
もはや「守られるだけの存在」ではないことを。
――皇帝の膝の上で、国の運命は、確かに動いていた。
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