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第5話|消えた妃
しおりを挟む後宮に、ひとつの噂が流れ始めたのは、ある朝のことだった。
「慧妃が、姿を消した」
正確には、消えたのではない。
公式には「静養のため、離宮へ移った」とされている。
だが、後宮で生きる者にとって、それが何を意味するかは明白だった。
――戻らぬ、ということだ。
慧妃は、景帝即位以前から後宮に仕えていた古参の妃である。
派手さはないが、人脈が広く、宦官や女官を巧みに使うことで知られていた。
そして何より――
張廉、魏尚書と、密かに繋がっていた女でもある。
その慧妃が、何の前触れもなく、消えた。
後宮は、ざわめきと沈黙を同時に孕んでいた。
皇孫・凌曜は、その日も庭で遊んでいた。
白い小石を一つ拾い、並べ、また拾う。
同じことを繰り返しているようで、その配置は少しずつ変わっていく。
乳母は、その様子を見守りながら、胸の内でざわついていた。
(慧妃様が……)
考えないようにしても、噂は耳に入る。
その時、女官の一人が、そっと近づいてきた。
「殿下……」
何か言いかけて、言葉を飲み込む。
凌曜は、石を置く手を止め、顔を上げた。
「……なに?」
「いえ……その……」
女官は、視線を泳がせた。
凌曜は、少し考えてから、首を傾げた。
「いないの?」
その問いに、女官の肩がびくりと震えた。
「な……何がでございます?」
「このまえ、あそこにいたひと」
凌曜は、庭の奥を指差す。
そこは、慧妃の住まいへ続く回廊だった。
「きれいな、においの」
慧妃は、強い香を好んだ。
後宮では有名な話だ。
女官は、思わず口を押さえた。
「……殿下、よく覚えていらっしゃいますね」
「うん」
それ以上、凌曜は何も言わなかった。
だが、その夜。
景帝のもとに、一本の布切れが届けられた。
薄紫色の絹。
端に、かすかな刺繍。
後宮で、この布を使う妃は一人しかいない。
「……慧妃か」
景帝は、低くつぶやいた。
布切れは、凌曜が拾ったものだった。
慧妃の旧居となった宮殿の庭。
遊んでいる最中、草の陰から見つけたという。
「じぃじ、これ」
ただ、それだけの報告だった。
だが、その布には、価値があった。
刺繍に使われている糸。
それは、本来、後宮では使えぬはずの色。
――禁色。
皇族以外の使用は禁止されている。
「……ずいぶんと、派手な遊びをしていたようだな」
景帝は、布切れを握りしめた。
慧妃は、後宮の規則を破っただけではない。
禁色を用いるということは、
皇族になろうとする意思の表れでもある。
すでに調べは進んでいた。
魏派との密通。
毒未遂への関与。
そして、禁色の使用。
役は、揃っていた。
「正式に、廃せ」
景帝の声に、迷いはない。
翌朝。
慧妃の廃位が、公に告げられた。
罪状は、病のふりをしての規律違反。
詳細は伏せられている。
後宮の者たちは、深く頭を下げながら、震えていた。
――次は、誰だ。
その日、凌曜は、乳母と共に、皇帝のもとを訪れていた。
景帝は、孫を膝に乗せる。
「凌曜」
「なに、じぃじ」
「……お前は、あの布を、どうして拾った」
凌曜は、少し考えた。
「あそこ、ちくちくしてた」
意味の分からぬ答えだった。
だが、景帝は理解した。
――違和感。
草の中にあるはずのないもの。
布切れ一枚の“不自然さ”。
それを、凌曜は見逃さなかった。
「そうか」
景帝は、静かに笑った。
「よく気づいた」
凌曜は、褒められたことよりも、
祖父の声が柔らかいことに安心したようだった。
「……もう、きえない?」
不意に、そう尋ねる。
景帝の表情が、一瞬だけ曇る。
「誰がだ」
「きれいな、においのひと」
慧妃のことだ。
景帝は、しばらく沈黙し、やがて答えた。
「……戻らぬ」
凌曜は、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷く。
「……そう」
それ以上、何も聞かなかった。
その夜。
後宮では、灯りが早く消えた。
囁き声は、完全に途絶えた。
誰もが理解している。
幼き改革者は、すでに後宮の秩序そのものになりつつあると。
凌曜は、眠りにつきながら、夢を見ていた。
誰かが、静かに遠ざかっていく夢。
それを、悲しいとは思わなかった。
ただ――
少しだけ、冷たい風が吹いた気がした。
だが、温かな腕が、そこにあった。
「……じぃじ」
寝言のように呟く。
後宮から、また一人。
音もなく、消えた。
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