5 / 12
第5話 焦りは、仮面を歪ませる
しおりを挟む聖女マリエルは、鏡の前で自分の顔を見つめていた。
白く整えられた肌。
慈愛に満ちた微笑み。
――完璧な“聖女”の顔。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「私は、選ばれた存在。あの人は……もう、終わった」
そう。
婚約破棄は、成功したはずだった。
なのに。
「……どうして」
指先が、わずかに震える。
王城の廊下で交わされる、微妙な視線。
以前のような、無条件の崇拝が――薄れている。
理由は、分かっていた。
「エルヴェイン……」
あの家が、動いている。
――いや。
“動いていない”こと自体が、異常なのだ。
沈黙。
それは、最も雄弁な圧力だった。
*
「マリエル様」
控えめな声に、彼女は肩を跳ねさせた。
「……何?」
振り向いた先に立っていたのは、神殿付きの若い神官だった。
「本日の癒やしの儀式ですが……」
「ああ、ええ。いつも通りでいいわ」
笑顔を作る。
聖女の、完璧な微笑み。
「ただ……」
神官は、言いづらそうに視線を伏せた。
「参加者が、少なく……」
「……少ない?」
マリエルの声が、わずかに裏返る。
「どういうこと?」
「その……エルヴェイン公爵家の方々が、参加を見送られると……」
――その名を、聞いた瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「……あの家が、来ないだけでしょう?」
努めて冷静に言う。
「他にも、信徒は――」
「それが……」
神官は、さらに声を潜めた。
「最近、“様子を見る”という方が増えておりまして……」
様子を見る。
それは、信じていた“聖女”に対して向ける言葉ではない。
「……わかりました」
マリエルは、笑顔を保ったまま告げた。
「では――私が、直接動きます」
*
その日の午後。
王都の小さな広場で、聖女マリエルは人々に囲まれていた。
「皆さま……」
慈しむような声。
「最近、心を痛めている方が多いと聞きました。私にできることがあれば……」
集まった人々は、ざわつく。
以前なら、すぐに跪き、感涙にむせんだはずだった。
――けれど。
「……あの、聖女様」
一人の女性が、恐る恐る口を開いた。
「はい?」
「エルヴェイン公爵令嬢様の件……本当なのでしょうか?」
空気が、ぴたりと止まる。
マリエルの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……何を、仰りたいのですか?」
「その……あの方、本当に、私たちを陥れたり……」
「――当然です」
被せるように、強い口調で答えてしまった。
しまった、と思った時には遅い。
「彼女は、私を妬み……」
言葉を重ねるほど、周囲の視線が変わっていく。
「……でも」
今度は、年配の男性が言った。
「私の娘は、あの方に助けられました」
別の声。
「私もです」
「俺も……」
ぽつり、ぽつりと――
集まった人々が、口々に語り始める。
マリエルは、息を呑んだ。
――知らなかった。
リリアーナが、こんなにも多くの人に“記憶されていた”ことを。
「……それは、誤解です」
声が、少しだけ尖る。
「あの方は、表面上、優しく振る舞っていただけで――」
「……聖女様」
最初に声を上げた女性が、静かに言った。
「それ、本当に“見た”ことですか?」
胸を、鋭いもので突かれたような感覚。
「誰かから、聞いた話ではなく?」
――しまった。
その瞬間、マリエルは悟った。
これが、失策だと。
*
その夜。
王太子の執務室で、マリエルは焦りを隠せずにいた。
「殿下……人々が……」
「聞いた」
アルフォンスは、苛立たしげに言った。
「最近、お前の評判が――」
「違います!」
思わず、声を荒げる。
「全部、あの女が……!」
言い切った瞬間、空気が凍った。
アルフォンスが、ゆっくりとこちらを見る。
「……“あの女”?」
しまった。
慌てて口を押さえる。
「い、いえ……その……」
だが、もう遅い。
殿下の中で、何かが引っかかったのが分かった。
*
一方、その頃。
私は、屋敷の書庫で本を読んでいた。
「……?」
ふと、胸騒ぎがする。
理由は、わからない。
「リリアーナ」
ユリウス兄様が、静かに声をかけた。
「外で、少しだけ……面白い動きがあった」
「……面白い、ですか?」
「うん」
意味深な微笑み。
「君は、何もしなくていい」
その言葉に、私は小さく頷いた。
――何もしていないのに。
それでも、物語は進んでいく。
偽りの聖女は、自分で踏み出した一歩で――
“完璧な仮面”に、最初の亀裂を入れてしまったのだから。
11
あなたにおすすめの小説
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
甘そうな話は甘くない
ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
「君には失望したよ。ミレイ傷つけるなんて酷いことを! 婚約解消の通知は君の両親にさせて貰うから、もう会うこともないだろうな!」
言い捨てるような突然の婚約解消に、困惑しかないアマリリス・クライド公爵令嬢。
「ミレイ様とは、どなたのことでしょうか? 私(わたくし)には分かりかねますわ」
「とぼけるのも程ほどにしろっ。まったくこれだから気位の高い女は好かんのだ」
先程から散々不満を並べ立てるのが、アマリリスの婚約者のデバン・クラッチ侯爵令息だ。煌めく碧眼と艶々の長い金髪を腰まで伸ばした長身の全身筋肉。
彼の家門は武に長けた者が多く輩出され、彼もそれに漏れないのだが脳筋過ぎた。
だけど顔は普通。
10人に1人くらいは見かける顔である。
そして自分とは真逆の、大人しくか弱い女性が好みなのだ。
前述のアマリリス・クライド公爵令嬢は猫目で菫色、銀糸のサラサラ髪を持つ美しい令嬢だ。祖母似の容姿の為、特に父方の祖父母に溺愛されている。
そんな彼女は言葉が通じない婚約者に、些かの疲労感を覚えた。
「ミレイ様のことは覚えがないのですが、お話は両親に伝えますわ。それでは」
彼女(アマリリス)が淑女の礼の最中に、それを見終えることなく歩き出したデバンの足取りは軽やかだった。
(漸くだ。あいつの有責で、やっと婚約解消が出来る。こちらに非がなければ、父上も同意するだろう)
この婚約はデバン・クラッチの父親、グラナス・クラッチ侯爵からの申し込みであった。クライド公爵家はアマリリスの兄が継ぐので、侯爵家を継ぐデバンは嫁入り先として丁度良いと整ったものだった。
カクヨムさん、小説家になろうさんにも載せています。
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
私はもう必要ないらしいので、国を護る秘術を解くことにした〜気づいた頃には、もう遅いですよ?〜
AK
ファンタジー
ランドロール公爵家は、数百年前に王国を大地震の脅威から護った『要の巫女』の子孫として王国に名を残している。
そして15歳になったリシア・ランドロールも一族の慣しに従って『要の巫女』の座を受け継ぐこととなる。
さらに王太子がリシアを婚約者に選んだことで二人は婚約を結ぶことが決定した。
しかし本物の巫女としての力を持っていたのは初代のみで、それ以降はただ形式上の祈りを捧げる名ばかりの巫女ばかりであった。
それ故に時代とともにランドロール公爵家を敬う者は減っていき、遂に王太子アストラはリシアとの婚約破棄を宣言すると共にランドロール家の爵位を剥奪する事を決定してしまう。
だが彼らは知らなかった。リシアこそが初代『要の巫女』の生まれ変わりであり、これから王国で発生する大地震を予兆し鎮めていたと言う事実を。
そして「もう私は必要ないんですよね?」と、そっと術を解き、リシアは国を後にする決意をするのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる