悪女と呼ばれた令嬢は、親友の幸せのために婚約者を捨てた

由香

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第1話 悪女の微笑

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 ――悪女。

 その囁きは、まるで埃のように社交界に漂っている。
 気づけば靴にまとわりつき、いつの間にか裾を汚している。
 公爵令嬢リュシエンヌ・アルヴェールは、その呼び名に、もう眉ひとつ動かさなくなっていた。

 大理石の床に反射する燭台の光が、夜会場を白々と照らしている。
 王城の大広間。
 今宵は、王太子との正式な婚約披露の場だった。

 本来ならば、祝福と羨望に満ちた空間になるはずだったのだ。

「リュシエンヌ嬢」

 名を呼ばれ、彼女は一歩前へ出た。
 淡い銀色のドレスが、わずかに音を立てて揺れる。

 正面に立つ王太子は、完璧な微笑を浮かべていた。
 誰もが安心し、誰もが信頼してしまう表情。
 けれどリュシエンヌの胸は、不思議なほど静かだった。

 視線を上げる。
 その先にあるのは、彼ではない。

 広間の柱の影。
 控えめな位置に立つ一人の青年。

 騎士見習いの正装に身を包んだ、カイル・レイフォード。
 幼い頃から、彼女の隣にいた唯一の存在。

(大丈夫)

 心の中で、そう告げる。
 彼がこちらを見ていることを、彼女は知っていた。

「どうか、我が婚約者として――」

 王太子の言葉を遮る形で、リュシエンヌは静かに息を吸った。
 そして、はっきりと告げる。

「恐れながら申し上げます。本日をもって、婚約の解消を願い出ます」

 一瞬。
 音という音が、夜会場から消え失せた。

 次の瞬間、ざわめきが爆発する。

「な……何を言っているのだ、公爵令嬢」

「正気か?」

「この場で婚約破棄など……!」

 王太子の顔から、余裕の色が消えた。
 だがそれ以上に凍りついたのは、周囲の貴族たちだ。

 当然だろう。
 王家との婚約を、しかも披露の席で、自ら壊すなど前代未聞だ。

「理由を聞こう」

 低く抑えた声。
 怒りと困惑が、混じり合っている。

 リュシエンヌは、ほんの一瞬だけ瞼を伏せた。

(これでいい)

 誰かを守るには、誰かが傷を引き受けなければならない。
 それが自分であるのなら、迷う理由はなかった。

「……愛情を感じられないのです」

 ざわり、と再び空気が揺れる。

「王太子殿下は立派なお方です。ですが私は、殿下に相応しい淑女ではありません」

 冷たく、計算された言葉。
 同情も、未練も、すべて切り捨てるための刃。

 王太子の目が細められる。
 侮辱と受け取られても仕方のない言い回しだった。

「ずいぶんな言い草だな」

「承知の上です」

 リュシエンヌは微笑んだ。
 社交界で“悪女”と呼ばれる、その微笑で。

 視線の端で、カイルの姿が揺れる。
 彼が一歩踏み出しかけ、そして止まったのが分かった。

(動かないで)

 願うように、心の中で繰り返す。

 あなたが前に出れば、すべてが無駄になる。

 王太子は、しばらく彼女を睨みつけていたが、やがて冷笑を浮かべた。

「後悔するぞ」

「後悔はいたしません」

 即答だった。

 その瞬間、リュシエンヌは理解した。
 もう戻れない場所へ、足を踏み入れたのだと。

 夜会は、最悪の形で終わった。
 祝福の音楽は止み、残ったのは噂話と視線の刃だけ。

 広間を後にする彼女の背中に、無数の声が突き刺さる。

「やはり悪女だ」

「王太子を袖にするなんて」

「冷酷にも程がある」

 それでも、振り返らなかった。

 廊下を抜け、静かな中庭へ出たところで、足音が追いついてくる。

「リュシエンヌ!」

 聞き慣れた声。
 振り向けば、カイルが立っていた。

 怒りと困惑と、わずかな悲しみを混ぜた表情で。

「どうして、あんなことを……」

 問いかけの言葉は、途中で途切れた。

 彼女は、あえて距離を取るように一歩下がり、淡く笑った。

「あなたには関係ないわ」

「……俺は、親友だろ」

 その言葉が、胸を刺す。

 けれど彼女は、首を横に振った。

「親友だからこそ、巻き込みたくないの」

 それ以上、何も言わずに背を向ける。

 背後で、彼の声が小さく震えた。

「……分からないよ」

 分からなくていい。
 分かられなくていい。

 リュシエンヌは夜空を見上げ、そっと息を吐いた。

(これで、あなたは自由)

 悪女と呼ばれても構わない。
 孤独になっても、構わない。

 ただ一人の親友の未来が守られるなら――
 彼女は、何度でも悪女になるつもりだった。




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