BLオメガバース短編集

由香

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『琥珀の香は血より濃く』

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 沈珩しんこうは、薄闇の寝殿に置き去りにされた琥珀香の匂い袋を静かに指で撫でた。

 ──この香りすら、もう必要ないのだろう。

 夫である凌曄りょうよう将軍は、ここ数ヶ月まともに屋敷へ帰らない。帰ってきたとしても、冷えた視線を沈珩へ向けるだけだった。
 政略で迎えたΩの伴侶に興味などない、そういう態度だった。

 沈珩は机に一枚の紙を置いた。
 離縁状。ただの薄い紙なのに、沈珩の指先より重く震えた。

「……さようなら、将軍。どうか幸せに」

 声は掠れていた。
 もう一つ──沈珩が胸に抱えている秘密だけが、紙よりも重い。

 

 伝えれば止められるかもしれない。
 けれど、愛されずに生まれてくる子を見たくなかった。
 それに、将軍が望むのは沈珩ではなく、強国の姫との婚姻だ。
 沈珩はその障りになるだけだった。

 だから沈珩は、琥珀香を机に残して、誰にも気づかれぬよう屋敷を去った。



 半年後。
 北境の戦場。

 吹き荒ぶ寒風の中、紅衣をまとった軍勢が凌曄の軍に合流した。
 その先頭に立つ軍師を見た瞬間、凌曄は凍りついた。

「……沈、珩……?」

 紅衣の男──きんは、鋭い瞳で凌曄を冷ややかに見つめた。

「その名は捨てました。今の私は“瑾”。将軍も、私のことなど覚えていなかったでしょう」

 覚えている。
 忘れられるはずがない。

 離縁状が置かれた寝殿に、かすかに残っていた琥珀の香り。
 胸を掴まれるような痛みだった。

「……なぜ、戻らなかった」

 凌曄の問いに、瑾は淡く笑う。

「捨てられた伴侶が、何のために戻るのです?」

 その言葉の切っ先が、凌曄の胸を貫いた。



 凌曄は夜、瑾の帳を勢いよく開いた。
 瑾は書策に囲まれた机で筆を走らせていたが、顔を上げると冷え切った瞳で言った。

「何の用です、将軍。ここは軍務の場です」

「……戻ってこい。お前を、取り戻したい」

「取り戻す?」

 瑾はかすれた笑みを浮かべた。

「それは、貴方が一度手放したものに言っていい言葉でしょうか」

「俺は……お前を軽く見ていた。だが今は──」

「遅いのです」

 凌曄は言葉を失った。

「私はあの屋敷で、存在しない影のように扱われました。触れられず、愛されず、冷たい顔を向けられる日々。その苦しみを……将軍は一度でも思い返しましたか?」

 凌曄の喉に声がつまる。

「……すまなかった。俺は愚かだった」

「謝罪で済むものなら、私はこんな顔をしていません」

 瑾の瞳の奥で怒りと悲しみが渦巻く。
 その感情が、自分のせいだという事実が凌曄を苛んだ。

「せめて償わせてくれ。たとえ拒まれても……そばにいたい」

「将軍」

 瑾は深く息を吸い、目を閉じた。

「私はもう……貴方の番ではありません。」

 その一言は、凌曄を地獄に突き落とすのに十分だった。



 翌日。
 瑾は凌曄に背を向けたまま言った。

「……一つだけ、伝えておくことがあります」

 凌曄の胸が微かに高鳴る。
 けれどその言葉は、甘い期待を切り裂いた。

「私は、あの時……子を宿していました」

 凌曄の世界が止まった。

「な……ぜ言わなかった」

「言えば、将軍は私を手放さなかったでしょう。でも……貴方は私を愛していなかった」

 瑾の声が震える。

「私は、愛されぬまま生まれる子を守りたかった。沈家が滅ぼされた時、逃げるしかなかった。だから“瑾”として生きることを選んだのです」

「子は……どうした……?」

「ここに」

 瑾は自分の腹にそっと手を置いた。

 凌曄は掴まれたように息を呑む。

「……生きているのか?」

「ええ。あなたの子は、強く、温かく、生きています。もうすぐ、生まれます」

 凌曄は膝から崩れ落ち、震える手で瑾の腹に触れた。

 温かい。
 確かにそこに命があった。

「……すまない、本当に……すまない……」

 呻くように謝罪がこぼれた。

「俺は、お前も、子も、失うところだった」

「失ったでしょう?」

 瑾は静かに言った。

「私は戻るつもりはないです」

「お願いだ……」

 凌曄はすがるように瑾の手を握る。
 かつて一度も触れられなかった手。
 今は震えていて、温かった。

「どうか、もう一度だけ……俺に機会をくれ。お前を愛しく思う気持ちで、胸が焼けて苦しい」

 瑾の目に、涙が一粒落ちた。

「……私も、本当は……貴方に触れたかった」

「瑾……」

「でも、怖い。また捨てられる未来を思うと、足が竦むのです」

「捨てない。生涯、そばを離れない。俺の命を――お前たちに捧げると誓う」

 瑾は唇を噛み、震える声で答えた。

「……もう一度だけ。貴方を信じてみても……いいでしょうか」

 凌曄は瑾を抱きしめた。
 瑾はしばらく抵抗したが、やがて胸元に額を寄せて泣いた。

 久しぶりに嗅いだ琥珀の香りが、ふたりの間に、かすかに蘇っていた。




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