BLオメガバース短編集

由香

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『それでも、君を手放せない』

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 春の陽射しが差し込む部屋で、エリオは震える手でルークの袖をつかんでいた。

「……どうして、そんな顔で言うの……?」

 ルークはエリオから目を逸らしたまま、低く息を吐く。

「君の未来を守りたいんだ。エリオ……君は、もっと自由に、好きな人と——」

「好きな人は、ルークだよ。ずっと、ずっと……!」

 声が掠れ、涙がぽたぽたと床に落ちる。
 Ωとしての二次性徴が出たばかりで、身体はまだ不安定。
 医者からは「発情期が重く、子は授かりにくい」と言われ、ルークの家は跡継ぎ問題で揺れていた。

 ——わかってる。
 自分が“家のための相手”としては不適格なんだと。

 それでも、愛だけは本物だと信じていた。

「エリオ……ごめん。これは君のためなんだ」

 優しい声が、刃のように胸に刺さる。

「違う……そんなの、僕が決める……っ」

 それでも、ルークはエリオの手をそっと剥がした。
 その表情は凍りついていて、もうどれほど呼んでも戻らないとエリオは悟ってしまう。

 その日の夜、エリオは小さな鞄ひとつを持ち、街を出た。

 振り返ったとき。
 ルークはいてほしい場所にいなかった。

 ——その空白が、何年もエリオの心に残ることになる。



 再会は、あまりにも唐突だった。

 研究都市クリスの大通り。
 整えられた白い制服、肩にかかった研究者証。
 エリオは抑制剤の改良研究の主任として、久々に故郷へ戻ってきていた。

「……エリオ?」

 聞き慣れた声に足が止まる。

 振り向くと、そこにはかつての恋人、ルークが立っていた。

 あまりにも変わっていた。
 疲れ切った目。
 高級品だったはずのジャケットはほつれ、手はかすかに震えている。

「こんにちは、ルーク。久しぶり」

 エリオは研究者としての、落ち着いた微笑を浮かべた。
 それは、誰にでも向ける礼儀の笑顔。

 ルークの肩がわずかに揺れる。

(……他人行儀だ)

 エリオの瞳は穏やかで、恨みも怒りも、恋情ですらない。

 “もう、ただの過去として扱っている”
 それが、ルークの胸を深くえぐった。

「エリオ、その……今、帰ってきたのか?」

「仕事でね。発情期の抑制剤で、新しい成果が出たんだ。報告に」

 明るい声。
 昔のように頬を染めることもなく、落ち込んだ様子もない。

 それが、ルークには耐え難かった。

 ——あの日手放したのは、ただの恋じゃなかった。
 生涯の支えを、心の半分を、失っていた。

「……少し、話せないか」

「いいよ。ルークが困っているなら」

(“僕が困っているなら”……?どうしてそんな言い方を……)

 優しいのに、どこまでも距離がある。
 ルークは初めて、自分が捨てたのは“誰より自分を愛してくれた人”だったと悟る。



 二人は昔よく来ていた河川沿いのベンチに座った。

 沈黙のあと、ルークは膝に顔を伏せるようにして言った。

「……エリオ。あの日のことを、謝りたい」

 声は震えていた。

「家はもう傾いた。婚約者にも逃げられて、何をしても上手くいかない。……全部、自業自得だ。君を手放した自分が、どれほど愚かだったか……」

 言葉が途切れる。
 悔いと苦しみが、浅ましいほどに溢れていた。

 エリオは静かに聞いていた。
 責めるでもなく、同情するでもなく。

「ルーク。僕はね、あの日やっと気付いたんだ」

 風に揺れる銀髪。
 エリオの声は穏やかで、どこまでも優しい。

「愛されたいからじゃなくて、“選ばれたいだけ”だったんだって。君が僕を選んでくれることが、僕の価値だと思っていた」

「エリオ……」

「でももう、他人に選ばれないと価値がない、なんて思いたくないんだ。だから、僕は僕の人生を生きることにしたの」

 ルークの胸に痛みが走る。

 ——もう自分は、彼の世界の中心じゃない。

 その事実は、どんな罰よりも残酷だった。

「……エリオ。もう一度、僕に君を愛させてほしい」

 縋るような声が漏れる。

 エリオは困ったように微笑んだ。

「それは、僕に“昔のエリオ”に戻れって言うのと同じだよ」



 ルークはすがるプライドも捨てていた。

「……君がいないと、生きていけない。失ってから気付いた。僕は君に依存していたんだ」

 膝に落ちる涙が滲む。
 かつての誇り高いαの姿はどこにもない。

 エリオはそっと、ルークの頬に触れた。

 それは“愛”ではなく、“最後の優しさ”。

「ルーク。嫌ってなんていないよ」

「……っ」

「でもね、もうあの日みたいには戻れない。僕は僕を取り戻して、ようやく立てるようになったんだ」

 ルークは顔を上げられなかった。

「だけど……君の幸せを守る場所にいられなくてもいい。恨まれてもいい。ただ……君が笑って生きていてくれれば、それで……」

 声が途切れ、肩が震える。

 エリオはかすかに微笑んだ。

「それが、あなたの救いになるの?」

「……ああ」

 その言葉は、嘘ではなかった。



 日が沈みかける。
 エリオは立ち上がり、歩き出そうとする。

「エリオ……!」

 呼び止める声が痛いほど切ない。

 エリオはふと振り返り、そっと言った。

「ねえルーク。僕が……また誰かを好きになれた時——」

 ルークの喉がひくりと動く。

「……うん」

「その人を、恨まないであげて」

 胸が締め付けられる。
 苦しくて、情けなくて、それでも——

「……約束、する」

 エリオの頬に夕陽が差し、銀の髪が金色に揺れた。

「ありがとう」

 その一言だけが、救いとしてルークの心に残った。



 エリオは新たな研究のため、街を出ていった。
 もう振り返らない。
 けれど恨みも怒りも残らず、心は穏やかだった。

 一方、ルークは静かに空を見上げる。

 彼は取り戻せなかった。
 どれほど悔やんでも、もう隣にいることはない。

 しかし——

「……それでもいい。君が笑って生きられるなら……それだけで」

 その言葉を胸に、ルークは初めて、前へ進もうとしていた。

 失った恋は戻らない。
 けれど、憎しみも残さなかった。
 二人の最後に残ったのは、ほんのわずかな救いだけ。

 ——それが、この物語の終わりだった。




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