BLオメガバース短編集

由香

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『新しい番、おめでとうございます』

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 ケイの病室の扉が開いた瞬間、レオンの喉がひきつれた。

 ベッドの上で、白いブランケットに包まれた青年が
 ゆっくりと顔を上げる。

 柔らかい黒髪。
 細い手首。
 レオンを見つけたとき、昔はいつも嬉しそうに笑った瞳。

 ——その瞳が、今は怯えで揺れている。

「ケイ……?」

 声は震えていた。
 自分でも驚くほど弱い声だった。

 青年はさらに肩を強張らせる。

「……どなたですか?すみません、近づかないでください」

 胸の奥で何かが崩れた。

 医者が横で説明する。

「事故による前頭葉の損傷で、一部の記憶が欠落しています。……特に、あなたに関する記憶だけが綺麗に抜け落ちている」

 レオンは医者を睨んだ。

「“俺だけ”?なぜだ」

 医者は眉を寄せた。

「……匂いの拒絶反応が強いんです。あなたが近づくとケイさんは呼吸が乱れ、頭痛を訴える」

「そんな……番だぞ?俺たちは番なんだ……!」

「身体が、あなたを“危険”として認識しているんです。脳が無理やり忘れようとした可能性がある」

 番であるはずの自分が、彼の中で「危険」として記録されていた。

 反論しようと口を開いたが、ベッド上のケイが苦しげに唸った。

「や……めて……来ないで……」

 レオンは一歩も動けなくなった。

 世界が、音も匂いも、すべて消えていくようだった。



 レオンは毎日ケイの病室へ通った。

 けれど——ケイは決してレオンに笑わない。

 以前のケイは、レオンの香りにすぐ頬を赤くし、甘えるように寄り添い、「レオンが好き」と何度も囁いた。

 その全部が、消えていた。

「こんにちは、レオンさん」

「……“さん”じゃなくて、ケイ……」

「すみません。あなたと親しかったという記録は残っていますが、どう接していいか……わからなくて」

 記録。
 その一言だけで胸がひどく痛む。

 ふいにケイが首を傾げる。

「僕……昔、あなたのことがすごく好きだったらしいですね」

 レオンは息を呑んだ。

「“だった”?過去形で言うなよ。今も——」

「今は違います」

 きっぱりとした声。

 ケイは少し寂しそうに微笑んだ。

「思い出せないんです。あなたといた記憶だけが、どうしても……」

「思い出さなくていい。新しく作ればいい。今から俺が全部——」

 ケイは首を横に振った。

「あなたと話すと、胸が苦しくなるんです。体が“怖い”と言ってる。理由はわからない。でも、本能的に……あなたを拒絶してしまう」

 レオンは唇を噛んだ。

 血の味が広がった。

「……俺が何をしたっていうんだ」

 ケイは答えなかった。
 答えられなかったのだろう。

 事故の前に何があったのか、本人も覚えていないのだから。

 ただ、レオンだけが「排除すべき存在」になっていた。



 ケイの病院に出入りする男がいた。
 柔らかな金髪のα——ナズル。

 医師が言う。

「ナズルさんは、ケイさんの症状を最も安定させる“相性良好アルファ”です。香りを嗅がせると、ケイさんは発作が落ち着くんですよ」

 レオンは耳を疑った。

「……相性良好?番は俺だぞ」

「ですが、あなたへの拒絶は強く、ケイさんの身体が受け入れられない以上、代替のαを用意する他ありません」

 しかも、ケイはナズルの前で微笑んだ。

 穏やかで、柔らかい笑み。
 レオンに向けることのなくなった笑顔。

「ナズルさんが来ると落ち着くんです。……不思議ですよね。初めて会ったのに、懐かしい匂いがするみたいで」

 レオンは叫びそうになった。

「俺の番なんだぞ!?お前の身体は俺を求めてた!ずっと、ずっと……!」

 ケイは悲しそうに言った。

「ごめんなさい。“昔の僕”はそうだったのかもしれない。でも今の僕は……あなたより、ナズルさんのほうが安心するんです」

 心臓が握り潰された。

 番なのはレオンだけ。
 なのに、身体は別のαを選んでいた。



 数ヵ月後。
 医師に呼ばれたレオンは、無機質な部屋で告げられた。

「ケイさん、番契約の破棄を希望しています」

「……ふざけるな」

「身体的にも精神的にも、あなたとの番絆は“切れている”状態です。拒絶反応が続けば命にも関わる」

 レオンの膝から力が抜けた。

「……ケイは、俺を本当に……捨てるのか」

「ケイさん自身の意思です。あなたと過ごした記憶は“苦しみの原因だった可能性”があると」

 覚えていないのに、無意識だけが過去を拒んでいた。

 レオンは病室の前に立ったが、ケイは面会を拒否した。

 ナズルだけがケイのそばにいた。
 手を握られ、安堵したように笑うケイをガラス越しに見るしかできなかった。

 番の刻印は、レオンの腕でだけ静かに残り続けた。

 ケイのそれは薄く消え、皮膚の上で埃のように消散した。

「……ケイ……忘れてもいい……嫌いでもいい……俺を捨てるなよ……」

 届かなかった。



 一年後。
 封書が一通、レオンのもとへ届いた。

 差出人:ケイ・シルヴァ

 レオンは震える手で開いた。

 〈ご報告〉
 このたび、ナズル・アーノルド氏と正式に番契約を結ぶ運びとなりました。
 私は彼といると、呼吸が楽になります。
 幸せになりたいと思っています。

 レオンさんもどうか幸せに。
 かつて私を愛してくれていたことに、感謝だけは……あります。

 意識が飛びそうになった。

 紙を握る指が白くなる。

「……“レオンさん”……?番だったんだぞ……お前は俺だけを見てたんだ……!」

 叫んでも誰もいない。

 その翌週、ニュースが流れた。

 ――ケイとナズル、番契約式。
 ――式場前で二人が微笑み合う映像。

 ケイは幸せそうだった。
 触れられた頬を赤くし、ナズルの香りにうっとりと目を細める。

 レオンが愛してやまなかった仕草を、“別の男”に向けていた。

 レオンだけが、世界から切り捨てられた。



 ケイは結婚後、レオンの前に二度と姿を現さなかった。

 レオンは毎日、かつて二人で暮らした家の玄関に座り込む。

 ケイが残していった小さなマフラーだけがかすかに香りを留めていた。

 けれどその香りは、日に日に薄れ、ついには消えた。

 ケイは幸せになり、新しい番と家庭を築き、穏やかに生きている。

 レオンだけが永遠に渇いたまま。

 誰と番になろうとしても、ケイの刻印が残った腕が疼き、拒絶反応を起こして失敗した。

 ケイの不在そのものが、レオンを壊し続けた。

 夜、レオンは天井を見つめながら呟く。

「……なぁ、ケイ。愛してたのは……俺だけだったのか?」

 返事は、どこにもない。

 どれだけ呼んでも、ケイの身体はもう別のαに寄り添い、レオンの香りを知らない。

 ずっと、永遠に。

 レオンの世界には、ケイの笑顔だけが今も燃え続け、自分の胸を焼き焦がしている。

 それが、終わらない地獄だった。




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