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『番を愛したのは、俺だけだった』
しおりを挟む朝、目覚めた瞬間、いつも胸を撫でるように香っていた温い匂いが、今日はなかった。
「……ミカ?」
寝室に人の気配はない。
代わりに、机の上で一枚の紙が風に揺れた。
手に取った瞬間、心臓の奥がざわつく。
*エルド様へ
もう、あなたの番ではいられません。
これ以上傷つきたくありません。
どうか、お元気で。
ミカ・ローレン*
一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間、喉をひきつるような痛みが走った。
「……逃げたのか」
呆れた声が勝手に出る。
だが胸の奥では別の何かが泣き叫んでいた。
おかしい。
ただいないだけなのに——肺が満足に動かない。
番の香りが、どこにもない。
その夜、エルドは初めて“渇き”を味わった。
背骨をひっかくような痛み、頭蓋を圧迫する焦燥。
息が吸えず、涙が勝手に溢れる。
「……ミカ……どこだ……!」
ミカがいない世界が、こんなにも寒いと知らなかった。
ミカはよく笑うΩだった。
おとなしく、献身的で、エルドの些細な言葉を宝物のように喜んでいた。
それがいつからか、鬱陶しく思った。
「甘えるな。番だからって、縋るのはやめろ」
「……ごめんなさい」
ミカは必ず謝った。
怯えた顔で、それでも近づいてくる。
初ヒートのときでさえ——
震えながら「そばにいて」と縋るミカを、エルドは突き放した。
「義務的に対応してやれば十分だろう」
ミカは泣きながらも、「……ありがとう」と言った。
その表情を思い出した瞬間、胸がえぐれた。
あのとき、本当は抱きしめたかった。
けれど、素直になれずに踏みにじった。
なぜ、そんな簡単なこともできなかったのか。
なぜ、ミカがいなくなるまで分からなかったのか。
「……俺は、本当に馬鹿だ……」
ミカの行方を探させる中、保護局からの通知が届いた。
『保護対象Ωミカ・ローレンは医療隔離棟にて療養中』
生きていた。それだけが救いだった。
エルドはすぐに駆けつけた。
だが受付で告げられた言葉は、胸を刺した。
「……あなたの面会は許可できません。彼は、あなたに強い恐怖反応を示しています」
「……恐怖?」
エルドの匂いに怯える?
番である自分の香りを、恐怖として——?
受け止めきれず、その場に立ち尽くした。
だが、さらに追い打ちが来た。
「それと……彼は“無香化手術”を受けました」
時間が止まった。
「……なん、だと?」
「番の絆を断つ最終手段です。これで彼の身体は、あなたを番として一切認識しません。どれだけ近づこうと、あなたの香りは届かないでしょう」
耳鳴りがした。
世界から色が消えた。
「そんな……こと……」
崩れ落ちたエルドの手から書類が散る。
あの日ミカが何度も何度も絞り出していた「痛い」「辛い」の涙が脳裏をよぎる。
全部、自分が壊した。
どれだけ叫んでも掴めなかった。
どれだけ探しても会わせてもらえなかった。
そして——
ミカはどこかへ消え、消息不明になった。
三年後。
通り雨の降った街角で、エルドはその姿を見た。
「……ミカ……!」
振り返った青年は、確かにミカだった。
けれど、その目は空っぽに澄み切っていた。
エルドの香りに一切反応しない。
近づいても、睫毛一つ震えない。
「ひさしぶり……ですか?」
「ミカ……俺だ。エルドだ。分からないのか?俺の香りも、声も……!」
ミカは穏やかな笑みを浮かべた。
そこに、かつての愛は欠片もなかった。
「ごめんなさい。あなたを知っている感覚が……何も、ありません」
心臓を掴まれたような痛みが走った。
エルドは涙で視界を滲ませながら、苦しげに言った。
「愛してる。今も、お前だけだ……戻ってきてくれ……頼む……!」
ミカは首を傾げ、悲しげに微笑んだ。
「……あなたは、きっと僕を愛してませんでしたよ」
「違う、違う!俺は今、こうして——」
ミカは言葉を遮った。
「僕を愛してたのは……いつも、僕だけでした。あなたじゃない。だから手術を受けられたんです。あなたの香りを忘れて、やっと呼吸ができた」
エルドは嗚咽した。
ミカは、雨の向こうに消えるように背を向ける。
最後に一度だけ振り返り、静かに告げた。
「さよなら。あなたとの時間は……全部、私の片想いでした」
エルドは追いすがった。
だがミカは振り返らなかった。
二人の間に、もう香りは存在しなかった。
それから二年後——
ミカが事故で亡くなったと知らされた。
知らせは友人経由で、葬儀へ呼ばれることはなかった。
ミカは最後までエルドを「知らない人」だった。
墓前に立ったエルドは、膝から崩れ落ちた。
「……ミカ……」
香りのない墓。
返事をしない番。
思い出すのは泣きながら「そばにいて」と言ったミカの姿だけ。
胸の渇きは死ぬまで治らない。
過去の光景が脳を焼き続ける。
エルドは毎日墓に通った。
雨の日も、雪の日も、倒れるまで。
そのたびに呟く。
「愛したのは俺だけだった……気づいた時には、もう遅かったんだ……ミカ……ごめん……ごめん……」
誰も答えない。
地獄は終わらない。
そして——
彼はミカの墓の前で静かに息を引き取った。
最後の呼吸まで、ミカの名だけを呼びながら。
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