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『最後の発情期(ヒート)』
しおりを挟むレオンが目を覚ましたとき、寝室にはいつもの微かな甘い香りが漂っているはずだった。
けれど今朝に限って——それが、ない。
枕の隣も、シーツの温もりも、ひどく冷たかった。
「……ユノ?」
返事はない。
いつもなら控えめで柔らかい声が、すぐに返ってくるはずなのに。
胸にざらつく違和感を抱えたまま起き上がると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。
封蝋はユノのもの。震える指で開くと、整った文字が視界に突き刺さる。
——レオン様、すみません。
これ以上、あなたの傍にいるのがつらくなりました。
私は屋敷を出ます。
婚約解消をお願いいたします。
どうか、お元気で。
レオンは笑った。
薄く、鼻で。
「……馬鹿か。すぐ戻ってくるくせに」
そう言い捨ててから、胸の奥がじわりと重くなる。
あの控えめなオメガが、自分に逆らって屋敷を出るなど、ありえない。
きっとどこかでふてくされているだけだ。
そう思い込んだ。
——しかし、一時間。
——半日。
——丸一日が過ぎても、ユノは戻らなかった。
その日、寝室の香りは完全に消えた。
レオンの胸が初めて、静かに軋みだした。
「旦那様、こちらの書類をご確認——」
「ユノは?」
側近のエリオットが一瞬だけ言葉を詰まらせた。
この質問を一日に何度目か、本人すら覚えていない。
家臣に聞いたところで分かるはずがないのに、問いかけずにはいられなかった。
「……申し訳ありません。依然として、所在は掴めておりません」
レオンは無言で拳を握った。
焦燥が皮膚の下を這いずり回るようだ。
「おかしいだろう。あいつがいなくて、なんで……」
なんで、こんなに胸が苦しい。
思考の奥で、ひどく嫌な予感が渦巻く。
その正体を掴むのが怖くて、レオンは目を背け続けた。
ふいに、思い出したくない記憶がよみがえる。
ユノの初めての発情期——弱った体でレオンに縋り、震える声で「そばにいて」と言った夜。
レオンはその頼り方がどうしても鬱陶しくて、
「情にすがるな。番になるのは家のためだ。感情なんて、要らない」
と吐き捨てた。
それでもユノは笑った。
「……はい」と。
それが、胸に刺さった。
なぜ、あんな冷たい言葉を返したのか。
そして、なぜその顔を思い出すだけで、喉の奥が焼けるように痛むのか。
分かっている。
ずっと前から、本当は気づいていた。
——レオンはユノを愛していた。
気づきたくないほど、深く。
認めてしまえば、すべてが崩れる。
そう思ったから、見ないふりをしてきた。
だからユノは、もう限界になったのだ。
「……どこだ。ユノ」
その瞬間、扉が叩かれた。
「旦那様、オメガ保護局からの連絡です!」
嫌な汗が背を滑り落ちた。
保護局の医療隔離棟には、消毒液の強い匂いが漂っていた。
レオンのブーツの音が響くたび、心臓も同じリズムで跳ねる。
「レオン・ハルト様ですね。ユノ・エヴァンスさんは……発見時、かなり衰弱していました」
担当者の報告に、血の気が引いた。
「なぜだ」
「アルファの匂いに怯えていたと……おそらく恐怖やストレスで、香りが不安定になっていたのでしょう」
——怯えていた。
ユノが?
自分の匂いを?
喉が締め付けられた。
拳に力が入りすぎて、爪が皮膚に食い込む。
「会わせてくれ……頼む」
制止されると思ったが、担当者は静かに頷いた。
「ただし、刺激はしないでください。彼は、まだ恐怖反応を示す可能性があります」
レオンは飲み込むようにして息を吐き、ドアを開いた。
白い隔離室には、ユノが横たわっていた。
細い肩は毛布の下で小さく震え、頬は健康的な色を失っている。
胸が裂けた。
「……ユノ」
近づくのも恐ろしいほど、その存在は弱々しかった。
レオンはベッドの横に膝をつき、そっと名前を呼ぶ。
ゆっくりと、ユノの睫毛が震えた。
その瞳が、レオンを映した瞬間——
ユノの体がびくりと強張った。
恐怖の反応。
「違う……怖がらせたいんじゃない。ユノ、俺は……」
言葉が続かない。
後悔が喉を塞いでいく。
「ごめん。俺がお前を追い詰めた。何度も傷つけた。でも、気づいたんだ……お前がいないほうが、息ができない。こんな苦しいなんて……知らなかった」
ユノの指が毛布を掴む。
震えて、震えて、それでも彼は言葉を絞り出した。
「……どうして、今さら……そんな……」
「遅いのは分かってる。それでも、ユノ。一生かけて償わせてくれ」
ユノの目に涙が溢れた。
恐怖と、悲しみと、愛しさが混じった涙。
「……レオン様のそばは……苦しかったんです。でも……離れても、苦しかった」
その声は、壊れそうに小さい。
「それは……僕が、あなたを……好きだから……」
レオンは一瞬、呼吸を忘れた。
「ユノ……」
そっと手を伸ばす。
触れる直前で止めた。
「触れても……いいか?」
ユノは迷いながらも、小さく頷いた。
許しではない。
けれど、その仕草だけで胸が熱くなる。
レオンはユノの細い指に、そっと触れた。
温度が伝わる。
ユノの手が、弱々しく握り返してきた。
声にならない安堵が溢れ、レオンの目からも涙がこぼれた。
数日後、ユノは保護局からレオンの屋敷に戻った。
ただし、すぐ同じ部屋に戻ったわけではない。
「……しばらくは、距離を置きたいです。あなたの近くにいると、まだ胸が痛いから」
「分かった。望むならどれだけでも待つ」
レオンは即答した。
ユノは驚いたが、すぐに目を伏せた。
レオンは毎日、ユノの体調管理を最優先にした。
過剰な接触はしない。
求めもしない。
ただ、ユノが食べやすいものを用意したり、夜眠れないときは廊下で待機したり——ゆっくりと、信頼を積み重ねた。
距離を保ちながらも、二人は少しずつ歩み寄っていった。
ある夜。
ユノの呼ぶ声がした。
「レオン様……今日だけは、そばにいてください」
その一言に、胸が震えた。
レオンはユノの手を取り、ゆっくり寄り添う。
抱きしめるわけではない。
ただ、隣に座り、温度を分け合うだけ。
ユノの心臓の音が、徐々に穏やかになる。
「……怖くないか?」
「怖いです。でも……もう、逃げたくないんです」
レオンはそっと微笑んだ。
「なら、俺も逃げない。ユノが望む形で、ずっと隣にいる」
ユノは少しだけ肩を寄せた。
その仕草は、確かな前進だった。
季節がひとつ巡ったころ。
ユノはレオンの隣に、自然に立つようになっていた。
その夜、レオンは小さな箱を差し出す。
「……番になってほしい。義務じゃない。愛として、パートナーとして——ユノと生きたい」
ユノは箱を開けた。
そこには、あの日渡せなかった指輪。
「……レオン様」
涙が一筋流れた。
その涙は、もう恐怖のものではない。
ユノは静かに微笑んだ。
「はい。……僕も、あなたと生きたい」
レオンはそっとユノを抱きしめた。
ようやく、触れられる温度。
離さないと誓える温度。
もう二度と手放さない。
——ユノが笑うたびに後悔する。
もっと早く、気づけたはずなのに。
けれど今は、こう思える。
それでも、間に合った。
レオンはユノの耳元で、初めて素直に告げた。
「愛してる。これからは、俺がお前を守る」
ユノは小さく笑い、胸に頬を寄せた。
「……僕も、レオン様が好きです」
白い月光が二人を照らす。
過ちの先に、ようやく手にした——
遅すぎた恋の、正しい形。
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