BLオメガバース短編集

由香

文字の大きさ
5 / 9

『最後の発情期(ヒート)』

しおりを挟む

 レオンが目を覚ましたとき、寝室にはいつもの微かな甘い香りが漂っているはずだった。
 けれど今朝に限って——それが、ない。

 枕の隣も、シーツの温もりも、ひどく冷たかった。

「……ユノ?」

 返事はない。
 いつもなら控えめで柔らかい声が、すぐに返ってくるはずなのに。

 胸にざらつく違和感を抱えたまま起き上がると、机の上に一枚の封筒が置かれていた。
 封蝋はユノのもの。震える指で開くと、整った文字が視界に突き刺さる。

 ——レオン様、すみません。
 これ以上、あなたの傍にいるのがつらくなりました。
 私は屋敷を出ます。
 婚約解消をお願いいたします。

 どうか、お元気で。

 レオンは笑った。
 薄く、鼻で。

「……馬鹿か。すぐ戻ってくるくせに」

 そう言い捨ててから、胸の奥がじわりと重くなる。
 あの控えめなオメガが、自分に逆らって屋敷を出るなど、ありえない。
 きっとどこかでふてくされているだけだ。

 そう思い込んだ。

 ——しかし、一時間。

 ——半日。

 ——丸一日が過ぎても、ユノは戻らなかった。

 その日、寝室の香りは完全に消えた。

 レオンの胸が初めて、静かに軋みだした。



「旦那様、こちらの書類をご確認——」

「ユノは?」

 側近のエリオットが一瞬だけ言葉を詰まらせた。
 この質問を一日に何度目か、本人すら覚えていない。
 家臣に聞いたところで分かるはずがないのに、問いかけずにはいられなかった。

「……申し訳ありません。依然として、所在は掴めておりません」

 レオンは無言で拳を握った。
 焦燥が皮膚の下を這いずり回るようだ。

「おかしいだろう。あいつがいなくて、なんで……」

 なんで、こんなに胸が苦しい。

 思考の奥で、ひどく嫌な予感が渦巻く。
 その正体を掴むのが怖くて、レオンは目を背け続けた。

 ふいに、思い出したくない記憶がよみがえる。
 ユノの初めての発情期——弱った体でレオンに縋り、震える声で「そばにいて」と言った夜。

 レオンはその頼り方がどうしても鬱陶しくて、

「情にすがるな。番になるのは家のためだ。感情なんて、要らない」

 と吐き捨てた。

 それでもユノは笑った。

「……はい」と。

 それが、胸に刺さった。

 なぜ、あんな冷たい言葉を返したのか。
 そして、なぜその顔を思い出すだけで、喉の奥が焼けるように痛むのか。

 分かっている。
 ずっと前から、本当は気づいていた。

 ——レオンはユノを愛していた。
 気づきたくないほど、深く。

 認めてしまえば、すべてが崩れる。
 そう思ったから、見ないふりをしてきた。

 だからユノは、もう限界になったのだ。

「……どこだ。ユノ」

 その瞬間、扉が叩かれた。

「旦那様、オメガ保護局からの連絡です!」

 嫌な汗が背を滑り落ちた。



 保護局の医療隔離棟には、消毒液の強い匂いが漂っていた。
 レオンのブーツの音が響くたび、心臓も同じリズムで跳ねる。

「レオン・ハルト様ですね。ユノ・エヴァンスさんは……発見時、かなり衰弱していました」

 担当者の報告に、血の気が引いた。

「なぜだ」

「アルファの匂いに怯えていたと……おそらく恐怖やストレスで、香りが不安定になっていたのでしょう」

 ——怯えていた。

 ユノが?
 自分の匂いを?

 喉が締め付けられた。
 拳に力が入りすぎて、爪が皮膚に食い込む。

「会わせてくれ……頼む」

 制止されると思ったが、担当者は静かに頷いた。

「ただし、刺激はしないでください。彼は、まだ恐怖反応を示す可能性があります」

 レオンは飲み込むようにして息を吐き、ドアを開いた。



 白い隔離室には、ユノが横たわっていた。
 細い肩は毛布の下で小さく震え、頬は健康的な色を失っている。

 胸が裂けた。

「……ユノ」

 近づくのも恐ろしいほど、その存在は弱々しかった。
 レオンはベッドの横に膝をつき、そっと名前を呼ぶ。

 ゆっくりと、ユノの睫毛が震えた。

 その瞳が、レオンを映した瞬間——
 ユノの体がびくりと強張った。

 恐怖の反応。

「違う……怖がらせたいんじゃない。ユノ、俺は……」

 言葉が続かない。
 後悔が喉を塞いでいく。

「ごめん。俺がお前を追い詰めた。何度も傷つけた。でも、気づいたんだ……お前がいないほうが、息ができない。こんな苦しいなんて……知らなかった」

 ユノの指が毛布を掴む。
 震えて、震えて、それでも彼は言葉を絞り出した。

「……どうして、今さら……そんな……」

「遅いのは分かってる。それでも、ユノ。一生かけて償わせてくれ」

 ユノの目に涙が溢れた。
 恐怖と、悲しみと、愛しさが混じった涙。

「……レオン様のそばは……苦しかったんです。でも……離れても、苦しかった」

 その声は、壊れそうに小さい。

「それは……僕が、あなたを……好きだから……」

 レオンは一瞬、呼吸を忘れた。

「ユノ……」

 そっと手を伸ばす。
 触れる直前で止めた。

「触れても……いいか?」

 ユノは迷いながらも、小さく頷いた。

 許しではない。
 けれど、その仕草だけで胸が熱くなる。

 レオンはユノの細い指に、そっと触れた。
 温度が伝わる。

 ユノの手が、弱々しく握り返してきた。

 声にならない安堵が溢れ、レオンの目からも涙がこぼれた。



 数日後、ユノは保護局からレオンの屋敷に戻った。
 ただし、すぐ同じ部屋に戻ったわけではない。

「……しばらくは、距離を置きたいです。あなたの近くにいると、まだ胸が痛いから」

「分かった。望むならどれだけでも待つ」

 レオンは即答した。
 ユノは驚いたが、すぐに目を伏せた。

 レオンは毎日、ユノの体調管理を最優先にした。
 過剰な接触はしない。
 求めもしない。
 ただ、ユノが食べやすいものを用意したり、夜眠れないときは廊下で待機したり——ゆっくりと、信頼を積み重ねた。

 距離を保ちながらも、二人は少しずつ歩み寄っていった。

 ある夜。
 ユノの呼ぶ声がした。

「レオン様……今日だけは、そばにいてください」

 その一言に、胸が震えた。

 レオンはユノの手を取り、ゆっくり寄り添う。
 抱きしめるわけではない。
 ただ、隣に座り、温度を分け合うだけ。

 ユノの心臓の音が、徐々に穏やかになる。

「……怖くないか?」

「怖いです。でも……もう、逃げたくないんです」

 レオンはそっと微笑んだ。

「なら、俺も逃げない。ユノが望む形で、ずっと隣にいる」

 ユノは少しだけ肩を寄せた。
 その仕草は、確かな前進だった。



 季節がひとつ巡ったころ。
 ユノはレオンの隣に、自然に立つようになっていた。

 その夜、レオンは小さな箱を差し出す。

「……番になってほしい。義務じゃない。愛として、パートナーとして——ユノと生きたい」

 ユノは箱を開けた。
 そこには、あの日渡せなかった指輪。

「……レオン様」

 涙が一筋流れた。
 その涙は、もう恐怖のものではない。

 ユノは静かに微笑んだ。

「はい。……僕も、あなたと生きたい」

 レオンはそっとユノを抱きしめた。
 ようやく、触れられる温度。
 離さないと誓える温度。

 もう二度と手放さない。

 ——ユノが笑うたびに後悔する。
 もっと早く、気づけたはずなのに。

 けれど今は、こう思える。

 それでも、間に合った。

 レオンはユノの耳元で、初めて素直に告げた。

「愛してる。これからは、俺がお前を守る」

 ユノは小さく笑い、胸に頬を寄せた。

「……僕も、レオン様が好きです」

 白い月光が二人を照らす。

 過ちの先に、ようやく手にした——
 遅すぎた恋の、正しい形。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

創作BL短編集

さるやま
BL
短編まとめました。 美形×平凡、ヤンデレ、執着・溺愛攻め多め

モブなんかじゃ終わらない!?

MITARASI_
BL
気がつけばそこは、人気BLゲームの世界。 けれど与えられた役割は、攻略対象でも悪役でもない――ただのモブ。 本来なら物語の外でひっそりと生きていくはずだった。 だが、そんな彼の存在が、少しずつ“運命のルート”を揺さぶっていく。 選ばれないはずのモブが紡ぐ、新たな恋の物語。 ゲームの定めを超えて、彼が辿り着く未来とは――。

お腹いっぱい、召し上がれ

砂ねずみ
BL
 料理研究家でαの藤白蒼は幼なじみで10個下のΩ晃と番になった。そんな二人の間に産まれた照は元気いっぱいな男の子。泣いたり、笑ったり、家族の温かみを感じながら藤白家の日常が穏やかに進んでいく。    そんな愛する妻と愛する息子、大切な家族のお腹いっぱい喜ぶ顔が見たいから。蒼は今日も明日もその先も、キッチンに立って腕を振るう。  さあ、お腹いっぱい、召し上がれ。

上手に啼いて

紺色橙
BL
■聡は10歳の初めての発情期の際、大輝に噛まれ番となった。それ以来関係を継続しているが、愛ではなく都合と情で続いている現状はそろそろ終わりが見えていた。 ■注意*独自オメガバース設定。■『それは愛か本能か』と同じ世界設定です。関係は一切なし。

運命よりも先に、愛してしまった

AzureHaru
BL
幼馴染で番同士の受けと攻め。2人は運命の番ではなかったが、相思相愛だった。そんな時、攻めに運命の番が現れる。それを知った受けは身籠もっていたが、運命の番同士の子供の方が優秀な者が生まれることも知っており、身を引く事を決め姿を消す。 しかし、攻めと運命の番の相手にはそれぞれに別の愛する人がいる事をしり、 2人は運命の番としてではなく、友人として付き合っていけたらと話し合ってわかれた。 その後、攻めは受けが勘違いしていなくなってしまったことを両親達から聞かされるのであった。

生意気Ωは運命を信じない

羊野迷路
BL
小学生の時からかっていた同級生と、進学校(自称)である翠鳳高校で再会する。 再会した元同級生はαとなっており、美しさと男らしさを兼ね備えた極上の美形へと育っていた。 *のある話は背後注意かもしれません。 独自設定ありなので1話目のオメガバースの設定を読んでから進んでいただけると理解しやすいかと思います。 読むのが面倒という方は、 1、Ωは劣っているわけではない 2、αかΩかは2つの数値によりβから分かれる 3、Ωは高校生以上に発覚する事が多い この3つを覚えておくと、ここでは大体大丈夫だと思われます。 独自設定部分は少しいじる事があるかもしれませんが、楽しんで頂けると幸いです。 追記 受けと攻めがくっつくのはまだ先になりますので、まったりお待ちください。

流れる星、どうかお願い

ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる) オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年 高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼 そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ ”要が幸せになりますように” オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ 王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに! 一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが お付き合いください!

αとβじゃ番えない

庄野 一吹
BL
社交界を牽引する3つの家。2つの家の跡取り達は美しいαだが、残る1つの家の長男は悲しいほどに平凡だった。第二の性で分類されるこの世界で、平凡とはβであることを示す。 愛を囁く二人のαと、やめてほしい平凡の話。

処理中です...