後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香

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第三話 夜半の怪異


 それは、夜半を過ぎた頃だった。

 屋敷全体が眠りにつき、虫の声すら遠のいた静寂の中で、
 紗月はふと、目を覚ました。

(……寒い)

 理由もなく、背筋に冷たいものが走る。
 空気が、澱んでいた。

 巫女として培った感覚が、警鐘を鳴らしている。

(これは……)

 紗月は静かに身を起こし、護符と鈴を手に取った。
 障子の向こう、廊下の闇が、わずかに揺れている。

 ――来ている。

 しかも、昼間の影とは比べものにならないほど、濃い。

 紗月は音を立てぬよう廊下に出た。
 裸足の足裏に、冷気がまとわりつく。

 気配は、屋敷の奥――
 鍛錬場のある方角から漂ってきていた。

(あそこは……)

 人の血と、鬼の気が最も濃く残る場所。

 嫌な予感を抱えながら進むと、
 闇の中に、はっきりとした“何か”が見えた。

 黒く、歪な塊。
 人の形をしているが、頭部には角のような影がある。

 ――鬼の怪異。

 怨念と恐怖が絡まり合い、
 玄耀の“鬼の気”に引き寄せられて生まれたものだ。

「……やはり」

 小さく息を吐き、紗月は前に出た。

「ここは、人の住まう場所です」

 鈴を鳴らす。
 澄んだ音が、夜に広がる。

 だが――

 怪異は、消えなかった。

 むしろ、鈴の音に反応するように、ぐらりと体を揺らす。

(強い……)

 下級巫女の自分一人では、少し厳しい。

 それでも、退くわけにはいかなかった。

 祝詞を唱え、護符を投げる。
 紙が燃えるように光り、怪異の肩口を削った。

 しかし次の瞬間――
 怪異が、こちらを向いた。

 虚ろな目。
 そこに浮かぶのは、濃い憎悪。

「……っ!」

 伸びてきた影が、紗月の腕を掠めた。
 ぞわりと、肌が焼けるように痛む。

(まずい……)

 退こうとした、その時。

 地を踏み鳴らす音が響いた。

「――下がれ!」

 低く、鋭い声。

 次の瞬間、圧倒的な“力”が、夜気を切り裂いた。

 玄耀だった。

 黒衣を翻し、怪異と紗月の間に立つ。
 その背中から、濃密な気が立ち上る。

「……余計なものが」

 玄耀が一歩踏み出した瞬間、
 彼の影が、異様に膨れ上がった。

 ――角。

 影の中に、はっきりとした鬼の角が浮かび上がる。

 怪異が、悲鳴のような音を立てて後ずさった。

「消えろ」

 ただ、それだけ。

 玄耀が手を振ると、
 怪異は抵抗する間もなく、闇に引き裂かれた。

 音もなく、跡形もなく。

 ただ、冷たい風だけが残る。

 しばしの沈黙。

 玄耀の背中から、鬼の気がゆっくりと引いていく。

「……怪我は」

 振り返らずに、彼は言った。

「腕を、少し……」

 紗月の声に、わずかに苛立ちが混じる。

「だから言っただろう。怪異は、俺が処理すると」

「ですが……」

 言いかけて、紗月は言葉を止めた。

 玄耀が、拳を強く握っていたからだ。

「……お前が傷つく必要はない」

 低く、抑えた声。

 そこには、明確な感情があった。

 怒り。――そして、自責。

 玄耀はゆっくりと振り返り、紗月の腕を見る。

「見せろ」

 有無を言わせぬ口調。

 紗月が袖を捲ると、
 赤黒い痕が、皮膚に浮かんでいた。

 玄耀の眉が、僅かに寄る。

「……すまない」

 また、謝罪だった。

「俺の気が、怪異を呼ぶ」

「それでも」

 紗月は、静かに言った。

「私は、ここに来たのです」

 玄耀の視線が、紗月に向けられる。

「あなたの傍にいるために」

 その言葉に、玄耀は一瞬、言葉を失った。

 やがて、深く息を吐く。

「……厄介な妻だ」

 だが、その声は、どこか柔らかかった。



 その後、紗月の傷は玄耀の部屋で手当てされた。

 彼の指先は大きく、武骨だが、
 驚くほど慎重だった。

「……鬼の力は、制御できているのですか」

 紗月が尋ねると、玄耀は手を止めた。

「完全ではない」

 正直な答え。

「油断すれば、飲まれる」

「それでも、あなたは戦っている」

 玄耀は、紗月を見た。

「……怖くはないのか」

 再びの問い。

 紗月は、少し考えてから答える。

「怖いです。でも――」

 視線を逸らさず、続けた。

「あなたは、鬼である前に、人です」

 玄耀の目が、僅かに見開かれる。

「人として、誰よりも理を守っている」

 沈黙。

 やがて、玄耀は視線を伏せた。

「……もう、休め」

 そう言って、そっと包帯を巻く。

「今夜は、俺が見張る」

 その言葉に、胸の奥が温かくなった。

 契約婚。
 政の命。

 それでも――

 鬼将軍の傍は、紗月にとって、
 少しずつ、“居場所”になり始めていた。




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