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第一章 泣く灯籠
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後宮の夜は、昼よりも饒舌だ。
昼の後宮を満たすのは、絹の衣擦れと、選ばれた者の微笑である。
誰もが己の立場を理解し、与えられた役を演じている。
そこに、余計な言葉は要らない。
だが夜になると、様相は一変する。
日中、胸の奥に押し込められていた感情が、闇に溶け出すのだ。
妬み。
恐れ。
叶わなかった願い。
それらは声を持たず、形も持たない。
それでも確かに存在し、後宮の回廊を満たしていく。
――そして鈴華は、それを聞いてしまう。
聞こえなかったふりが、できない女だった。
文書庫からの帰り、鈴華は回廊の角で足を止めた。
吊された灯籠の下に立つと、胸の奥がひやりと冷える。
風はない。
火も、揺れていない。
それなのに。
――……帰りたい。
――……寒い。
――……どうして、わたしだけ。
耳ではなく、心の奥に直接落ちてくる声。
人のものではない。
だが、人からあまりにも遠いわけでもない。
鈴華は、そっと灯籠を見上げた。
「……白燈」
名を呼ぶと、灯籠の火が一瞬、淡く白く滲んだ。
《鈴華か》
くぐもった声が、思考の縁を撫でるように響く。
灯籠に宿るあやかし――白燈。
後宮が築かれるよりも前から、ここに在るものだと、自ら語る存在。
《また一人、消えた》
鈴華は、息を詰めた。
「……妃、ですか」
《ああ》
白燈の声は、淡々としている。
だがそこには、長い時間だけが持つ疲労が滲んでいた。
《今宵は、悲しみの色が濃い》
白燈は、人の感情を“色”として捉える。
怒りは赤く、嫉妬は濁り、悲嘆は夜露のように青い。
鈴華には、その色は見えない。
ただ、声だけが届く。
「誰の……悲しみですか」
《後宮すべてだ》
灯籠の火が、わずかに揺れる。
《だが――特に、強いものがある》
白燈が言い終えるより早く、足音が響いた。
規則正しく、無駄のない歩幅。
後宮の夜を歩く者のそれではない。
鈴華は、背筋を正した。
「……人が来ます」
《あまり好まぬ》
白燈の声と同時に、灯籠の火は元の色に戻った。
鈴華は一礼し、何事もなかったかのように歩き出す。
「止まれ」
低く、冷えた声が背後から飛んだ。
鈴華は立ち止まり、定められた所作で頭を下げる。
「下級女官、鈴華にございます」
闇から現れた男は、黒衣の宦官だった。
背筋は伸び、表情に余計な感情がない。
凌玄。
後宮監察を担う男。
彼の視線は、鈴華を値踏みするように留めたまま、動かない。
「文書庫係が、この時間に何をしている」
「宰相府より返却された記録を戻しておりました」
事実だけを告げる。
嘘ではない。
だが、真実のすべてでもない。
凌玄は、わずかに目を細めた。
「……泣き声を聞いたか」
胸の奥で、心臓が一度、強く跳ねた。
「いいえ」
即答だった。
鈴華は知っている。
聞こえる者であることは、罪になる。
「後宮で、妃が一人消えた」
凌玄は、淡々と告げた。
「当番記録に不自然な空白がある。怪異の可能性も、否定できぬ」
“怪異”という言葉に、鈴華の指先がかすかに震えた。
「妙な噂を聞いたなら、報告しろ」
凌玄は、鈴華を見据えたまま言う。
「……あやかしなどという戯言ではなく、人の罪としてな」
その言葉は、刃のように鋭かった。
鈴華は、何も答えられなかった。
凌玄は、それ以上追究せず、彼女の横を通り過ぎる。
足音が遠ざかるのを、鈴華はじっと待った。
完全に気配が消えた後、白燈の声が戻る。
《相変わらずだな、あの男》
「……ご存じなのですか」
《人は忘れる》
白燈は、静かに言った。
《だが我らは、忘れぬ》
鈴華は、灯籠を見つめた。
《あれは、あやかしを信じた結果、大切なものを失った男だ》
胸の奥が、ざわりと揺れる。
「……妃は、どうなったのですか」
《生きている》
白燈は、迷いなく答えた。
《だが、人に追い詰められ、ここから逃げた》
「人が……?」
《あやかしの仕業にした方が、都合の良い者がいる》
鈴華は、唇を噛んだ。
その構図を、彼女は知っている。
――母も、そうだった。
怪異に憑かれたとされ、弁明も許されず、処刑された。
だが、白燈は言っていた。
《あの女は、誰よりも清かった》
「……後宮に棲むのは」
鈴華は、灯籠を見つめたまま、呟いた。
「人なのでしょうか。それとも、あやかしなのでしょうか」
《さてな》
白燈の声は、どこか哀しげだった。
《その答えを知りたいなら――この後宮を、最後まで見届けることだ》
鈴華は、静かに頷いた。
夜は、まだ深い。
泣く灯籠は、今宵も真実を照らし続けている。
それを、誰が信じるか。
それだけが、問題だった。
⸻
第一章・了
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昼の後宮を満たすのは、絹の衣擦れと、選ばれた者の微笑である。
誰もが己の立場を理解し、与えられた役を演じている。
そこに、余計な言葉は要らない。
だが夜になると、様相は一変する。
日中、胸の奥に押し込められていた感情が、闇に溶け出すのだ。
妬み。
恐れ。
叶わなかった願い。
それらは声を持たず、形も持たない。
それでも確かに存在し、後宮の回廊を満たしていく。
――そして鈴華は、それを聞いてしまう。
聞こえなかったふりが、できない女だった。
文書庫からの帰り、鈴華は回廊の角で足を止めた。
吊された灯籠の下に立つと、胸の奥がひやりと冷える。
風はない。
火も、揺れていない。
それなのに。
――……帰りたい。
――……寒い。
――……どうして、わたしだけ。
耳ではなく、心の奥に直接落ちてくる声。
人のものではない。
だが、人からあまりにも遠いわけでもない。
鈴華は、そっと灯籠を見上げた。
「……白燈」
名を呼ぶと、灯籠の火が一瞬、淡く白く滲んだ。
《鈴華か》
くぐもった声が、思考の縁を撫でるように響く。
灯籠に宿るあやかし――白燈。
後宮が築かれるよりも前から、ここに在るものだと、自ら語る存在。
《また一人、消えた》
鈴華は、息を詰めた。
「……妃、ですか」
《ああ》
白燈の声は、淡々としている。
だがそこには、長い時間だけが持つ疲労が滲んでいた。
《今宵は、悲しみの色が濃い》
白燈は、人の感情を“色”として捉える。
怒りは赤く、嫉妬は濁り、悲嘆は夜露のように青い。
鈴華には、その色は見えない。
ただ、声だけが届く。
「誰の……悲しみですか」
《後宮すべてだ》
灯籠の火が、わずかに揺れる。
《だが――特に、強いものがある》
白燈が言い終えるより早く、足音が響いた。
規則正しく、無駄のない歩幅。
後宮の夜を歩く者のそれではない。
鈴華は、背筋を正した。
「……人が来ます」
《あまり好まぬ》
白燈の声と同時に、灯籠の火は元の色に戻った。
鈴華は一礼し、何事もなかったかのように歩き出す。
「止まれ」
低く、冷えた声が背後から飛んだ。
鈴華は立ち止まり、定められた所作で頭を下げる。
「下級女官、鈴華にございます」
闇から現れた男は、黒衣の宦官だった。
背筋は伸び、表情に余計な感情がない。
凌玄。
後宮監察を担う男。
彼の視線は、鈴華を値踏みするように留めたまま、動かない。
「文書庫係が、この時間に何をしている」
「宰相府より返却された記録を戻しておりました」
事実だけを告げる。
嘘ではない。
だが、真実のすべてでもない。
凌玄は、わずかに目を細めた。
「……泣き声を聞いたか」
胸の奥で、心臓が一度、強く跳ねた。
「いいえ」
即答だった。
鈴華は知っている。
聞こえる者であることは、罪になる。
「後宮で、妃が一人消えた」
凌玄は、淡々と告げた。
「当番記録に不自然な空白がある。怪異の可能性も、否定できぬ」
“怪異”という言葉に、鈴華の指先がかすかに震えた。
「妙な噂を聞いたなら、報告しろ」
凌玄は、鈴華を見据えたまま言う。
「……あやかしなどという戯言ではなく、人の罪としてな」
その言葉は、刃のように鋭かった。
鈴華は、何も答えられなかった。
凌玄は、それ以上追究せず、彼女の横を通り過ぎる。
足音が遠ざかるのを、鈴華はじっと待った。
完全に気配が消えた後、白燈の声が戻る。
《相変わらずだな、あの男》
「……ご存じなのですか」
《人は忘れる》
白燈は、静かに言った。
《だが我らは、忘れぬ》
鈴華は、灯籠を見つめた。
《あれは、あやかしを信じた結果、大切なものを失った男だ》
胸の奥が、ざわりと揺れる。
「……妃は、どうなったのですか」
《生きている》
白燈は、迷いなく答えた。
《だが、人に追い詰められ、ここから逃げた》
「人が……?」
《あやかしの仕業にした方が、都合の良い者がいる》
鈴華は、唇を噛んだ。
その構図を、彼女は知っている。
――母も、そうだった。
怪異に憑かれたとされ、弁明も許されず、処刑された。
だが、白燈は言っていた。
《あの女は、誰よりも清かった》
「……後宮に棲むのは」
鈴華は、灯籠を見つめたまま、呟いた。
「人なのでしょうか。それとも、あやかしなのでしょうか」
《さてな》
白燈の声は、どこか哀しげだった。
《その答えを知りたいなら――この後宮を、最後まで見届けることだ》
鈴華は、静かに頷いた。
夜は、まだ深い。
泣く灯籠は、今宵も真実を照らし続けている。
それを、誰が信じるか。
それだけが、問題だった。
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第一章・了
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