後宮に棲むは、人か、あやかしか

由香

文字の大きさ
2 / 5

第二章 鏡に映る妃

しおりを挟む
 後宮の朝は、香の匂いから始まる。

 白檀、沈香、麝香。
 それぞれの宮が、それぞれの立場と欲を焚きしめ、空気に混ぜる。
 香は、己の存在を誇示するためのものだ。

 鈴華は、帳簿を胸に抱えながら、瑠璃宮の門をくぐった。

 ここは、今もっとも勢いのある妃――
 淑妃の宮である。

「下級女官が、なぜここに?」

 鋭い声が飛んだ。

 声の主は、瑠璃宮付きの上級女官だった。
 衣の重ねも、歩き方も、下の者を見下ろすことに慣れている。

「文書庫より、調度品点検の記録を」

 鈴華が頭を下げると、女官は鼻で笑った。

「……ああ、例の“怪異”絡み?」

 その言葉の端に、隠しきれぬ興味が滲む。

「慧妃様の件でしょう」

 消えた妃――慧妃。
 その名は、すでに後宮の隅々まで行き渡っていた。

「鏡に魅入られていたそうよ」

 女官は、楽しげに続ける。

「夜ごと鏡に話しかけ、誰もいないのに微笑んでいたとか」

 鈴華の背筋を、冷たいものが走った。

「……鏡、ですか」

「ええ。だからきっと、あやかしに連れていかれたのよ」

 その声色には、安堵があった。
 ――人の仕業でなければ、責任を問われない。

 鈴華は、それ以上何も言わず、宮の奥へ進んだ。

 慧妃が使っていたという部屋は、驚くほど整えられていた。

 争いの痕も、取り乱した形跡もない。
 まるで、最初から“いなかった”かのようだ。

 ただ一つ。
 鏡台だけが、妙に存在感を放っていた。

 磨き上げられた青銅鏡。
 覗き込むと、自分の顔が映る。

 ――だが。

 鈴華は、無意識に眉を顰めた。

 映っているはずの自分の輪郭が、
 どこか歪んで見える。

《触るな》

 白燈の声が、低く落ちる。

《これは……人の欲を映す鏡だ》

「欲を……?」

《正確には、“欲を増幅する”》

 鈴華は、伸ばしかけた手を引っ込めた。

《寂しさも、恐れも、いずれは執着に変わる》

《そして、人はそれを――“救い”と呼ぶ》

 そのとき、背後で足音がした。

「やはり、ここにいたか」

 振り返ると、凌玄が立っていた。

 昼の光の下でも、その表情は変わらない。
 冷静で、感情の起伏を許さない顔。

「この鏡に、異常はあるか」

 問いは、鈴華に向けられていた。

「……分かりません」

 嘘ではない。
 だが、すべてを言ったわけでもない。

 凌玄は、鏡を見つめ、短く息を吐いた。

「慧妃は、皇帝の寵を失いかけていた」

 鈴華は、黙って聞く。

「淑妃が台頭し、味方は減り、視線は射すようになった」

 凌玄の声には、評価も同情もなかった。
 ただの事実だ。

「逃げ場のない女が、何に縋ると思う」

 鈴華は、答えられなかった。

「鏡だ」

 凌玄は、言い切る。

「自分だけを映し、肯定してくれるもの」

 その言葉と同時に、鏡の奥で、影が一瞬、揺れた。

《人の言葉は、時にあやかしより残酷だ》

 白燈の声が、静かに響く。

 凌玄は、不意に鈴華を見た。

「お前は、慧妃が生きていると思うか」

 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

「……生きていてほしい、と」

 願いだけを、口にした。

 凌玄は、目を伏せ、しばし黙した。

「……願いは、証拠にならない」

「はい」

「だが」

 彼は、一歩、鏡に近づいた。

「この鏡は、怪異ではない」

 鈴華は、思わず口を開いた。

「人の心を歪めるものは、あやかしと何が違うのでしょう」

 凌玄の視線が、鋭く突き刺さる。

「違う」

 即答だった。

「責任の所在だ」

 言葉は、硬い。

「人の罪は、人が背負うべきだ」

 その瞬間、鏡が、きぃ、と微かな音を立てた。

《……違わぬ》

 白燈が、低く呟く。

《だが、背負えぬ者もいる》

 鏡面に、女の顔が浮かび上がった。

 青ざめ、怯え、必死に助けを求める目。

「……慧妃様」

 鈴華は、息を呑んだ。

 凌玄も、さすがに表情を変えた。

 だが次の瞬間、鏡像は歪み、消え去った。

 静寂。

「……幻だ」

 凌玄は、そう言った。

 だが、その声は、わずかに揺れていた。

《彼女は、生きている》

 白燈の声が、鈴華の胸に落ちる。

《だが、この後宮に戻る場所は、もうない》

 鈴華は、拳を握りしめた。

 鏡は、人の欲を映す。
 そして欲は――
 人を、あやかしに近づける。

 瑠璃宮を出るとき、鈴華は振り返らなかった。

 背後で、鏡は何も語らない。

 だが、彼女は知っていた。

 この後宮には、映してはならぬ真実が、まだ幾つも眠っていることを。



第二章・了






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

雪嶺後宮と、狼王の花嫁

由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。 巫女として献上された少女セツナは、 封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。 人と妖、政と信仰の狭間で、 彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。 雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。

冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件

水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」 結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。 出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。 愛を期待されないのなら、失望させることもない。 契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。 ただ「役に立ちたい」という一心だった。 ――その瞬間。 冷酷騎士の情緒が崩壊した。 「君は、自分の価値を分かっていない」 開始一分で愛さない宣言は撤回。 無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。 以後、 寝室は強制統合 常時抱っこ移動 一秒ごとに更新される溺愛 妻を傷つける者には容赦なし宣言 甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。 さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――? 自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。 溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ

お飾りの王短編集

由香
ファンタジー
「お飾りの王」をテーマにした短編集です。 それぞれ一話完結。

悪役令嬢短編集

由香
恋愛
更新週3投稿の午後10時。(月・水・金) 12/24 一時更新停止 悪役令嬢をテーマにした短編集です。 それぞれ一話完結。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

年下幼馴染皇太子が溺愛してくる

由香
恋愛
平民薬師アリアと幼馴染の少年・レオン。 再会した彼は、幼い頃の泣き虫ではなく、世界で最も強く、甘く独占欲に満ちた皇太子になっていた。 「アリア、もう離さない」――身分差を超えた初恋が、宮廷で激しく、甘く、そして切なく燃え上がる。 逃げても逃げられない、溺愛ラブストーリー。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

処理中です...