『後宮に棲むは、人か、あやかしか』

由香

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第二章 鏡に映る妃

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 後宮の朝は、香の匂いから始まる。

 白檀、沈香、麝香。
 それぞれの宮が、それぞれの立場と欲を焚きしめ、空気に混ぜる。
 香は、己の存在を誇示するためのものだ。

 鈴華は、帳簿を胸に抱えながら、瑠璃宮の門をくぐった。

 ここは、今もっとも勢いのある妃――
 淑妃の宮である。

「下級女官が、なぜここに?」

 鋭い声が飛んだ。

 声の主は、瑠璃宮付きの上級女官だった。
 衣の重ねも、歩き方も、下の者を見下ろすことに慣れている。

「文書庫より、調度品点検の記録を」

 鈴華が頭を下げると、女官は鼻で笑った。

「……ああ、例の“怪異”絡み?」

 その言葉の端に、隠しきれぬ興味が滲む。

「慧妃様の件でしょう」

 消えた妃――慧妃。
 その名は、すでに後宮の隅々まで行き渡っていた。

「鏡に魅入られていたそうよ」

 女官は、楽しげに続ける。

「夜ごと鏡に話しかけ、誰もいないのに微笑んでいたとか」

 鈴華の背筋を、冷たいものが走った。

「……鏡、ですか」

「ええ。だからきっと、あやかしに連れていかれたのよ」

 その声色には、安堵があった。
 ――人の仕業でなければ、責任を問われない。

 鈴華は、それ以上何も言わず、宮の奥へ進んだ。

 慧妃が使っていたという部屋は、驚くほど整えられていた。

 争いの痕も、取り乱した形跡もない。
 まるで、最初から“いなかった”かのようだ。

 ただ一つ。
 鏡台だけが、妙に存在感を放っていた。

 磨き上げられた青銅鏡。
 覗き込むと、自分の顔が映る。

 ――だが。

 鈴華は、無意識に眉を顰めた。

 映っているはずの自分の輪郭が、
 どこか歪んで見える。

《触るな》

 白燈の声が、低く落ちる。

《これは……人の欲を映す鏡だ》

「欲を……?」

《正確には、“欲を増幅する”》

 鈴華は、伸ばしかけた手を引っ込めた。

《寂しさも、恐れも、いずれは執着に変わる》

《そして、人はそれを――“救い”と呼ぶ》

 そのとき、背後で足音がした。

「やはり、ここにいたか」

 振り返ると、凌玄が立っていた。

 昼の光の下でも、その表情は変わらない。
 冷静で、感情の起伏を許さない顔。

「この鏡に、異常はあるか」

 問いは、鈴華に向けられていた。

「……分かりません」

 嘘ではない。
 だが、すべてを言ったわけでもない。

 凌玄は、鏡を見つめ、短く息を吐いた。

「慧妃は、皇帝の寵を失いかけていた」

 鈴華は、黙って聞く。

「淑妃が台頭し、味方は減り、視線は射すようになった」

 凌玄の声には、評価も同情もなかった。
 ただの事実だ。

「逃げ場のない女が、何に縋ると思う」

 鈴華は、答えられなかった。

「鏡だ」

 凌玄は、言い切る。

「自分だけを映し、肯定してくれるもの」

 その言葉と同時に、鏡の奥で、影が一瞬、揺れた。

《人の言葉は、時にあやかしより残酷だ》

 白燈の声が、静かに響く。

 凌玄は、不意に鈴華を見た。

「お前は、慧妃が生きていると思うか」

 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

「……生きていてほしい、と」

 願いだけを、口にした。

 凌玄は、目を伏せ、しばし黙した。

「……願いは、証拠にならない」

「はい」

「だが」

 彼は、一歩、鏡に近づいた。

「この鏡は、怪異ではない」

 鈴華は、思わず口を開いた。

「人の心を歪めるものは、あやかしと何が違うのでしょう」

 凌玄の視線が、鋭く突き刺さる。

「違う」

 即答だった。

「責任の所在だ」

 言葉は、硬い。

「人の罪は、人が背負うべきだ」

 その瞬間、鏡が、きぃ、と微かな音を立てた。

《……違わぬ》

 白燈が、低く呟く。

《だが、背負えぬ者もいる》

 鏡面に、女の顔が浮かび上がった。

 青ざめ、怯え、必死に助けを求める目。

「……慧妃様」

 鈴華は、息を呑んだ。

 凌玄も、さすがに表情を変えた。

 だが次の瞬間、鏡像は歪み、消え去った。

 静寂。

「……幻だ」

 凌玄は、そう言った。

 だが、その声は、わずかに揺れていた。

《彼女は、生きている》

 白燈の声が、鈴華の胸に落ちる。

《だが、この後宮に戻る場所は、もうない》

 鈴華は、拳を握りしめた。

 鏡は、人の欲を映す。
 そして欲は――
 人を、あやかしに近づける。

 瑠璃宮を出るとき、鈴華は振り返らなかった。

 背後で、鏡は何も語らない。

 だが、彼女は知っていた。

 この後宮には、映してはならぬ真実が、まだ幾つも眠っていることを。



第二章・了






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