嫌われ令嬢ですが、最終的に溺愛される予定です

由香

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番外編③ 扉の向こうに行く前で

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 夜が来るのが、少しだけ怖い。

 結婚してから、そんな感情を抱くとは思っていなかった。

 エマは寝室の前で、そっと深呼吸をした。
 扉の向こうには、いつもと変わらない部屋があるだけ。
 けれど――そこに立つ人が、変わった。

「……どうした」

 背後から、低い声。

 振り返ると、レオンが立っていた。
 外套を脱ぎ、いつものように落ち着いた表情。
 なのに、視線だけが、いつもより深い。

「いえ……その……」

 言葉に詰まる。

 怖いわけではない。
 不安とも、少し違う。

 ただ――意識してしまう。

 自分が、彼の妻であることを。

「……緊張しているのか」

 見抜かれて、頷くしかなかった。

「……はい」

 正直に答えると、レオンは一瞬だけ目を伏せた。

「俺もだ」

 意外な言葉に、エマは目を瞬かせる。

「レオン様が……?」

「当然だろう」

 近づいてくる足音が、やけに大きく聞こえる。

「大切すぎる」

 それだけ、短く言われた。

 胸が、ぎゅっと締め付けられる。

 彼は、そっとエマの手を取った。
 指先が触れ合うだけで、微かに震える。

「……触れても、いいか」

 今さら、許可を求められるとは思わなかった。

「……はい」

 そう答えると、彼の手はゆっくりと腰に回された。
 抱き寄せる動作は慎重で、確かめるよう。

 力は強くない。
 けれど、逃がさない意思だけは、はっきり伝わる。

「……近いですね」

「嫌か」

「……いいえ」

 そう言った瞬間、腕の力が、ほんの少しだけ強まった。

 額が触れるほどの距離。

 視線が合う。

 近すぎて、どこを見ればいいのかわからない。

「……エマ」

 名前を呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。

「君は、まだ……自分がどれだけ大切にされているか、理解していない」

 低く、静かな声。

「……十分、伝わっています」

「足りない」

 即答だった。

「足りないから……こうして、言葉にする」

 額に、そっと口づけられる。

 一瞬の接触。
 けれど、そこに込められた感情が、重い。

「……嫌われている、などと思っていた頃が、信じられない」

 耳元で、囁かれる。

「今なら、はっきり言える」

 少し間を置いて、続く。

「君が、離れていくほうが……ずっと、怖い」

 胸の奥が、熱くなる。

「……私も」

 エマは、勇気を出して言った。

「今でも、夢のようで……目が覚めたら、すべて勘違いだったらどうしよう、と」

 一瞬、レオンの動きが止まった。

 次の瞬間、強く抱きしめられる。

「それは、許さない」

 低い声が、はっきりと告げる。

「君は、俺の妻だ」

 その言葉に、体の力が抜けた。

「……逃げ場は、ありませんね」

 小さく冗談めかすと、彼は息を吐くように笑った。

「最初から、与えるつもりはない」

 頬に、唇が触れる。
 ゆっくりと、確かめるように。

「……レオン様」

「なんだ」

「……扉の前で、こんなふうにされると……」

「意識するか」

「……はい」

 正直に答えると、彼は少しだけ目を細めた。

「それでいい」

 今度は、こめかみ。

 次に、耳元。

 触れるたびに、距離が縮まっていく。

 けれど、それ以上は越えない。

 ――まだ。

「……今夜は」

 レオンが、珍しく言い淀んだ。

「……無理は、しない」

 その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。

「君が、不安になることは……何もしない」

「……ありがとうございます」

「礼を言うことではない」

 そう言って、額を合わせたまま、囁く。

「ただ……こうして、抱きしめるくらいは、許してほしい」

 その距離で、拒めるはずがなかった。

「……はい」

 腕を回すと、彼は一瞬、驚いたように息を吸った。

「……エマ」

「……私も、触れていたいです」

 それだけで、十分だった。

 扉の向こうに行かなくても、
 夜が始まらなくても。

 この距離、この温度、この鼓動。

 それだけで、心は満たされている。

 しばらくして、レオンは名残惜しそうに腕を緩めた。

「……続きは」

「……続き、ですか」

「夜に」

 短く、それだけ。

 エマは、静かに頷いた。

「……はい」

 扉が開く。

 けれど、その前に。

「エマ」

 呼び止められ、振り返る。

「……嫌われていたと思っていた時間の分まで」

 まっすぐな視線。

「大切にする」

 それは、約束だった。

 夜は、これから。
 けれど、もう怖くない。

 ――嫌われ令嬢だった私の物語は。

 この扉の前でさえ、こんなにも甘いのだから。




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