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第一話 一夜の過ち
しおりを挟む瑞華帝国の宮廷は、今宵、眩しいほどに華やいでいた。
金の燭台が無数に灯され、翡翠の杯には香り高い酒が満たされている。
今日は――
皇帝即位三年の祝宴。
文武百官、貴族令嬢、後宮候補、すべてが集められていた。
だがその華やぎの裏で、宮廷はいつも通り冷たい。
毒。
陰謀。
権力争い。
ここでは人の命さえ、駒に過ぎない。
その宴の片隅で。
「柳月鈴、酒を注ぎなさい」
冷たい声が落ちた。
振り返ると、豪奢な衣を纏った令嬢たちが笑っている。
月鈴は小さく頭を下げた。
「申し訳ありません。私は医官見習いなので――」
言い終わる前に、杯が差し出される。
「なら、毒見くらいできるでしょう?」
くすくすと笑いが起きる。
貴族令嬢たちの中心にいるのは、蘇麗華。
瑞華帝国でも指折りの名門、蘇家の娘。
そして、皇后最有力候補。
麗華は月鈴を見下ろした。
「没落令嬢が宮廷医官なんて、ずいぶん身の程知らずね」
月鈴は黙っていた。
反論しても意味がない。
柳家はかつて名門だったが、十年前に没落した。
今の自分はただの医官見習い。
宮廷では最下層だ。
麗華は酒杯を押しつける。
「飲みなさい」
「……」
断れば騒ぎになる。
月鈴は静かに杯を受け取った。
酒は強い。
喉が焼ける。
だが令嬢たちは止めない。
「もう一杯」
「ほら」
気づけば三杯、四杯。
視界が揺れ始める。
「顔が赤いわ」
「酔ったの?」
笑い声。
月鈴は深く頭を下げた。
「失礼します……」
ふらつく足で宴を離れる。
宮殿の回廊は静かだった。
遠くから楽の音だけが聞こえる。
月鈴は壁に手をついた。
「……酔った」
医官なのに情けない。
だが、あの場にいればもっと飲まされる。
外の空気を吸おう。
そう思い、庭園へ出た。
夜風が頬を撫でる。
月明かりが池を照らしていた。
月鈴はほっと息を吐く。
「少し……落ち着いた」
その時だった。
「月鈴?」
低い声。
振り返る。
そこに立っていたのは――
黒い龍紋の衣。
長い黒髪。
鋭い瞳。
皇帝 李景珩。
月鈴は息を呑んだ。
「……陛下」
幼なじみ。
だが、今は遠すぎる存在。
景珩も驚いていた。
「どうしてここに」
「その……宴で少し」
言葉がうまく出ない。
酒のせいだろうか。
景珩は眉をひそめる。
「酒か」
近づく。
その距離に、月鈴の胸がざわめいた。
昔と同じ顔。
だが、雰囲気が違う。
今の彼は、皇帝。
瑞華帝国の支配者だ。
月鈴は視線を落とした。
「ご迷惑でしたら、すぐに」
立ち去ろうとする。
しかし、腕を掴まれた。
「待て」
驚いて顔を上げる。
景珩の瞳は、昔と同じだった。
深くて、優しい。
それが余計に苦しい。
月鈴は思わず言ってしまった。
「……どうして」
景珩がわずかに目を細める。
「何がだ」
「どうして」
月鈴の声は震えていた。
「どうして私を避けたんですか」
沈黙。
風が木々を揺らす。
月鈴は続けた。
「昔は……いつも一緒だったのに」
幼い頃。
二人はよく遊んだ。
庭で薬草を探したり。
本を読んだり。
景珩はいつも月鈴の隣にいた。
けれど、彼が皇太子になった頃から。
突然、距離を置かれた。
会っても視線を逸らされる。
言葉も交わさない。
月鈴はずっと思っていた。
嫌われたのだと。
月鈴の視界が揺れる。
酒のせいか。
涙のせいか。
「私……」
言葉がこぼれた。
「ずっと寂しかった」
景珩の手が強くなる。
だが彼は何も言わない。
言えないのだ。
理由を。
宮廷は危険だ。
皇位争い。
暗殺。
毒。
皇太子だった彼の周りには敵が多かった。
月鈴を巻き込みたくなかった。
だから距離を置いた。
それだけだ。
だが、それを今、言うべきなのか。
迷う。
その一瞬の沈黙が、月鈴の心を刺した。
「やっぱり……」
笑おうとする。
「迷惑ですよね」
景珩の理性が揺らぐ。
月鈴は続けた。
「私はもう子供じゃないので」
「わかってます」
「皇帝陛下にとって私は」
そこまで言って、言葉が途切れた。
景珩が引き寄せたからだ。
「……月鈴」
低い声。
近い。
近すぎる。
月鈴の心臓が跳ねる。
「陛下?」
景珩は目を閉じた。
長年抑えてきた想い。
今、目の前にいる。
酔った顔で。
涙を浮かべて。
寂しいと言う。
そんな顔を見せられて。
耐えられる男などいない。
「月鈴」
名前を呼ぶ。
それだけで。
何かが壊れた。
その夜。
二人は――
一夜を共にした。
◇
朝。
月鈴は目を覚ました。
天井を見て。
凍りつく。
「……え?」
横を見る。
そこには、皇帝。
李景珩。
昨夜の記憶が一気に蘇る。
月鈴の顔が真っ青になった。
「うそ……」
ありえない。
皇帝と。
一夜を。
月鈴は慌てて起き上がる。
衣を整える。
その気配で景珩が目を開けた。
「月鈴」
その声に、月鈴はびくりとする。
「申し訳ありません!」
勢いよく頭を下げる。
「すべて忘れてください!」
景珩が眉を寄せる。
「忘れる?」
「昨夜は酒のせいです!」
「……」
「私の不注意です」
月鈴は震えていた。
皇帝と関係を持つなど。
普通なら死罪だ。
だが景珩は静かだった。
「月鈴」
しかし、月鈴は首を振る。
「大丈夫です」
無理に笑う。
「本当に」
「ただの」
一瞬の沈黙。
「一夜の過ちですから」
その言葉。
景珩の目が揺れた。
だが、月鈴はもう背を向けていた。
「失礼します」
逃げるように部屋を出る。
廊下を走る。
心臓が痛い。
泣きそうになる。
「……ばか」
自分が、どうしてあんなことを。
あの人は皇帝なのに。
月鈴は消えていく背中。
その後ろ姿を、景珩は黙って見ていた。
やがて。
小さく呟く。
「……遅い」
窓の外に朝日が昇る。
景珩の瞳は静かだった。
「月鈴」
低く。
確信の声で。
「もう逃がさない」
なぜなら、彼は知っている。
昨夜がただの過ちではないことを。
そして。
まだ誰も知らない。
この夜が、瑞華帝国の運命を変えることを。
そして――
月鈴が、皇帝の子を宿すことになることを。
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