王女への献上品と、その調教師

華山富士鷹

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天国の島

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 ザァー
 ザァー
 ザァー
 ザァー

 穏やかだ。
 目を閉じていても感じる強い日差しに、波風が心地良い。
 いつの間にか手首の拘束が解けている。
「……」
 目を開けるとそこは優しい波が寄せては返す波打ち際で、少し先に波で侵食された洞窟とお花畑が見える。
 そうか。

 どうやら私は死んだらしい。

 そう思うのに、どこかホッとしている自分がいる。悪い出来事の全てから解放された様な解放感。安堵した。
「でもあんなに人を殺したのに、私は地獄行きじゃないんだ」
 胸に咎が無い訳じゃ無かった。自分みたいな者が身投げでこんな所に行き着いて良かったのかとも思う。
 だってここは天国なんじゃないだろうか?
 トンネル(洞窟)にお花畑は天国の象徴では?
「……」
 よく解らないが、ここが何処でもいい。
 私は暫く何も考えず波打ち際に寝転がっていた。

 どのくらい経っただろう、寒くて意識が遠のく中、目を開けると、こちらを覗き込む幼女のつぶらな瞳と目が合った。
 私はどうしてか咄嗟に、その子が死産になった自分の子供だと思った。
 だってここはあの世だから、亡くなった我が子に会えても不思議はない。
 私はガバっと飛び起きてその子を力強く抱き締めていた。
「あっ……あっ……」
 名前を付ける前だったから名前が出てこない。
「うっうっ……」
 でもどっちにしろ私は嗚咽しか出せなかった。
「ごめっ……んね、ごめ……ん……ね」
 温かい。
 子供の体温はこんなにも温かくて優しい。それに柔らかくてフワフワしてる。万里の小さい頃を思い出す。万里も昔はそうだった。男の子だからもう少し骨感はあったけれど、大まかなところは同じ。
 探したら万里にも会えるだろうか?
 万里は思いやりがあって純粋無垢な子だったから、きっとこの天国にいる。
 万里にも会いたい。
「万……」
「おい」
 若い男の声がしたが、万里のものじゃない。
「……里?」
 それが誰なのか確認する前に私の意識は事切れた。
 凍える程寒い。
 おかしいな、天国ってこんなに寒いのか──
 寒くて眠くて、体が宙に浮く感覚があった。

「──ぉぃ」

「──ぉぃ」
 遠くの方でさっきの男の声がする。
「──ぉぃ」
 ぶっきらぼうで春臣みたいな口調でいて春臣ではない。もっと若くて生意気そうなアルトとテノールの狭間みたいな声。かといって氷朱鷺とも違う。氷朱鷺は見た目通りの清涼感ある声をしている。
 とすると、誰だ?
「おいっ!」
 遠かった声がいきなり耳元でハッキリ聞こえ、私は目を開けた。
 びっくりした。
「やっと目覚めたか」
 最初に目に入ったのはさっきの声の主。歳は氷朱鷺くらいで野球少年がそのまま大人になった様な、ガキくささがチャームポイントの色黒の青年だ。
 天使……ではなさそう。
「あ、の……こんにちわ」
 初対面の青年に向かって捻り出した言葉がこれだ。
「おぅ、こんにちわ」
 意外にも通じた!!
「ここって……」
 日本の昔話みたいな土間や囲炉裏を見るに、天国……ではなさそうだ。
 私は死んでなかったんだ。
 せっかく我が子に会えたと思ったのにと私がガッカリしていると、すぐそばでその子が丸まって眠っていた。
 冷静になって顔を見るに、私にも杉山さんにも似ていない他人の子供だった。
 そりゃそうか。
「ここは俺の漁師小屋だ。あんた、波打ち際で倒れてたけど大丈夫か?多分、テータイオンショーてやつになってたから囲炉裏で炙ってたんだが」
 炙……私は鮎の塩焼きか。
「大──」
『丈夫です』と言おうとして、自分が見知らぬジャージを着ている事に気付く。
「あの、これ……」
 私がそのジャージを指差すと、青年はケロッとした顔で『着替えさせた』と言った。
「濡れたままだとテータイオンショーで死ぬからな。着てたもんは洗って外に干してある。あ、因みに俺はここらの海女さんの生乳で見なれてっから気にするな」
 それは『見た』という事か。
 初対面の人に全てを見られるなんてショックだ。
「そうですか」
「俺は漁に戻るけど、暫く囲炉裏にあたってた方がいいぞ」
「すみません、ありがとうございます」
 本当は死んでも良かったんだけど。
 青年が土間にあった網を持って出入口の戸を開け、私は慌ててその背中に呼びかけた。
「あっ、あの!」
 そうだ、大事な事を忘れてた。
「私の事、知ってますか?」
 私は悪い意味でワイドショーや週刊誌を賑わせた毒婦だ、知らない人はいないだろう。
「なんだ?前世の知り合いか?俺は知ってても寝たら忘れるからわからん」
 青年はたてつけの悪い戸を足でガンガン蹴飛ばし、そのまま漁に出て行ってしまった。
「名前も聞けずに行ってしまった」
 どうせすぐ出ていかなければならないんだ、名乗るまでもないか。
「ありゃ弥彦じゃよ」
 囲炉裏の向こう側、自在鉤の陰から老人の嗄れた声がして右に体を傾けて見てみると、そこに仙人の様な風体の老人がいた。
「あっ、こんにちわ」
 全然気付かなかった。
「わしゃ小金治(コキンジ)そこのチビはチビじゃよ」
 小金治は手にしていた火かき棒で幼女を指す。
「私は──」
 本名を名乗っていいものか?
 今や自分は悪い意味で時の人だぞ?
「ウ、ウナです」
 咄嗟に思いついたのは春臣と食べようと思っていたウナジローの顔。
 ウナジロー、どうなったんだろう?
 元気にしてるかな?
 もう食べられちゃったかな?
 春臣と食べたくて一生懸命お世話したのにな。
 思い出すと辛くなる。
 これからどうしよう。
 思わぬ助かってしまって、また生きなければならない。
 気が重いな。
「腹減ってねーかぁ?」
「腹?いえ、大丈夫です」
 自分が空腹なのかどうかすら解らない。逆にこの傷心が空腹で紛れればいいのに。
「乾物あるどー」
「え、大丈夫です」
 この老人は、人の話が届かない系の独走タイプか。
「まじろ(待ってろ)」
 小金治はそう言うとどこからともなく取り出した乾物を思い切り歯で引き裂き、大きい方を私に差し出した。
 ガビーン……
 でも大きい方を差し出してくれるなんて良い人だ。
「すいません、私、奥歯が無いので噛み切れないんです」
 お、奥歯無くて良かった。
「まじろ」
 そう言うと小金治は半身を更に歯で引き千切り一口サイズにしてくれた。
「え、ぇぇと」
 困ったな。でも食べやすい様に小さく噛みちぎってくれるなんて、尚の事断りづらい。でも、やっぱり、結構な抵抗感が……
「まんま」
 私が躊躇っているとチビが起きてきて小金治から乾物を奪い、口に入れた。
 チビは大人の一口程度のそれをあむあむと口いっぱいに頬張る。
 かわいい。そして助かった。そして小金治お爺さん、ごめんなさい。
「よく噛んで食べるんだよ」
 自然とチビの頭を撫でると、子供特有のきめ細かい髪の毛がサラッと手に馴染んだ。
「ここって何人で暮らしてるんですか?」
 この小屋は随分と手狭だけど、この子の親は何処にいるんだろう?
 あの青年が父親?
 見た目年齢不詳だからか、歳の離れた兄って事もあり得る。そして小金治お爺さんが祖父とか。
「3人だで」
 小金治は乾物をチャムチャム食べながら答えた。
「3人、ですか……」
 この子、母親がいないのか。こんなに小さいのに……
 いや、他人が勝手に憐憫の眼差しで見るのは失礼だ。母親がいなくともこうして逞しく生きてるんだから。
「美味しい?」
 私がチビに笑いかけると、彼女は人見知りする様にちょっとだけ顔を背けた。
 そうだよね、いきなり知らない人に抱きつかれたり話しかけられたりしたらそうなるよね。
 私は苦笑して反省するも、どうにも彼女が愛おしく、構いたくて仕方が無かった。
 この小さな背中を見ていると万里やミクの小さい頃を思い出す。
 暫く囲炉裏でぬくぬくする長閑な時間が続き、次第にトタン屋根に大粒の雨が当たり始める。
 トン、タン、トン、タン
 懐かしい。昔は家もトタン屋根で、雨の日はこんな音がしていたな。私が稼ぐ度に家は大きくなっていったけれど、最後は一家離散で家も差し押さえられたようだ。幸せの大きさと家の大きさは比例しないものだな。
 チビがチラシの上で瓶詰めの白米をばら撒き米の虫食いの選別を始めたので、私もそれに習って黒くなった米をはじいていく。
「虫食い、結構あるね?」
「……ぅん」
 最初はチビも恥ずかしそうにしていたけれど、暫くするとリラックスしたのか寝転がって足をパタパタさせながら選別していた。
「いっぱい集めたらさあ、畑に撒くんだよ」
「畑に?畑があるんだ?」
「うん、ナスとー、きうりとー、ピーマンとー、えーとぇぇと……」
 チビは手を止めて畑に何が植えられていたか捻り出す。
「ピーマン食べれるの?」
「きらーい」
 チビの心こそ嫌そうな顔が可愛らしい。私は思わず小さく失笑した。
「苦いから?」
「苦くてぇ、ヤヒコ、料理も下手だから」
「そうなんだ苦笑」
「しーがは好き」
「しーが?」
 しーが、しーが、しぃが……
「スイカ?」
「うん」
「スイカ好きなんだ?」
「うん、山に皮置くとカブトムシとれるし」
「カブトムシ好きなの?」
「んーん、集めて売るの」
「へぇ」
 家の方針だろうけど、小さいのにしっかりしてる。
「チビちゃん、学校は?」
 小1くらいの大きさではあるよね?
「ヤヒコが、らいねんだって、だからお金貯めるって。ランドセル買うって。ほんとはね、遠くのご近所さんがくれるってゆったんだけどね、ヤヒコが、新品買ってやるってね、雨の日でもお魚とったり、畑出てるの」
 遠くのご近所さん笑。
 かわいい。
 それにしても、確かに結構な雨あしになってきたのに弥彦は戻って来ない。波の音も大荒れに感じる。大丈夫かな?
「弥彦の船は大きいの?」
「ちっさい」
 いよいよ心配になってきたな。
 嵐でも来そうだし。
「ちょっと見てくる」
 そう言って私は着の身着のまま家を飛び出し桟橋の先へ走った。
「やっぱり、海が荒れてる」
 大きなうねりを見せる波を見て、私は豪雨の中、目を皿にして弥彦の船を探す。
 雨で視界がゼロに等しい。
 私はずぶ濡れになりながらも場所を変えては弥彦を探した。
「チビだって心配して待っているだろうに」
 お願い、見つかって!
「おいっ!何やってる」
 激しい雨音に紛れて後方から声がし、振り返ると、カッパを着た弥彦がナスの入ったバケツを持って立っていた。
「あっ」
 良かった、と思う前に、そうか、海が荒れ始めたから畑に出ていたのかと合点がいった。
「お前、ずぶ濡れじゃないか」
 弥彦は着ていたカッパを頭から私に被せ、手首を掴んで家までダッシュした。
「ハァハァハァハァ」
 玄関先でどちらともつかない息切れが暫く続く。
「なんでまた海岸なんかに?」
「漁に出たのかと思って、心配になって」
「子供がまだ小さいんだ、無理するかよ」
 やっぱりチビの父親?なのか?
「ヤベ、洗濯物」
 そう言うと弥彦は家の裏に走って行って水の滴る衣類を抱えて戻って来た。
「洗い直しだな」
「あー……はは……」
 洗い直した洗濯物が乾くまではここにいていいのだろうか?
 私の笑いだけは乾いていたが。
「風呂は外にあるから、シャワーするなり、沸かしながら入るなり好きにしろ。着替えは後から持ってく」
「あっ、はい」
 なんか、余計な手間をおかけしてすいません。
 私が家の脇にある小屋に入ってみると、割と新しめのトイレとボイラー式の風呂があり、シャワーをしながら弥彦用に湯船に湯を溜めた。
「家が日本昔話みたいだから五右衛門風呂かと思った」
「んな訳あるか」
 私が思った事をそのまま口にすると脱衣場の方から弥彦の声がして思わずビビる。
「ジャージと、パンツは俺のでいいか?」
「えっ」
 倫理的に、初対面の男性のパンツを履いていいものか?
 私が狼狽えていると、弥彦は軽快に決断を下す。
「じゃノーパンか。誰も気にしないから好きにしろ」
 あっさりしてんなー
「ナスは食べれるか?」
 振り返ってすりガラスの戸を見ると、弥彦の影がこちらに語り掛けてきているのが見えた。
 なんだ、このスリル。
 すりガラス一枚を隔てただけの外に年頃の男性がいるのかと思うと気を遣う。多分、向こうは何とも思っていないだろうけど。そう言えば氷朱鷺の時にもこんなシチュエーションがあった。あの時は酷い辱めを受けたけど。
「ナス好きです。あの、でも、良かったら私が料理してもいいですか?なんか、お世話になりっぱなしで申し訳なくて。弥彦さんがお風呂に入っている間に済ませておくんで」
「え、まあ、別にいいけど」
 弥彦がそう言って後頭部を掻いたのがシルエットでわかった。
「じゃあ、ちゃんと体温めろよ?」
「はい、ありがとうございます」
 私が弥彦の影にお礼を言うと、その影は後ろ手に手を上げて離れて行った。
 野暮そうな風貌で粗野な振る舞いなのに行いは紳士でスマートだ。
「良い人だな」
 最近は人々の悪意を真っ向から受けていたせいか、純粋な善意が傷に沁みる。
「ハァ、泣けてくる」
 春臣は城から私を追い出してせいせいしてるかな?
 氷朱鷺はヤサカの恩情で不義は不問だろうけど、何かしらのペナルティはくらっただろうな。
 これからどうしよう?
 助かった命、助けられた命だけど、何の希望も無い。かつて独りになりたいとは思っていたけれど、冷静に考えて独りでどうやって生きていこう?
 途方も無い不安でこの身が潰れそうだった。

 シャワーを終え、大量のナスやピーマンと格闘し、ナスのフルコースを作り終えたところで弥彦とチビが風呂から上がった。
「おっ、なんかすげー美味そうだな」
 囲炉裏端に並ぶ小鉢を見て弥彦が感嘆の息を漏らす。
「ナスとピーマンの味噌炒めと、ナスの煮浸しと、ナスの蒲焼きです。残りの細いナスは浅漬けにして冷蔵庫の野菜室に入れときました」
「悪いな。ありがとう」
「とんでもないです」
 人んちの台所だからちゃんと出来た自信はないけど。
「あっ、ウナギだぁっ!!」
 チビがナスの蒲焼きを見るなり小躍りした。
「え、鰻?」
「あぁ、ナスで作るなんちゃって蒲焼きです」
 昔、家でよく作っていた貧乏飯だ。万里もミクもこれが好きだった。
「へぇ、凄いな。ナスはいつも焼くだけで、調味料で味変してたのに。良かったな、チビ。鰻の蒲焼きだぞ」
 弥彦がそう言うと、チビは早々に座って『いただきます』をする。
「髪は乾かさなくていいの?」
「へっちゃら。暖炉ですぐ乾くもん」
「囲炉裏な」
 弥彦は苦笑いしてチビの隣に座り、同じ様に両手を合わせて『いただきます』をした。
「あんたも食べな。今日はもう遅いし、雨だから泊まってけよ」
「あ……ありがとうございます」
 ホッとした。
 しかしホッとして席に着いたのも束の間、私の鼻の頭に水滴が落ちてきた。
「わっ」
 雨漏りだと確信し、私は右へ少しずれる。
「屋根に雨がしみてきたな」
 私が驚いていると、弥彦は私のいた場所に取り皿の器を置いた。
「後でバケツを置くから、今はこれで我慢な」
 そうして弥彦が白い歯を見せて笑った。
「……はい」
 なんだか心の温かくなる人だな。まるで太陽みたいな人だ。
「明日ぁ、晴れっから、屋根の修理だなぁ」
 自在鉤の向こうから小金治の声がして、弥彦が『おう』と返事をする。
 ここは平和だなあ。
「ウナギの蒲焼き、ぶちうめー!」
 チビがなんちゃって蒲焼きにがっつき、歓喜した。
 ぶち……
 でも良かった。こんなに喜んでもらえるなんて、また作ってあげたい。氷朱鷺も昔は喜んで私の下手な料理を食べてくれたっけ。
「ほんとだ、俺、鰻より好きだよ」
「え、えへへ」
 そこまで言われるとなんだか照れる。
「全部旨いよ」
「えへへ」
 家庭の、なんて事の無い日常の再現なんだろうけど、私にはとても眩しく見えた。
「そういや自己紹介がまだだったな」
 そう言うと弥彦は手にしていた茶碗を置いた。
「あっ、小金治さんから聞きました。弥彦さんと、チビちゃんですよね?」
「あんたは?」
「うっ……ウナです」
 最初についた嘘をそのまま引き継いでしまった。
「変わってんな」
「は、はぁ、まあ……」
 一夜限りの付き合いだし、いいか。
「それでウナは──まあ、いいか。体は大丈夫か?寒くないか?ここは海岸に近いから夏でも風が冷たいし、雨漏りするくらい隙間風ピューピューだから、体を冷やすなよ?」
 何かを言いかけた様だったけど、あれは多分、私の素性か事情を聞こうとして止めたんだ。
 気を遣わせてしまったな。
「ありがとうございます。全然大丈夫です」
 粗暴だけど優しいな。
 食後、夜は囲炉裏を囲って皆で雑魚寝し、朝は誰よりも早く起きて朝御飯の支度をした。
 漁師の朝は早いので私は夜明けと共に台所に立ち、前日に漬けたナスの浅漬けやらナスの味噌汁やらを用意していく。
「早いな」
 弥彦が起き出し、そのままトイレに向かった。そしてトイレから戻るとご飯を平らげ玄関先で網を持つ。そのタイミングで私が声をかけた。
「あの、漁について行っていいですか?」
 一宿一飯の恩返しってやつをしないと。
「漁?別にいいけど、船酔いとか大丈夫か?」
「大丈夫ですっ!!」
 私が息巻いて返事をすると、弥彦はフッと表情を崩して笑った。
「じゃあ行こうぜ、相棒」
 開け放たれた戸から漏れる逆光が、弥彦に神秘的な後光をもたらしている。
 一緒にいると元気をくれる。これまでに会った事の無い人種だ。

 私達は桟橋からモーター付きの小さな船に乗り沖へ出ると『先に寄る所がある』と弥彦が断崖絶壁付近に船を寄せた。
 ここが漁のポイント?
 危なくないか?
 ここは切り立った岸壁とゴツゴツに隆起した岩肌が疎らに剥き出しになっている。流れも荒く不規則で、とても漁に向いているとは思えなかった。
「ここに網を?」
 岩に網が引っ掛かりそうなものだけど。
「いや、ちょっと確認したかっただけだ」
「確認?」
 確認という言葉通り、弥彦は渦巻く海中や船周辺を隈無く目視していた。
 何かを探している?
「ここは崖からの身投げが多くて、潮の流れで遺体が滞留するんだ」
「えっ」
 私は納得がいくと同時に息を飲んだ。
 そうか、それで──
「数年前、チビもここで見つけた」
 弥彦は渦潮の一点を見つめたまま真剣に語った。
「ここで?」
「あぁ、母親がチビごとここに身を投げたんだ。母親は助からなかったけど、チビはたまたま俺が引き揚げた」
 チビにそんな経緯があったのか。可哀想に、幼い身そらでさぞや辛かっただろう。
 私は言葉に言い尽くせない程やりきれない思いでいっぱいになった。
「それから毎日、漁に出る時は必ずここを確認するようにしてるんだ。今年に入ってからも五体の遺体を引き揚げたよ」
「……」
 断崖絶壁を見上げると、チビが助かったのが奇跡とも思える程崖が高く聳え立っていた。
「どんな悲惨な事情があるのか知らないけど、身投げは駄目だ。俺が許さない。ま、これは単なる俺のエゴだけど」
「……」
 人生を諦めた自分には突き刺さる言葉だ。
「あんたも訳ありだろ?」
 私は黙って俯いた。
 自分のスキャンダラスな人生なんか犬の餌にもならない。でも、きっと私の事も身投げして海岸の方に流れ着いた者と見ているだろうな。
「別に責めたりしねーよ。行き場が無いなら好きなだけあすこに留まるといい、出て行きたいならいつでも出て行っていい。ただ、ここへは戻って来ちゃ駄目だ」
「でも迷惑をかけます」
 ありがたい話だけれど、引け目を感じずにはいられない。
「なーに、爺さんだって身寄りが無くて勝手に居着いてんだ、気にする事ぁねーよ。皆他人でバラバラだけどよ、それなりに家族っぽく幸せに暮らしてんだ」
 皆他人……血の繋がった家より全然幸福そうで豊かだ。
「それにこれまでだって何人もあすこを通り過ぎて──まあ、好きにしろってこったよ」
 弥彦は何かを言いかけたが、両肩を浮かして誤魔化した様に見えた。話しても仕方無いか、といった感じ。
 来るもの拒まず、去る者負わずというスタンスなのか。弥彦らしい。
「さあて、漁にはいるか」
 それを合図に私と弥彦は漁に没頭した。

 それから私はあの漁師小屋で主婦の様な役割を果たしていた。
 主に家事や子守、畑仕事を担い、漁が忙しい時期は弥彦の片腕として船にも乗る。小金治は漁で使う網の修復や捕れた魚を日干しにして売っている。この国に冬らしい冬は来ないので貧しいながらに安定した日々を送れていた。
「チビももうすぐ小学生かあ」
 私がここへ来て半年、早いものだ。
 最初は勝手が解らず右往左往、四苦八苦していたが、そこは弥彦が全てカバーしてくれて、今はこの慎ましやかな生活に幸せを感じている。
 王室にいた時より全然豊かではないけれど、ささやかな幸せが幸福だ。他人の寄せ集めで、生活水準が平凡以下でも凄く満たされている。
 囲炉裏に埋めたあんこのおやきをトングで掘り出し、小金治が弦で編んだ器に並べていく。
 ほんと、日本昔話みたいな生活をしているな笑。
 生きてるって感じだ。
「まんま、うまうま~♪」
 チビがおやきに手を伸ばしたので、私は大きいおやきを選んでフーフーとそれを息で冷まして与えた。
「火傷しないようにね」
「まんま、ありがとう」
 チビが嬉しそうにおやきにかじりつくのを見て、私の母性はだだ漏れになる。
「夕飯もあるから、一つで我慢するんだよ?」
「おんっ!」
 かわいいなあ。
 この幸せがずっと続けばいいのに。
 ふと、幸せになるととりとめもなく襲ってくる不安。不幸に慣れすぎてしまっているせいでいつになっても不安が拭い去れない。
「なあ」
 自在鉤の向こうから、網を直す小金治が問いかけてきた。
「あん入りしかないですけど、お爺さんもどうぞ」
 そう言って私はおやきの入った器を小金治に差し出す。

「いい加減、おめ達も夫婦になったらどうだ?」

 私は手を滑らせておやきをぶちまけるところだった。
「め、夫婦だなんて、そんなだいそれた事……」
 確かに私と弥彦は体の関係こそ無いが夫婦と間違われるくらい密接な暮らしをしている。主の弥彦が留守の間は私が家人として家を守っているし、チビに対しては母親役として機能している。それをはたから見たら、いつになったらくっつくのかと当たり前の様に思われても仕方が無い。けれどそれとこれとは話がちがくて──
「弥彦はおめぇを悪いようにはしねよ?何なら誰が見でも好いでる。それをおめもむげにはでぎねべ?」
「き、嫌われてはないだろうなとは思ってますけど、好かれてるかどうかまでは……」
 弥彦は優しくて良い人だけど、恐ろしく野暮で鈍感で不器用だから読めない。それに淡白で無欲だから女に興味があるかどうかすら解らない。それを無闇に夫婦だなんだと煽り立てて今の平穏な暮らしを乱したくない。
「弥彦はあれで臆病だがら、おめにはっきり言えねんだ」
「そんな事無いと思いますけど?」
 弥彦は割とはっきり物を言うたちだと思うけど。勝手に誤解してややこしい事になるのも恥ずかしいし、止めてほしい……
 そっとしといて泣。
「前に来た女に逃げられでがらはからっきしだあ」
「は?」
 前に来た女とは?
 初耳だ。
 女の生乳に興味の無い男に浮いた話とは、凄く興味深い。
 私は前のめりになった。
「おめみてぇに海で拾った女と恋仲さなったけんどもよぉ、ある日突然消えたんだぁ。そんで多分、いくじばなぐしてらんでねーがなぁ」
「そんな経緯が」
 そうか、それで前に『それにこれまでだって何人もあすこを通り過ぎて──』なんて言ってたのか。過去、私の他にも保護されてこの小屋で暮らした人が何人もいて、皆何らかの事情でここを去って行ったのか。それでそのうちの1人と恋に落ちて逃げられた、って事か。そのせいで弥彦が恋に臆病になっていると小金治は言いたい訳だ。
「でも本人でないと、心の中の事は解らないじゃないですか」
 ただ、そうは言っても、なんとなく、ゆくゆく夫婦になるのは時間の問題ではないかと思うところはある。それは弥彦も同じで、時折口にする何気無い日常会話にその片鱗がちょこちょこ混じっていたりする。朴念仁の弥彦は完全に無意識なのだろうけど。
「わがってるくせに」
 不敵に笑うこの老人が憎らしい。
「チビもがっこさ通うし、観念すればいっきゃ」
 両親として、チビの保護者として夫婦になるべきだと小金治は言いたいのだろう。
 それはもっともだ。言いたい事は分かる。
 仮に弥彦が私とそうなる事を望んでいたとして、私も彼と一緒になって家族4人で幸せに暮らしたいと思ってる。でもチビにとっては、父親みたいな弥彦を盗られたとか思うかもしれない。
「チビはそれを望まないかも」
 私を母親と認めないかも。
「今更、チビはおめの事、最初っがらおがあさんて呼んでるべな?」
「え、そんなの、一度も──」
「まんま、ご飯まだあ?」
 あ──
『まんま』って、ずっと『ご飯』の事かと思ってたけど、そうか『ママ』って意味だったんだ。
 それと知った時には、私は泣きながら強くチビを抱き締めていた。
「弥彦が帰って来たらね」
「まんま、弥彦はぱっぱーだよ。まんま、ぱっぱーの事好きじゃないの?」
「ぱっぱー……」
 チビは既に私達2人を親と認めている。そんで私の気持ちは──

「好きだよ」

 弥彦は優しいし、頼りになるし、一緒にいても疲れない。人間的にも尊敬している。恋愛における刺激は全くと言っていいほど無いけれど、彼とここで幸せな家庭を築けたらなって思っている。けれどその気持ちを伝えるつもりはなかった、のに、絶妙なタイミングで弥彦がフキを持って帰って来た。
「……ええと、ただいま」
「おっ、おかえりなさい!」
 今の、聞かれた!?
 弥彦の顔を見ると、照れくさそうに頬を赤く染めていた。
 いや、聞かれたな!
 気まずいな。
「……」
「……」
「おやき焼いたんだけど食べる?」
 私が気まずさに耐えかねて弥彦におやきを勧めると、彼はすぐ隣に座ってそれを受け取った。
 いつもは気にならない距離なのに、今日はやけに気になる。
「ありがとう。中身は?」
「あんこ。高菜とかの方が良かった?」
「いや、あんこ好きだし」
「だよね。フキ、後で筋取りしておくから」
「沢山採ったし俺もやるよ」
「弥彦の好きな油炒めにするよ?」
「ウナの好きな肉詰めでいいよ」
「じゃあ半々で」
「そうなると少ないけど笑」
 気が付くといつもの調子に戻っていた。
 こういう感じがいい。
 このままでいいと思うのは狡いだろうか?
 だってそうじゃないか、本名もそうだし
 私には秘密が多過ぎる。乗り越えなければいけない高いハードルがいくつもある。それを知ったら弥彦は私を嫌いになる。ただでさえ私の体は穢れて傷物なのに。
 嫌われるのが怖い。
「弥彦ぉ」
「なんだ、爺さん」
「おめ、嫁はとらねんだか?」

 お──
 お爺さん、止めて!!

 全身の毛穴から汗が噴き出した。
 でも凄く気になる。
 私が固唾を飲んで横目に弥彦の動向を見守っていると、彼は所謂『首痛めポーズ』で長めに唸った。
「嫁がいなくても、俺には寄せ集めの家族がいるから、今のままで充分幸せだ。今更家族それぞれに代名詞をつけるつもりもない。家族に配役を与えたところでそれまでだろ?大事な物は大事、それでいいんじゃないか?」
 妻、夫、娘、祖父、わざわざそんな型にはめずとも、一括りに『家族』という訳か。弥彦らしい。
「弥彦、世の中にはケジメってもんがあるべ?」
「ケジメもなにも……なあ?」
 と言って弥彦に同意を求められたが、デリケートな話題だけにこちらから何とも……
「旨っ」
 そんな空気の中でも弥彦は平常通りでおやきを食う。
 平和だ。
 平和、だが、もしかして逆に、弥彦は私と結婚したくないのかも?
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 例え嫌われても?
「……」
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「ウナ、そういや醤油まだあったか?」
「え、醤油、そう言えば醤油も味噌もそろそろ無くなりそう」
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「そうだな、どうせ明日は雨で漁に出られないし、市場に野菜を届けがてらスーパーに行くか」
「2人でゆっぐりしてこい」
 ニヤニヤしながらおやきを食べる小金治を、私は曲者だと思った。
 なんだ、この、お見合いの席での『後は若い2人で』のくだり要素。
 それでも、船の上以外でなかなか弥彦と2人きりになる機会がなかったからか、私の心はドキドキだ。
 うーん、緊張するなあ。

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