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流れ着いた男
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この島に来てとうとう5年が経とうとしている。氷朱鷺から半ば拉致されて来た割に私達は良好な関係を築けていた。
当時じゃ考えられなかった。
「あんなに憎んでいた相手でも、無人島で互いに支え合って生きると心境も変化するもんなんだな」
哲学じゃないけど、人間は閉鎖された空間では生存本能や繁殖本能から対象の人物に協力的な態度ないし、友好的な思考になってしまうものなのだろう。
「それもこれも、幸せを壊しに来る悪魔が私の生活圏のど真ん中に入り込んでいるからなんだよなあ」
幸せを壊しに来る奴と幸せになれば、幸せを壊される心配が無くなる、という考えも強ち的外れではなかった様だ。
「なんにせよ今は、何の波風も無く穏やかで平和だ」
それはもう、本土での惨劇が嘘だったみたいに。
「私は一体、何に抗ってきたんだろう?」
平和ボケしているせいか、釣り場である岩場の洞窟で釣り糸を垂らしながら時折こうして虚無になった。
「最初の、私の選択が間違っていたのか……?」
そんな風に思うと、これまでの氷朱鷺の被害者達の顔が脳裏に浮かび、罪悪感と申し訳なさで発狂しそうになる。そんな時はいつも、目の前の作業に集中して無になった。
「タコタコタコタコタコタコタコ、今はタコを釣る事に集中」
私は竿の棒先を小刻みに動かし、海中にいるであろうタコを誘い込む。
「タコって真水が嫌いだから、前日の雨で今日は穫れないかもなあ」
今日は早めに切り上げて、帰りに蛸壺の確認をしようと考えていると、目の前を黒いゴロッとした物が洞窟に流れ込んで来たのが見えた。
「えっ!?」
最初はアシカか何かが洞窟内に入り込んだのかと思ったが、アシカのいないこの海域でそれは無いと思い直し、暗い洞窟内で海面に目を凝らすと、その何かが黒い服を着た人間の背中だと認識した。
「ヤバいヤバいヤバい!」
私は釣り竿をほっぽり出し、慌てて海面に足を突っ込んでその人物を引き上げようとする。
「駄目だ、流れが強い」
開けた場所では穏やかな波も、どん詰まりの洞窟に流れ込む波は重く力強い。その人物は何度となくゴツゴツの岩場に打ち付けられ波間に血を漂わせていた。
流血量が多くて早いという事はまだ生きてるんじゃあないだろうか?
私は着ていたパーカーを脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。
「!!」
雪が降らないこの地域でも、日の当たらない洞窟内の海中はとびきり冷たい。私の心臓は竦み上がり、息が止まりそうになった。それでも私は、弥彦に助けてもらった記憶から、自分自身も誰かを救いたいと無我夢中で流される人物の首根っこを掴んだ。そして近くの岩場に掴まり、波の反動を利用してその人の上半身を陸に引き摺り上げた。
「プハッ!!ハァッハァッハァッ」
私は海水が冷た過ぎてまるで嗚咽を漏らす様に呼吸が細切れになる。
カチカチカチカチカチカチカチカチ……
体が勝手に小刻みに震えて歯と歯がぶつかる音がした。で
「うーっうーっ寒ーっ!!」
私は震える手で浮かんでいた人物を完全に陸に上げ、投げ捨てたパーカーをその人に掛けた。
「男だ」
改めてその姿を確認すると、その人物はややウェーブがかった長めの黒髪を後ろで結ったソース顔の男で、無精髭のせいか、ちょうど杉山さんと同じ中年くらいの年齢に見えた。
「大丈夫ですか!?」
私は返答を待たずして彼の胸に耳を当て、口元には手を当てた。
「息してないし、心音も凄く弱い。」
それは今にも止まりそうな程だった。
「大丈夫ですよ!今、助けますからね!」
私は彼を横に傾けると、大声で呼び掛けながらその分厚い背中を思い切り平手打ちする。
気つけにもなるし、まずはこれで海水を吐かせた方がいいよね?
「戻って来い!戻って来い!」
これは映画で観たセリフだ。戦場では負傷した戦友を救護するどころか安楽死させていた為、救助方法も手探りになる。
「お兄さん!お兄さん!帰って来て!」
何度目かの平手打ちで男の口から海水が流れ出てきたが、俄然呼吸は戻らない。私はすぐに彼を仰向けにして気道を確保すると、その紫になった口に自身の口を押し当て人工呼吸を開始した。私がフーッと力の限り息を吹き込むと男の胸部が僅かに持ち上がり、酸素が取り込まれたのが見えた。
どうにか助かって!
私は祈る様な気持ちで人工呼吸を続けていると、次第に酸欠で頭がくらくらしてきた。『あ、ヤバい、脳貧血で倒れるかも』と意識が遠のきそうになった時、口の中にニュルッとしょっぱい何かが侵入してきて驚きで跳び上がる。
「ウエッ!!」
それが男の舌であると認識した途端、私はその場に唾を吐いた。
「ゴホッ!!ゴホッ!!ゴホッ!!」
舌を入れてきた張本人は体を捻って盛大に噎せ、大量の海水を吐き出していた。
通りでしょっぱかった訳だ……じゃなくて、なんなんだ、この人!!
私は彼が助かって良かったと思うと同時に軽蔑もした。
わざとなの?!
でも彼は意識不明で生死の境をさまよっていたから無意識だった可能性もある。闇雲に疑うのは良くない。
「大丈夫ですか?」
私は気を取り直して男に声をかけた。
「あーーーーーっ!!しょっぺぇっ!!ビール飲みてぇっ!」
一瞬、ほんの一瞬、思考が停止した。
もう一度聞こう。
「大丈夫ですか?」
私は起き上がって髪を掻き上げる男に尋ねた。
「大丈夫な訳あるかっ!さみぃっ!」
男は大声で不満をぶちまけると有無を言わさず私の肩を抱き寄せた。
「え、ちょっと……」
なにこの人、不躾過ぎる。
私自身、寒くて凍えそうだったけれど、男の図々し過ぎる態度に腰が引けた。
「今、お前の体温を奪ってんだから動くなよ」
奪うなよ。そして声がでかいな。
──というか、改めてよくよく見て見ると、男の手足に縛った様な痕が残っている。これは多分……
男は私が掛けたパーカーを羽織るも、例の痕を隠す素振りもない。
「……落ち着いたら着る物と湯たんぽを持って来ます」
本人は気にしてない様だけれど、人にはそれぞれ色んな事情があるから。そんな風に男を理解しようとすると──
「あと酒とつまみも」
「……」
殴りたくなった。
「貴方は何処からいらっしゃったんですか?ご自分の意思で来られた様には見えませんけど」
男がこれだけ不躾なら、こちらもズケズケ不躾に聞いてもバチは当たらないだろう。
「出身は南部国だが、やべー奴の金と女に手ぇ出してここらの海に捨てられた」
凄く納得のいく答えで寧ろスッキリした。
潔い良い程のクズだ。
「クズですね」
「そうか?」
私の蔑んだ言葉も心に響いていないようだし、私の肩をガシガシ擦って勝手に暖をとっているし、なんかヤバそうなのタスケチャッター。
「ハーッ、災難災難、寒寒っ!」
身から出た錆だろ。
「そんでここは何処だ?」
男はひとしきり私から体温を奪うと、海水の滴る髪を絞ってそれをまた結い直した。
「元無人島です」
私は私で男からの体温を失い、両腕を組んで体温の低下を防ぐ。
「元?」
「今は──私ともう1人が住んでます」
これは言って良かったか?
「プライベートリゾートかなんか?」
「や、まあ、そんな感じです」
見知らぬクズ相手に出し抜けに込み入った諸事情を説明するのもなあ……
「へえ、家か別荘はここから近いの?」
「えっ、いや、その……」
私は大いに動揺した。
この島に第三の人物(男)が上陸したとなれば、嫉妬深い氷朱鷺は絶対にこの男を殺す。絶対に、だ。だから彼を家にあげる事は避けなければ。
「貴方を家に連れて帰る事は出来ないんです。すみません」
私は素直に頭を下げた。
「なんで?」
まあ、そうなるよね。
「多分、貴方が殺されます」
「はあ?」
男の声がひっくり返る。
まあ、そうなるよね。
「多分、確実に殺されます」
「いや、どっちだよ」
「120パーで殺されます」
これには絶対的自身がある。信頼のパートナー白井氷朱鷺(サイコ野郎)
「全力だな、おい」
「傷の手当てもしますし、着る物や食べ物も提供するので怪我が治ったら泳いで近くの小島にでも避難して下さい」
「鬼か」
「多分、良い所ですよ、多分」
ここまで助けたのだから後の事は自分で何とかしてもらいたい。でないとせっかく助かった命が投げ物になる。
「もう1人の奴、連続殺人犯か何かか?」
「四捨五入するとほぼそうです」
「怖っ!!」
男の全身に鳥肌が立った。
「いや、待て、男か?」
「はい」
一瞬、男の目の色が変わったが、私の返答で元のすさんだ茶色に戻った。
「チッ」
何を期待した?
「貴方って、海に捨てられるべくして捨てられた人なんですね」
「まあ、それ程何回もではないけど」
これが初めてじゃないんかい。
私は出会って10分でこの男の人となりが解ってしまった。
「岩にぶつかった傷や打撲の他に怪我はありませんか?」
とにかく見える所は擦り傷や打撲で赤や紫になっていて見ているこっちが痛くなりそうなくらいだった。
「多分、右足にヒビが入ってる」
見ると、確かに男の右足首が大きく腫れ上がっている。
まずいな。
「じゃあ、必要な物と添え木も探して来ます。動けないとは思いますけど、絶対にここから出ないで。満潮でもここは浸水したりしませんから」
私はそう言い残して洞窟を出た。
骨のヒビか、まずいな、治るまで2~3ヶ月くらいか?
それまで氷朱鷺に見つからない様にしないと。冗談抜きに、あいつが男の存在に気付いたら何をしでかすか解らない。
「とにかく今は、氷朱鷺が山菜採りから戻る前に男の手当てをしないと」
私は濡れたシャツで体がスースーするのも構わず家までダッシュした。
幸い、家には氷朱鷺の姿は無く、裏山の何処かで山菜を採っているものと思われた。
「氷朱鷺が戻るのはいつも日暮れ、あと数時間も無い」
私は必要最小限の物だけを持ち、着替えもしないで男の元に取って返った。
「お兄さん、今戻りましたっ!」
私が荷物を抱えてゼイゼイ言いながら戻ると、男が涅槃像の格好で『おう』と手を挙げた。まるでリビングでくつろぐオッサンだ。
「タオルと乾いた着替えと、湯たんぽと、温かいスープにパンもあります」
私がそれらを渡すと、男は片足立ちで濡れた衣服を全て脱ぎ、タオルで全身を拭き始める。
「恥じらいとかないんですね」
寒くて縮こまったソレがブラブラと目の前で揺れる。黒光りしているその御立派様を見て思う。
遊んでんなあ。
「いや、見られ慣れてて何とも思わん」
「でしょうね」
というか、洞窟に裸の男と2人きり、相手が怪我でもしていなければ結構ヤバいのでは?
それにこんな所を氷朱鷺に見られたら、発狂して男のソレをぶつ切りにしそうだ。
「お前、人のイチモツをそんなにガン見して恥ずかしくないのか?」
「なんか、オジサンのはどっかの裸族みたいな感覚で見れるんですよね。全然やらしくない」
「オジサン言うな」
さっきまでは気を遣って『お兄さん』なんて呼んでいたけれど、向こうも気を遣わないし『オジサン』で充分な気がした。
同じ中年でも杉山さんはオジサン感がまるで無いんだよなあ……品格の差か?
「じゃあ、先を急ぐんで私はこれで」
私は一通りオジサンの手当てを終え、彼に背を向けて一歩踏み出すと後ろから不満の声が向けられた。
「え、帰るのかよ!?」
「勿論勿論」
私が振り返ってオジサンの様子を確認すると、意外にも彼は心細そうに身を縮めていた。
なんなんだよ、この人は──
「ぇぇ……こんな真っ暗な洞窟で1人きり、心細ーい」
「やれやれ、ガサツで粗野なのに意外と気が小さいんですね?」
1人でお留守番の出来ない大型犬みたいだ。ま、そこまで可愛くないけれど。
「お前は結構失礼だよな」
「人を見て言っています」
「おい」
「ちょっと怖いかもしれませんが、朝まで我慢して下さい。足場も悪いですし、片足で歩き回る様な事はくれぐれも止めて下さいね」
私が恐れているのはオジサンが怪我をする事ではなく、彼が氷朱鷺に見つかってしまう事だ。それによりオジサンがどうなるかは未知数だが、間違いなく誰も幸せにならない。
「ぇえー、怖いー!」
まるで駄々を捏ねる悪ガキだ。
「明日の朝にまた食べ物を持って来ますから、ゆっくり休んで」
私が再度オジサンに背を向けて歩き出そうとすると、いきなりグンとシャツの襟足部分を掴まれて首が絞まった。
「うぐっ、何するんですかっ!」
私は振り返りざまにオジサンの胸に右ストレートをかます。
「いでっ!まあ、待て。もう少しいろって」
オジサンは片足で上手くバランスをとりながら殴られた胸を手で押さえている。
「自己紹介がまだだったろ?」
「え、あぁ、言われてみれば。でも興味ないんで」
「待て待て」
「うぐっ」
私はまたしても、帰ろうとするのを後ろから阻止され、首が絞まる。
「なんなんですか」
私が足を止めて睨みつけるも、オジサンは平気な顔で胸まで張っている。
「どうもどうも、俺は炭作平太郎(スミサク ヘイタロウ)フリーランスでヒモをやってる。まあ、経営コンサルタントみたいなもんよ」
フリーランスのヒモ!?
パワーワードだ。
「パラサイト系口出しニートって事ですね」
要約するとこれだ。
「とはいえ俺だってたまには外に稼ぎに行くよ?」
「パチンコですか?」
「おまっ、千里眼か」
そうして炭作オジサンは慄いていたが、その程度なら誰でも予測出来ると思った。
「ビールにパチンコにヒモ……家の父みたいな人だなあ」
要約するとクズだ。
「なんだぁ?お前の親父は飲んだくれのパチンカスのたらしか?っとにろくでもねーやつだな」
何気ない私の呟きに炭作オジサンが文字通り反吐を吐いた。
お前が言うな。
「男はな、酒と女と賭のうち2つまでなら嵌ってもいいが、それ以上はあかんねん」
お前が言うな(2)
「フルコンプやんけ」
「あ?」
「いえ、自分の事は自分が一番良く解っているなんて嘘だなって」
炭作オジサンがどこまで本気で言っているのか解らないが、彼がとんでもないクズである事の整合性はとれた。
「言っとくけど俺は金持ちのマダムからしか金はせしめねー主義だ」
胸を張るな、胸を。
「炭作オジサンはマダムの犬な訳ですね」
「そんでマダムから貰った小遣いでネオン街のナオン街に行って還元するんだよ」
還元……か?
「俺は経済を回してる、そう言いたいんですね?」
割と老害のオジサンがよく口にする言葉だ。
「よく解ったな、エスパー」
そして炭作オジサンは私の肩をポンと軽快に叩く。
「誰がエスパーですか」
私は炭作オジサンを冷たくあしらった。
「因みに俺にも超能力があるんだよ」
そう言って炭作オジサンがまた胸を張ったが、私はどうもこの男が信用出来なくて話半分で傾聴する。
「へぇ、どんな?」
またくだらない戯言を──
「お前、多摩川エデンていうだろ?」
「!」
私は反射的に顔を背けた。
完全に油断していた。自分が元王妃で有名人であった事をすっかり失念していたのだ。
「……とんだエスパーですね」
今更嘘をついたところでどうにもならない。そもそも私は嘘が苦手だ。
「まあな。俺、女の顔は忘れねーから。それが俺の特殊能力」
「無駄な能力を……」
私はチッと苦虫を噛み潰した。
「多摩ちゃん、死んだ事になってっけど、どうしたってこんな孤島に?」
多摩……ちゃん?
私はアザラシか。
多少引っ掛かるが、まあ、そこは面倒臭いからいいか。
「死んだんですよ。多摩川エデンは」
つまりは説明が面倒臭いって事だ。察しろ。
「あー、あ~、あ~ハーン」
炭作オジサンが勝手に何かを察してニヤニヤしだす。
なんなんだよ。
「駆け落ちかあ~」
「違──」
『う』と言いたいところだが、氷朱鷺としてはそのつもりだから駆け落ちなのか。
「王さん、可哀想~未だに嫁もとらずに多摩ちゃんの帰りを待ってるのに」
「私はっ……死んだ事になってるから……でももし炭作オジサンが無事にこの島を脱出出来ても、私が生きてる事は絶対に口外しないで下さい」
春臣には、どうか良い人を見つけて幸せになってほしい。
「ここから泳いでいける唯一の島って小さい無人島なんだろ?」
「はい」
「誰に言うねん!」
「でも、万が一の事も──」
ここで私ははたと思う。もし炭作オジサンがここを脱出して私や氷朱鷺の存在をよそに吹聴する可能性がほんの僅かでもあるとするなら、尚更、オジサンが氷朱鷺に見つかったら口封じに殺される。
絶対に負けられない戦いがここにある。
「オジサン、絶対に外をうろちょろしないで下さいね!!」
「ぉ、おう」
私が結構な勢いで炭作オジサンに迫ると、彼はその凄みに気圧されて後ろによろけた。
「明日は釣り竿とか炭なんかも用意するんで、出来る事は自分でもして下さいね?ちょくちょく様子は見に来ますけど、諸事情により来られない日もあると思うんで」
「ぉ、おう」
「今日はバタバタしてたんで、とりあえず今夜は持って来た衣服を着こんで、湯たんぽで凌いで」
「はいはい」
炭作オジサンはまるで口うるさい母親にどやされる息子の様な素振りでその場に座り込む。
「それから──」
「なあ?」
時間を気にしている私がつらつらと説明をしているなか、不意に炭作オジサンが話の腰を折る。
「はい?」
「この島にいるお前の彼氏って何者?」
一瞬、その言葉に風や波の音が掻き消された。
「彼氏、じゃないです」
随分と答え辛い事を聞くじゃないか。
「じゃないなら拉致でもされたん?」
「当たらずも遠からず」
「名前は?」
「聞いてどうするんですか、オジサンの知らない人ですよ」
氷朱鷺もこの国では時の人だった。例え炭作オジサンが他国の人間であってもニュース等で目にしている可能性がある。知らない方が良い事は知らせないでおこう。
「いやぁ、なんとなく。殺人鬼ならニュースで見てるかもって」
「そんなんで私を引き留めても無駄ですよ。もう行きますから」
「バレたか」
私は炭作オジサンの砕けた笑顔を尻目に洞窟を出ると、足早に家へと戻った。
家に戻ると氷朱鷺がキッチンで謎鳥の鍋を作っていて、私の濡れた体がそのグツグツに煮えた鍋を欲したのがわかった。
そうだ、半乾きだけど衣服が濡れてるんだった。猛ダッシュで慌てて帰って来たせいで忘れていた。
「えっ、エデン、どうしたの!?」
当然、氷朱鷺は私を見るなりお玉を放り出して駆け寄って来る。
「や、海に落ちた」
私はドキドキしながら嘘をついた。多分、目は泳いでいただろう。
「えぇ、エデンて運動神経抜群なのに」
「うん、落ちた」
「お風呂は沸かしてあるから、先に入ってきなよ。風邪ひいちゃうよ?」
「えっ、あ、ごめん。風呂焚き当番は私なのに……火付け大変だったでしょ?」
この家の風呂は火を焚き付けて沸かすタイプだが、氷朱鷺は火付けが苦手なのでなんとなく私が担当している。
「着火剤の松ぼっくり沢山使っちゃった」
私はテヘペロする氷朱鷺に一種の罪悪感の様なものを感じ、まともに顔が見れなかった。
「今日、ちょっと遅かったから心配したんだよ?」
「う、うん。ごめんね」
私は悪い事をしている訳でもないのに、隠し事をしているというだけで氷朱鷺に引け目を感じてしまう。
「海に落ちてたなんて、風呂なんか沸かしてないで探しに行けば良かったね?」
そこで氷朱鷺が私の生存を噛み締める様にギュッとハグしてきた。
「ぜ、全然全然、泳ぎは得意だし、暑かったからちょうど良かったんだよ。心配かけてごめんなさい」
私はてんで的外れな答えで縮こまる。
一体、私は何を言っているんだ。
「今日は曇りで肌寒かったじゃん。体もこんなに冷えて」
そう言って氷朱鷺は私の背中をガシガシ擦って温める。
「ご、ごめん、なさい」
「いや、そんなかしこまらないでよ笑」
「うん」
「そんなだと放したくなくなっちゃうよ」
私は氷朱鷺から旋毛にキスをされ、普段なら突き飛ばすところを後ろめたさから容易に受け入れてしまう。
当時じゃ考えられなかった。
「あんなに憎んでいた相手でも、無人島で互いに支え合って生きると心境も変化するもんなんだな」
哲学じゃないけど、人間は閉鎖された空間では生存本能や繁殖本能から対象の人物に協力的な態度ないし、友好的な思考になってしまうものなのだろう。
「それもこれも、幸せを壊しに来る悪魔が私の生活圏のど真ん中に入り込んでいるからなんだよなあ」
幸せを壊しに来る奴と幸せになれば、幸せを壊される心配が無くなる、という考えも強ち的外れではなかった様だ。
「なんにせよ今は、何の波風も無く穏やかで平和だ」
それはもう、本土での惨劇が嘘だったみたいに。
「私は一体、何に抗ってきたんだろう?」
平和ボケしているせいか、釣り場である岩場の洞窟で釣り糸を垂らしながら時折こうして虚無になった。
「最初の、私の選択が間違っていたのか……?」
そんな風に思うと、これまでの氷朱鷺の被害者達の顔が脳裏に浮かび、罪悪感と申し訳なさで発狂しそうになる。そんな時はいつも、目の前の作業に集中して無になった。
「タコタコタコタコタコタコタコ、今はタコを釣る事に集中」
私は竿の棒先を小刻みに動かし、海中にいるであろうタコを誘い込む。
「タコって真水が嫌いだから、前日の雨で今日は穫れないかもなあ」
今日は早めに切り上げて、帰りに蛸壺の確認をしようと考えていると、目の前を黒いゴロッとした物が洞窟に流れ込んで来たのが見えた。
「えっ!?」
最初はアシカか何かが洞窟内に入り込んだのかと思ったが、アシカのいないこの海域でそれは無いと思い直し、暗い洞窟内で海面に目を凝らすと、その何かが黒い服を着た人間の背中だと認識した。
「ヤバいヤバいヤバい!」
私は釣り竿をほっぽり出し、慌てて海面に足を突っ込んでその人物を引き上げようとする。
「駄目だ、流れが強い」
開けた場所では穏やかな波も、どん詰まりの洞窟に流れ込む波は重く力強い。その人物は何度となくゴツゴツの岩場に打ち付けられ波間に血を漂わせていた。
流血量が多くて早いという事はまだ生きてるんじゃあないだろうか?
私は着ていたパーカーを脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。
「!!」
雪が降らないこの地域でも、日の当たらない洞窟内の海中はとびきり冷たい。私の心臓は竦み上がり、息が止まりそうになった。それでも私は、弥彦に助けてもらった記憶から、自分自身も誰かを救いたいと無我夢中で流される人物の首根っこを掴んだ。そして近くの岩場に掴まり、波の反動を利用してその人の上半身を陸に引き摺り上げた。
「プハッ!!ハァッハァッハァッ」
私は海水が冷た過ぎてまるで嗚咽を漏らす様に呼吸が細切れになる。
カチカチカチカチカチカチカチカチ……
体が勝手に小刻みに震えて歯と歯がぶつかる音がした。で
「うーっうーっ寒ーっ!!」
私は震える手で浮かんでいた人物を完全に陸に上げ、投げ捨てたパーカーをその人に掛けた。
「男だ」
改めてその姿を確認すると、その人物はややウェーブがかった長めの黒髪を後ろで結ったソース顔の男で、無精髭のせいか、ちょうど杉山さんと同じ中年くらいの年齢に見えた。
「大丈夫ですか!?」
私は返答を待たずして彼の胸に耳を当て、口元には手を当てた。
「息してないし、心音も凄く弱い。」
それは今にも止まりそうな程だった。
「大丈夫ですよ!今、助けますからね!」
私は彼を横に傾けると、大声で呼び掛けながらその分厚い背中を思い切り平手打ちする。
気つけにもなるし、まずはこれで海水を吐かせた方がいいよね?
「戻って来い!戻って来い!」
これは映画で観たセリフだ。戦場では負傷した戦友を救護するどころか安楽死させていた為、救助方法も手探りになる。
「お兄さん!お兄さん!帰って来て!」
何度目かの平手打ちで男の口から海水が流れ出てきたが、俄然呼吸は戻らない。私はすぐに彼を仰向けにして気道を確保すると、その紫になった口に自身の口を押し当て人工呼吸を開始した。私がフーッと力の限り息を吹き込むと男の胸部が僅かに持ち上がり、酸素が取り込まれたのが見えた。
どうにか助かって!
私は祈る様な気持ちで人工呼吸を続けていると、次第に酸欠で頭がくらくらしてきた。『あ、ヤバい、脳貧血で倒れるかも』と意識が遠のきそうになった時、口の中にニュルッとしょっぱい何かが侵入してきて驚きで跳び上がる。
「ウエッ!!」
それが男の舌であると認識した途端、私はその場に唾を吐いた。
「ゴホッ!!ゴホッ!!ゴホッ!!」
舌を入れてきた張本人は体を捻って盛大に噎せ、大量の海水を吐き出していた。
通りでしょっぱかった訳だ……じゃなくて、なんなんだ、この人!!
私は彼が助かって良かったと思うと同時に軽蔑もした。
わざとなの?!
でも彼は意識不明で生死の境をさまよっていたから無意識だった可能性もある。闇雲に疑うのは良くない。
「大丈夫ですか?」
私は気を取り直して男に声をかけた。
「あーーーーーっ!!しょっぺぇっ!!ビール飲みてぇっ!」
一瞬、ほんの一瞬、思考が停止した。
もう一度聞こう。
「大丈夫ですか?」
私は起き上がって髪を掻き上げる男に尋ねた。
「大丈夫な訳あるかっ!さみぃっ!」
男は大声で不満をぶちまけると有無を言わさず私の肩を抱き寄せた。
「え、ちょっと……」
なにこの人、不躾過ぎる。
私自身、寒くて凍えそうだったけれど、男の図々し過ぎる態度に腰が引けた。
「今、お前の体温を奪ってんだから動くなよ」
奪うなよ。そして声がでかいな。
──というか、改めてよくよく見て見ると、男の手足に縛った様な痕が残っている。これは多分……
男は私が掛けたパーカーを羽織るも、例の痕を隠す素振りもない。
「……落ち着いたら着る物と湯たんぽを持って来ます」
本人は気にしてない様だけれど、人にはそれぞれ色んな事情があるから。そんな風に男を理解しようとすると──
「あと酒とつまみも」
「……」
殴りたくなった。
「貴方は何処からいらっしゃったんですか?ご自分の意思で来られた様には見えませんけど」
男がこれだけ不躾なら、こちらもズケズケ不躾に聞いてもバチは当たらないだろう。
「出身は南部国だが、やべー奴の金と女に手ぇ出してここらの海に捨てられた」
凄く納得のいく答えで寧ろスッキリした。
潔い良い程のクズだ。
「クズですね」
「そうか?」
私の蔑んだ言葉も心に響いていないようだし、私の肩をガシガシ擦って勝手に暖をとっているし、なんかヤバそうなのタスケチャッター。
「ハーッ、災難災難、寒寒っ!」
身から出た錆だろ。
「そんでここは何処だ?」
男はひとしきり私から体温を奪うと、海水の滴る髪を絞ってそれをまた結い直した。
「元無人島です」
私は私で男からの体温を失い、両腕を組んで体温の低下を防ぐ。
「元?」
「今は──私ともう1人が住んでます」
これは言って良かったか?
「プライベートリゾートかなんか?」
「や、まあ、そんな感じです」
見知らぬクズ相手に出し抜けに込み入った諸事情を説明するのもなあ……
「へえ、家か別荘はここから近いの?」
「えっ、いや、その……」
私は大いに動揺した。
この島に第三の人物(男)が上陸したとなれば、嫉妬深い氷朱鷺は絶対にこの男を殺す。絶対に、だ。だから彼を家にあげる事は避けなければ。
「貴方を家に連れて帰る事は出来ないんです。すみません」
私は素直に頭を下げた。
「なんで?」
まあ、そうなるよね。
「多分、貴方が殺されます」
「はあ?」
男の声がひっくり返る。
まあ、そうなるよね。
「多分、確実に殺されます」
「いや、どっちだよ」
「120パーで殺されます」
これには絶対的自身がある。信頼のパートナー白井氷朱鷺(サイコ野郎)
「全力だな、おい」
「傷の手当てもしますし、着る物や食べ物も提供するので怪我が治ったら泳いで近くの小島にでも避難して下さい」
「鬼か」
「多分、良い所ですよ、多分」
ここまで助けたのだから後の事は自分で何とかしてもらいたい。でないとせっかく助かった命が投げ物になる。
「もう1人の奴、連続殺人犯か何かか?」
「四捨五入するとほぼそうです」
「怖っ!!」
男の全身に鳥肌が立った。
「いや、待て、男か?」
「はい」
一瞬、男の目の色が変わったが、私の返答で元のすさんだ茶色に戻った。
「チッ」
何を期待した?
「貴方って、海に捨てられるべくして捨てられた人なんですね」
「まあ、それ程何回もではないけど」
これが初めてじゃないんかい。
私は出会って10分でこの男の人となりが解ってしまった。
「岩にぶつかった傷や打撲の他に怪我はありませんか?」
とにかく見える所は擦り傷や打撲で赤や紫になっていて見ているこっちが痛くなりそうなくらいだった。
「多分、右足にヒビが入ってる」
見ると、確かに男の右足首が大きく腫れ上がっている。
まずいな。
「じゃあ、必要な物と添え木も探して来ます。動けないとは思いますけど、絶対にここから出ないで。満潮でもここは浸水したりしませんから」
私はそう言い残して洞窟を出た。
骨のヒビか、まずいな、治るまで2~3ヶ月くらいか?
それまで氷朱鷺に見つからない様にしないと。冗談抜きに、あいつが男の存在に気付いたら何をしでかすか解らない。
「とにかく今は、氷朱鷺が山菜採りから戻る前に男の手当てをしないと」
私は濡れたシャツで体がスースーするのも構わず家までダッシュした。
幸い、家には氷朱鷺の姿は無く、裏山の何処かで山菜を採っているものと思われた。
「氷朱鷺が戻るのはいつも日暮れ、あと数時間も無い」
私は必要最小限の物だけを持ち、着替えもしないで男の元に取って返った。
「お兄さん、今戻りましたっ!」
私が荷物を抱えてゼイゼイ言いながら戻ると、男が涅槃像の格好で『おう』と手を挙げた。まるでリビングでくつろぐオッサンだ。
「タオルと乾いた着替えと、湯たんぽと、温かいスープにパンもあります」
私がそれらを渡すと、男は片足立ちで濡れた衣服を全て脱ぎ、タオルで全身を拭き始める。
「恥じらいとかないんですね」
寒くて縮こまったソレがブラブラと目の前で揺れる。黒光りしているその御立派様を見て思う。
遊んでんなあ。
「いや、見られ慣れてて何とも思わん」
「でしょうね」
というか、洞窟に裸の男と2人きり、相手が怪我でもしていなければ結構ヤバいのでは?
それにこんな所を氷朱鷺に見られたら、発狂して男のソレをぶつ切りにしそうだ。
「お前、人のイチモツをそんなにガン見して恥ずかしくないのか?」
「なんか、オジサンのはどっかの裸族みたいな感覚で見れるんですよね。全然やらしくない」
「オジサン言うな」
さっきまでは気を遣って『お兄さん』なんて呼んでいたけれど、向こうも気を遣わないし『オジサン』で充分な気がした。
同じ中年でも杉山さんはオジサン感がまるで無いんだよなあ……品格の差か?
「じゃあ、先を急ぐんで私はこれで」
私は一通りオジサンの手当てを終え、彼に背を向けて一歩踏み出すと後ろから不満の声が向けられた。
「え、帰るのかよ!?」
「勿論勿論」
私が振り返ってオジサンの様子を確認すると、意外にも彼は心細そうに身を縮めていた。
なんなんだよ、この人は──
「ぇぇ……こんな真っ暗な洞窟で1人きり、心細ーい」
「やれやれ、ガサツで粗野なのに意外と気が小さいんですね?」
1人でお留守番の出来ない大型犬みたいだ。ま、そこまで可愛くないけれど。
「お前は結構失礼だよな」
「人を見て言っています」
「おい」
「ちょっと怖いかもしれませんが、朝まで我慢して下さい。足場も悪いですし、片足で歩き回る様な事はくれぐれも止めて下さいね」
私が恐れているのはオジサンが怪我をする事ではなく、彼が氷朱鷺に見つかってしまう事だ。それによりオジサンがどうなるかは未知数だが、間違いなく誰も幸せにならない。
「ぇえー、怖いー!」
まるで駄々を捏ねる悪ガキだ。
「明日の朝にまた食べ物を持って来ますから、ゆっくり休んで」
私が再度オジサンに背を向けて歩き出そうとすると、いきなりグンとシャツの襟足部分を掴まれて首が絞まった。
「うぐっ、何するんですかっ!」
私は振り返りざまにオジサンの胸に右ストレートをかます。
「いでっ!まあ、待て。もう少しいろって」
オジサンは片足で上手くバランスをとりながら殴られた胸を手で押さえている。
「自己紹介がまだだったろ?」
「え、あぁ、言われてみれば。でも興味ないんで」
「待て待て」
「うぐっ」
私はまたしても、帰ろうとするのを後ろから阻止され、首が絞まる。
「なんなんですか」
私が足を止めて睨みつけるも、オジサンは平気な顔で胸まで張っている。
「どうもどうも、俺は炭作平太郎(スミサク ヘイタロウ)フリーランスでヒモをやってる。まあ、経営コンサルタントみたいなもんよ」
フリーランスのヒモ!?
パワーワードだ。
「パラサイト系口出しニートって事ですね」
要約するとこれだ。
「とはいえ俺だってたまには外に稼ぎに行くよ?」
「パチンコですか?」
「おまっ、千里眼か」
そうして炭作オジサンは慄いていたが、その程度なら誰でも予測出来ると思った。
「ビールにパチンコにヒモ……家の父みたいな人だなあ」
要約するとクズだ。
「なんだぁ?お前の親父は飲んだくれのパチンカスのたらしか?っとにろくでもねーやつだな」
何気ない私の呟きに炭作オジサンが文字通り反吐を吐いた。
お前が言うな。
「男はな、酒と女と賭のうち2つまでなら嵌ってもいいが、それ以上はあかんねん」
お前が言うな(2)
「フルコンプやんけ」
「あ?」
「いえ、自分の事は自分が一番良く解っているなんて嘘だなって」
炭作オジサンがどこまで本気で言っているのか解らないが、彼がとんでもないクズである事の整合性はとれた。
「言っとくけど俺は金持ちのマダムからしか金はせしめねー主義だ」
胸を張るな、胸を。
「炭作オジサンはマダムの犬な訳ですね」
「そんでマダムから貰った小遣いでネオン街のナオン街に行って還元するんだよ」
還元……か?
「俺は経済を回してる、そう言いたいんですね?」
割と老害のオジサンがよく口にする言葉だ。
「よく解ったな、エスパー」
そして炭作オジサンは私の肩をポンと軽快に叩く。
「誰がエスパーですか」
私は炭作オジサンを冷たくあしらった。
「因みに俺にも超能力があるんだよ」
そう言って炭作オジサンがまた胸を張ったが、私はどうもこの男が信用出来なくて話半分で傾聴する。
「へぇ、どんな?」
またくだらない戯言を──
「お前、多摩川エデンていうだろ?」
「!」
私は反射的に顔を背けた。
完全に油断していた。自分が元王妃で有名人であった事をすっかり失念していたのだ。
「……とんだエスパーですね」
今更嘘をついたところでどうにもならない。そもそも私は嘘が苦手だ。
「まあな。俺、女の顔は忘れねーから。それが俺の特殊能力」
「無駄な能力を……」
私はチッと苦虫を噛み潰した。
「多摩ちゃん、死んだ事になってっけど、どうしたってこんな孤島に?」
多摩……ちゃん?
私はアザラシか。
多少引っ掛かるが、まあ、そこは面倒臭いからいいか。
「死んだんですよ。多摩川エデンは」
つまりは説明が面倒臭いって事だ。察しろ。
「あー、あ~、あ~ハーン」
炭作オジサンが勝手に何かを察してニヤニヤしだす。
なんなんだよ。
「駆け落ちかあ~」
「違──」
『う』と言いたいところだが、氷朱鷺としてはそのつもりだから駆け落ちなのか。
「王さん、可哀想~未だに嫁もとらずに多摩ちゃんの帰りを待ってるのに」
「私はっ……死んだ事になってるから……でももし炭作オジサンが無事にこの島を脱出出来ても、私が生きてる事は絶対に口外しないで下さい」
春臣には、どうか良い人を見つけて幸せになってほしい。
「ここから泳いでいける唯一の島って小さい無人島なんだろ?」
「はい」
「誰に言うねん!」
「でも、万が一の事も──」
ここで私ははたと思う。もし炭作オジサンがここを脱出して私や氷朱鷺の存在をよそに吹聴する可能性がほんの僅かでもあるとするなら、尚更、オジサンが氷朱鷺に見つかったら口封じに殺される。
絶対に負けられない戦いがここにある。
「オジサン、絶対に外をうろちょろしないで下さいね!!」
「ぉ、おう」
私が結構な勢いで炭作オジサンに迫ると、彼はその凄みに気圧されて後ろによろけた。
「明日は釣り竿とか炭なんかも用意するんで、出来る事は自分でもして下さいね?ちょくちょく様子は見に来ますけど、諸事情により来られない日もあると思うんで」
「ぉ、おう」
「今日はバタバタしてたんで、とりあえず今夜は持って来た衣服を着こんで、湯たんぽで凌いで」
「はいはい」
炭作オジサンはまるで口うるさい母親にどやされる息子の様な素振りでその場に座り込む。
「それから──」
「なあ?」
時間を気にしている私がつらつらと説明をしているなか、不意に炭作オジサンが話の腰を折る。
「はい?」
「この島にいるお前の彼氏って何者?」
一瞬、その言葉に風や波の音が掻き消された。
「彼氏、じゃないです」
随分と答え辛い事を聞くじゃないか。
「じゃないなら拉致でもされたん?」
「当たらずも遠からず」
「名前は?」
「聞いてどうするんですか、オジサンの知らない人ですよ」
氷朱鷺もこの国では時の人だった。例え炭作オジサンが他国の人間であってもニュース等で目にしている可能性がある。知らない方が良い事は知らせないでおこう。
「いやぁ、なんとなく。殺人鬼ならニュースで見てるかもって」
「そんなんで私を引き留めても無駄ですよ。もう行きますから」
「バレたか」
私は炭作オジサンの砕けた笑顔を尻目に洞窟を出ると、足早に家へと戻った。
家に戻ると氷朱鷺がキッチンで謎鳥の鍋を作っていて、私の濡れた体がそのグツグツに煮えた鍋を欲したのがわかった。
そうだ、半乾きだけど衣服が濡れてるんだった。猛ダッシュで慌てて帰って来たせいで忘れていた。
「えっ、エデン、どうしたの!?」
当然、氷朱鷺は私を見るなりお玉を放り出して駆け寄って来る。
「や、海に落ちた」
私はドキドキしながら嘘をついた。多分、目は泳いでいただろう。
「えぇ、エデンて運動神経抜群なのに」
「うん、落ちた」
「お風呂は沸かしてあるから、先に入ってきなよ。風邪ひいちゃうよ?」
「えっ、あ、ごめん。風呂焚き当番は私なのに……火付け大変だったでしょ?」
この家の風呂は火を焚き付けて沸かすタイプだが、氷朱鷺は火付けが苦手なのでなんとなく私が担当している。
「着火剤の松ぼっくり沢山使っちゃった」
私はテヘペロする氷朱鷺に一種の罪悪感の様なものを感じ、まともに顔が見れなかった。
「今日、ちょっと遅かったから心配したんだよ?」
「う、うん。ごめんね」
私は悪い事をしている訳でもないのに、隠し事をしているというだけで氷朱鷺に引け目を感じてしまう。
「海に落ちてたなんて、風呂なんか沸かしてないで探しに行けば良かったね?」
そこで氷朱鷺が私の生存を噛み締める様にギュッとハグしてきた。
「ぜ、全然全然、泳ぎは得意だし、暑かったからちょうど良かったんだよ。心配かけてごめんなさい」
私はてんで的外れな答えで縮こまる。
一体、私は何を言っているんだ。
「今日は曇りで肌寒かったじゃん。体もこんなに冷えて」
そう言って氷朱鷺は私の背中をガシガシ擦って温める。
「ご、ごめん、なさい」
「いや、そんなかしこまらないでよ笑」
「うん」
「そんなだと放したくなくなっちゃうよ」
私は氷朱鷺から旋毛にキスをされ、普段なら突き飛ばすところを後ろめたさから容易に受け入れてしまう。
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