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1巻
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我が国、ラデュイルでは作り出せなかった結界を張る魔術具。それを作り出したのがクルナディアだ。大国のクルナディアとの国力の差は歴然としており、何を学びに来るのかと不思議に思う。
「しかも王子だけではなく公爵令嬢も来るそうなんだ。案内役としてクルナディア語の通訳ができそうな令嬢が必要だが見つからなくて、クラリスに頼みたいと思っている」
「私がですか?」
さっきのクルナディア語はそのために試していたんだ。しまった……話してはいけなかった。私が基礎クラスにいることをおかしく思われてしまう。さーっと血の気が引いていく。座っているのに、くらりとして倒れそうになったら、すかさずアレクシス様が隣に座って支えてくれた。
両手を包み込むようにされ、アレクシス様の体温が伝わってくる。じんわりと心に伝わってくる熱に、動揺していた気持ちが少し落ち着く。
「クラリスを困らせるつもりはない。クルナディア語が話せるのを知られたら困るのだろう?」
「……はい」
「クラリスが困らない状況になるまで、言うつもりはない」
困らない状況になる? どういうこと?
「俺は、お前を困らせることはしない。約束しただろう?」
「アレクシス様……」
「呼び方が違う。俺はお前には許したはずだ。忘れるなと言っただろう?」
「……アレク様」
忘れてなんていない。八年前、王妃の庭でアレクシス様に会った時、そう呼ぶことを許された。でも、もう二度と話せないと思っていた。またこんな風に手をつなげるなんて……
「申し訳ありませんが、アレクシス様、俺がいることを忘れないでください」
「ああ、悪い。クラリス、もう授業が始まる。教室に戻ったほうがいい。改めて連絡するから待っていてくれ」
「……わかりました」
マルス様がいるのに、アレク様と手をつないで見つめ合ってしまった。なんて恥ずかしいことをしてしまったのかと、慌てて立ち上がる。
急いで基礎クラスの教室へ向かったが、もうすでに授業は始まっていた。だが、令嬢たちに呼び出された件を知っているからか、こちらを見る学生たちはくすくす笑っているだけだった。
さっきあったことは本当だったんだろうか。またアレク様に会えるんだろうか……期待した後で裏切られたらもっとつらくなるのはわかっているのに、それでも信じたいと思ってしまう。アレク様にふれられた足がまだ熱を持っているような気がした。
アレク様に再会してから三週間が過ぎ、何も音沙汰がないことに不安になり始めていた。あれはやっぱり何かの間違いだったのかもしれない。
夕食時、イライラしているのか、お義姉様がフォークを雑に置いた。ここしばらくお義姉様の機嫌が悪い。
「ねぇ、お義母様。まだどちらからも求婚してこないのだけど、いい加減遅すぎると思わない? 再来週には誕生日なのよ?」
「そうねぇ。誕生日には発表になると思っていたけど、もしかしたらお二人でけん制し合っているのではないかしら?」
「二人が私を巡って争っているってこと?」
「きっとそうに違いないわ」
「もう。そんなことしなくても、選ぶのは私なのに」
そう言いながらも悪い気はしないのか、お義姉様の機嫌は直ったようだ。
やっぱりアレク様もお義姉様に求婚するのかな。そう考えたら、胸が痛くなった。最初に婚約者候補選びのことを聞いた時はあきらめていたからか、こんなにも痛くなかったのに。会えてしまったせいで、私がアレク様の隣にいたいと願ってしまう。そんな未来はありえないとわかっていても。
食事室のドアがノックされ、家令のカールが入ってきた。食事中に入ってくるなんてめずらしいと思ったら、手に何かを持っている。
「ジュディット様、奥様、お食事中に失礼いたします。王宮から書簡が届けられました」
カールが持っていたのは美しい塗箱だった。その中に王家からの書簡が入っているらしい。それを見たお義姉様がうれしそうな顔で席を立って受け取る。
「やっと来たのね! でも、手紙での求婚なんて面白くないけど」
「面と向かって求婚するのは恥ずかしいのよ。開けてみたら?」
「ええ」
塗箱を開けると、そこには手紙が一通入っていた。
「一通だけなの?」
「あら。どちらの王子かしら?」
お義姉様が開いた手紙をお母様も覗き込む。私も内容が気になるけれど、黙って待っていた。手紙を読んだ二人の顔色が変わっていく。
「……何よ、これ」
「どういうことなの! カール!」
「ど、どうかいたしましたか?」
「これは誰宛に届いたの!?」
「え? あの、バルベナ公爵家令嬢宛でございました。ですので、ジュディット様だと思ったのですが、違いましたか?」
手紙を持ったまま、わなわなと震えていたお義姉様が、急にこちらを向いたと思ったら私に手紙を投げつけてきた。
腕にぶつかったけれど、痛くはない。落ちた手紙を拾おうとしたら、その手をぱしんと振り払われた。
「なんでよ! なんでクラリスが求婚されるの!」
「え?」
「いつの間にアレクシスと会っていたのよ!」
「……どういうこと?」
落ちた手紙を拾い上げて読んでみたら、私を第一王子アレクシスの婚約者候補とすると書かれていた。
「……きゅ、求婚なんてされていないわ」
「じゃあ、どうしてなのよ!?」
怖い顔をしたお義姉様とお母様に詰め寄られても、私にもどうしてなのかわからない。
「許せない……どうして求婚されたのが私じゃないの? おかしいわよ!」
「そうよ。どうしてジュディットではないの? クラリスが求婚されるわけがないわ。……ジュディット、大丈夫よ。これは何かの間違いなんだわ」
「お義母様……本当?」
「ええ、大丈夫。万が一がないように、クラリスはすぐに嫁がせましょう。分家のダニエルの後妻にでもすればいいわ。そうすればアレクシス様からの求婚を受けることなんてできなくなるもの」
私を分家のダニエルの妻にする? ダニエルって家に愛人を住まわせているとかで妻が逃げてしまった人。そんな人の後妻にされるなんて。
「お母様! 私はそんな人の妻になるのは嫌よ!」
「うるさいわね! とりあえずダニエルの妻にして、王家に嫁げない身体にしてからこの家に戻せばいいわ。あなたはずっとジュディットのために働くと決まっているのだから。カール! クラリスを閉じ込めておいて! すぐにダニエルを呼んでちょうだい!」
「お母様! どうしてそんなひどいことを!」
「黙りなさい!」
あまりのことに驚いてお母様にすがりつくようにして叫んだら、左頬をぶたれた。その勢いで床に倒れた私を、使用人たちが引きずって部屋へ連れていこうとする。
「やめて! 離して! お義姉様! 助けて!」
「ふん……いい気味だわ。クラリスのくせに私を出し抜こうとするからよ」
「そんな! お義姉様!」
お義姉様に助けを求めても冷たい目で見られ、無理やり廊下へ連れ出され、そのまま窓のない部屋へと押し込まれる。向こう側に物を置かれたのか、ドアを押してもびくともしない。
「そんな……ひどい。アレク様……私はどうしたら」
つぶやいても助けが来るわけがない。お母様は本気だった。ここに分家のダニエルが来たら、私はどうなってしまうのか。想像したら身体の震えが止まらなくなった。どこか隠れられないかと部屋の中を見回したけれど、そんな場所は見つからない。部屋のすみで小さくなって、助けが来ないかとそればかりを考える。
「アレク様……助けて。私、他の人の妻になんてなりたくない……」
3
ラデュイル国の第一王子として生まれた俺は、双子の弟ラファエルと一緒に育ってきたけれど、途中から俺の病気のせいでそういうわけにもいかなくなった。
ラファエルは性格の良い奴で、何かと俺にかまってくれていたけれど、母上は役に立ちそうにない俺を見捨てたのか冷たくなっていった。それも仕方ないことだとあきらめていたのだから、俺も子どもらしくなかったのかもしれない。
大事なお茶会があるから絶対に出席するようにと言われたのは、九歳の時だった。叔母上が嫁いだバルベナ公爵家とのお茶会だ。そういうのは面倒だと思ったけれど、母上に言われれば出席しないわけにもいかない。
お茶会の日、おとなしくラファエルと一緒にお茶会の場に向かおうとしたけれど、歩き始めたところで身体の異変に気がつく。これは……まずいかもしれない。突然立ち止まった俺をラファエルが心配そうに振り返った。
「アレクシス、どうかしたのか? もしかして、またか?」
「ああ……お茶会は無理そうだ。母上に言っておいてくれ」
「わかった……」
王妃の庭に入った後、俺だけお茶会の場ではなく奥にある小屋へと向かう。魔力を抑え切れなくなった時にやり過ごすための小屋だ。
ラファエルとは双子で生まれたのに、俺だけ桁違いな魔力を持っていた。その分、期待されていたようだが、俺は魔力を外に放出することができなかった。
もともと王族は魔力量が多いが、普通は三歳になる頃には自然に魔力を放出できるようになる。それができない場合、多すぎる魔力は身体を傷つけてしまうそうだ。俺は五歳になった時に倒れ、魔力が溜まりすぎていることがわかった。足りない場合は魔力を注いで補えても、この国の医術では多すぎる魔力を抜くことはできなかった。
六歳になった頃、溜まる一方の魔力に身体が振り回され、体調を崩すことが多くなった俺のため、国王である父上は隣国クルナディアに助けを求めた。我が国よりも魔術の研究が進んでいるクルナディアならば、俺の身体も治すことができるだろうと期待したのだ。同盟国の幼い王子が命を失うかもしれないということで、クルナディアの国王はすぐに魔術師を手配してくれた。
派遣されてきた魔術師は俺の状態を調べて、魔力を放出させるための腕輪を作ってくれた。その腕輪をつけて魔力を調整できるようになったおかげで体調を崩すことはなくなった。
それに喜んだ父上がクルナディアから魔術具を輸入すると決め、たくさんの魔術具がこの国で使われるようになった。今の王都を守っている結界もその一つだ。
ただ、クルナディアの魔術師でもこれほど俺の魔力が多いとは予想外だったのか、八歳を過ぎた頃から放出が追いつかず、また体調を崩すようになってしまった。魔術師たちが新しい腕輪を作ろうとしてくれているが、放出する力を強めるのは難しいらしく難航している。
もし、魔力が溜まりすぎて身体が耐え切れなくなれば、魔力暴走を起こしてしまうかもしれない。万が一を考え、危なくなった時に俺が一人でこもれるように小屋が用意された。
誰も来ることがない王妃の庭の奥。ここなら魔力暴走が起きても誰も巻き込まずに済む。ラファエルも護衛も使用人も、小屋に来るときは俺に付いてこようとしない。
今日のお茶会の客人はバルベナ公爵家の夫人と令嬢二人だと聞いていた。どちらも俺たちより二つ年下で七歳になったばかり。ようやく王宮に招待できると母上は喜んでいた。
降嫁した叔母が産んだ従妹は一人だけだと思っていたが、話を聞けば、もう一人は後妻の連れ子を養女にしたらしい。母上は養女のほうは気にしなくていいから、従妹を大事にするようにと言った。
ラファエルは何も考えていないようで従妹と会えるのを喜んでいたけど、俺はあまり会いたいと思わなかった。俺とラファエルをその令嬢に会わせるのは、将来の妃候補として考えているからで、その従妹と結婚するほうが王太子になるのだろう。
俺は王太子になるつもりはないし、まだ九歳なのに婚約の話は気が重かったから、会わなくて済んでよかったかもしれない。
そんなことを考えながら小屋に着いたら、小屋の中を覗こうとしている小さな女の子がいた。ドレス姿だから、どこかの貴族の令嬢か。王妃の庭にどうしているんだと思って声をかけてみたら、お茶会に招待されたバルベナ公爵家の令嬢だった。
思わず身構えそうになったけれど、連れ子のほうだと聞いてホッとする。この子は妃候補として紹介されるために来たわけじゃないし、どうやら夫人と従妹から邪魔だと言われて追い出されたようだ。
連れ子だからって、この子に責任はないのにな。濃い茶色の髪は貴族の令嬢としては評価されないかもしれない。それでもはっきりとした緑色の目は綺麗だし、よく見れば顔立ちも整っている。美しい令嬢に見えないのはおどおどした態度と、怒られるんじゃないかって不安そうな表情をしているせいだ。
なんとなくバルベナ公爵家の内情が見えた気がして、まだ会ったこともない夫人と従妹の意地の悪さが想像できた。
あまりにも不安そうにしているから、思わず頭を撫でてしまったら驚いたあとでうれしそうに笑う。
令嬢に勝手にさわってはいけないと教えられていたけれど、ついふれてしまったのは三歳下の弟と同じくらいの身長だったからかもしれない。
お茶会に戻れないなら一緒に遊べばいいかと思って、手をつないで奥へと向かう。クラリスを楽しませようと王妃の庭をあちこち連れ回して、自分が体調を崩していたのをすっかり忘れていた。気がついた時には魔力が溜まり切った身体が重くてうずくまる。
「どうしたのですか!?」
「……身体に魔力が溜まってしまっただけだ。少しすれば、落ち着く。魔力暴走するかもしれない。危ないから、離れていて……」
魔術具の腕輪が急作動して、魔力を放出しているのがわかる。ゆっくりだけど、少しずつ身体は楽になっていく。時間にしてみれば二十分ほどのことだったが、苦しんでいる俺には数時間にも感じられた。
顔を上げたら、クラリスはすぐそこに立っていた。危ないと言ったのに離れなかったのか。
「……もう、大丈夫だと思う」
「誰かに言って、水をもらってきましょうか?」
「いや、いい。あまり大げさにしたくないんだ。あぁ、でも、こんなに魔石を消耗してしまったらバレてしまうか」
いつもよりも放出している時間が長かった。その分、腕輪の魔石も消耗しているはずだ。魔術師にお願いして魔力を補充してもらわなくてはいけない。また母上が騒ぐだろうと思ったら気が重くなる。
「これに魔力を入れればいいのですね?」
「は?」
クラリスは魔術具にふれると、中に入っている魔石に魔力を入れ始めた。
魔力を持っている者は三歳頃から自然に放出できるとは聞いている。だけど、この魔石に魔力を入れられるほどの魔力量の者というと、派遣されてきたクルナディアの魔術師の中でも限られているのに。
「はい。いっぱいになりました。これでバレませんね」
あっさりと魔石に魔力を込め終えたクラリスはにっこり笑ったけれど、これがどれほどのことを意味するのか気づいた俺は笑えなかった。深刻な顔をしている俺を見て、クラリスもまずいと思ったようだ。
「あ、あの」
「クラリス、誰にも言わないから教えてくれ。魔石に魔力を入れることに慣れているんだな?」
「…………内緒にしてくれませんか?」
「もちろんだ。約束する」
クラリスの話は予想通りだった。王都に結界を張るようになってから、高位の貴族は魔石を納めることが義務づけられた。王都を守ることは自分たちの生活も守ることになる。それは問題ないと思う。
だが、バルベナ公爵家から納められている魔石は、クラリスが一人で魔力を込めているという。しかも、五歳の頃から。
貴族家ごとに割り振られた量の魔石に、誰が魔力を込めるのかはその貴族家による。当主夫妻以外に魔石を作らせることも可能だ。しかし、令息令嬢がする場合は十二歳以上でなければならない。王家からそう通達されている。それなのに、五歳から一人でさせられているとは……
「これは絶対に内緒だってお母様が……知られたら公爵家から追い出されてしまうって」
「そうか」
どうやら内緒にしておくようにと言われていたのを、すっかり忘れていたらしい。俺が困っていたから助けようとしてくれたのだろうけど。しっかりしているように見えても、まだ七歳なんだもんな。
公爵家から追い出されるというのは夫人の嘘だろう。内緒にさせていた理由はわかる。子どものクラリスに魔石作りをさせていることが知られれば、王家から処罰を受けるからだ。
これを俺が父上に話してしまえば、大きな問題になる。夫人も罰を受けるだろうが、離縁されるほどではないと思う。これからもクラリスが公爵家で生活していくことを考えたら、この件は内緒にしておいたほうがいい。
涙目になっているクラリスの頭を撫でて、安心させるように目を合わせた。
「大丈夫だ。俺は何も言わない。クラリスは俺を助けようとしてくれたんだろう? そのクラリスが困ることはしないよ」
「あ、ありがとうございます」
安心したのか、ホッとしたように笑った。よかった。クラリスには泣いてほしくない。笑ったらこんなにも可愛いし、俺も安心する。気が緩んだからか、思わず愚痴をこぼしてしまった。
「俺もクラリスみたいに魔力を外に出せたらいいのにな」
「アレクシス様は出せないのですか?」
「ああ。自然に放出することができない体質らしくて、どうやって出すのかわからないんだ」
魔術師もどうしていいのかわからないようだった。放出できない体質なのだろうとは言われたが、それを治すことができるのかどうかもわからなかった。魔力を放出できるようにならなかったら、俺は年々増えていく魔力で、いつか身体がダメになってしまう。
俺にできるのは魔術師たちが新しい腕輪を作り出してくれるのを待っていることだけ。自分の力でどうにかするのはあきらめていたのに、クラリスは一生懸命教えようとする。
「えっとね、魔石ってとても冷たいんです。だから、温めようとすると指先から魔力が出てきます」
「温めようとすると出てくる?」
「そう。あ、私の手を温めてみてください」
差し出されたクラリスの手をにぎると、さっきより冷たくなっていた。魔力をたくさん使ったからか、指先が特に冷たい。俺のために魔力を込めてくれたんだよなと思うと、申し訳ないような、うれしいような不思議な感じがした。
少しでもクラリスの冷たい手が温まればいいと、ぎゅっと握って温めようとする。その時、するりと指先から何かが抜けた気がした。
「あ! それ! 今のアレクシス様の魔力です! 続けて!」
「今のが?」
続けてと言われてもどうしたらいいのかわからない。クラリスの手を温めようとすればいいのかと思い、もう一度ぎゅっと握る。今度は確実に何かが指先から抜けていくのを感じた。これが魔力を込めるということか……
魔力を放出することができた。これで俺は死ななくていい! もう、父上や母上、ラファエルたちを悲しませないで済むんだ!
うれしくてずっと魔力を流していたら、途中でクラリスに止められた。
「アレクシス様、私に魔力を渡しすぎです。今度はアレクシス様の手が冷えてしまいますよ?」
「あ、そうか」
やりすぎたかと思ったら、クラリスが手を温めてくれる。じんわりと身体の中に熱が入り込んできて、これがクラリスの魔力なのだとわかった。身体だけじゃなく、心まで温まっていくみたいだ。まるで生まれ変わったような気持ちになって、うれしくてうれしくて、あふれそうな感情を抑え切れずクラリスを抱きしめた。
「感謝するよ、クラリス!」
「えへへ。お役に立ててうれしいです!」
「何か褒美で欲しいものはないか?」
「……褒美ですか? じゃあ、またアレクシス様と遊びたいです」
「俺と?」
「はい。誰かに遊んでもらうのは初めてだったので。またアレクシス様と遊べたらうれしいです」
誰かと遊んでもらうのは初めてって、使用人や家族も遊んでくれないってことなのか? そういえば母親と義姉に追い出されてここに来たのだと思い出した。
たった数時間遊んだだけなのに、クラリスはそれが褒美だと。本気で言っているのがわかるから、もどかしくなる。クラリスはすごいことをしたのだから、もっと望んでもいいのに。
期待するような目で見上げられて、俺はクラリスの味方になろうと決めた。家族が、母親がクラリスを守らないなら俺が守ろう。
「いいよ、また俺と遊ぼう」
「わぁ! ありがとうございます!」
こんな小さなことで喜んでいるクラリスの手をとって、その前に跪いた。まるで父上に忠誠を誓った騎士のように。
「どうかしました? アレクシス様?」
「クラリスは俺をアレクと呼んでいい」
「アレク様?」
「そうだ。俺はクラリスに何かあったら絶対に守ると誓うよ。俺はいつでもお前の味方になる。だから、困ったことがあれば俺に言ってほしい」
「はい」
七歳のクラリスには意味がわからないだろうと思いながらも、愛称で呼ぶ許可を出した。
父上たちは従妹のほうと結婚してほしいのだろうが、それはラファエルに任せればいい。俺はもうクラリスを見つけてしまったのだから。
ずっとそのまま二人でいたかったけれど、夕方になって女官が探しに来た。女官は俺とクラリスが一緒にいるのを見て驚いていたが、俺がお茶会の場に連れていくことにした。あまりにも女官の態度が悪かったからだ。
誰がそう命じたのかはわからないが、公爵令嬢へとっていい態度ではない。あとで女官長から注意させようと思いながら、クラリスを案内する。
クラリスはさっきまであんなに笑ってくれていたのに、女官のせいですっかりしおれてしまっている。いや、これはお茶会の席に行きたくないからかもしれない。母親と従妹がいるから、もう楽しいことがなくなってしまうと思っているに違いない。
屋敷に戻れば誰も遊んでくれないし、王宮にいつ来られるかもわからない。不安になるのも当然だ。
ああ、俺がもっと大きかったらな。せめて十五歳以上になっていれば、すぐにでもクラリスを助け出せるのに。まだ九歳の俺にはできることは何もない。
屋敷に帰したくなくても、帰さなくてはいけない。それが悔しくてクラリスと約束をした。大人になったら迎えに行くと。そう約束した時、クラリスは少しだけ泣いたけれど、うれしそうに笑ってくれた。
手をつないだままお茶会の場所に向かうと、お茶会の席には母上とラファエル、その向かい側に金髪の令嬢と薄茶色の髪の夫人が座っている。あれが従妹とクラリスの母親か。
俺がクラリスの手をつないで連れて帰ってきたのを見て、ラファエルは笑って迎え入れてくれたが、クラリスの母親はそうじゃなかった。俺とクラリスの手を無理やり離すと、クラリスの頬を思いきり叩いた。
「何をするんだ!」
「申し訳ございません。身分も弁えないこの子がご迷惑をおかけしました。すぐに連れて帰りますので! クラリス、帰りますよ!」
「……お母様」
「やめろ、クラリスは何も迷惑をかけていない!」
「いいえ、アレクシス様。クラリスは王子のそばにいていい者ではありません。これ以上失礼なことをする前に連れて帰らせてください。王妃様申し訳ございません。私はクラリスを連れて帰りますので、ジュディットをお願いいたします」
引きずるようにしてクラリスを連れて帰ろうとする母親に抗議しようとしたところで、母上に止められた。どうしてだと思ったら、母上はクラリスを冷たい目で見ている。
後からわかったことだが、母上は公爵夫人とジュディットから嘘をつかれていた。クラリスは礼儀作法も怪しい上に母親の言うことを聞かない、ジュディットをうらやましがり、義姉の物を盗もうとする。そんなでまかせを散々聞かされていたせいで、公爵夫人がクラリスを無理やり連れて帰っても疑問に思わなかったのだ。
クラリスが連れ帰られた後も、なぜかジュディットは楽しそうな顔で席に座ったままだった。
「しかも王子だけではなく公爵令嬢も来るそうなんだ。案内役としてクルナディア語の通訳ができそうな令嬢が必要だが見つからなくて、クラリスに頼みたいと思っている」
「私がですか?」
さっきのクルナディア語はそのために試していたんだ。しまった……話してはいけなかった。私が基礎クラスにいることをおかしく思われてしまう。さーっと血の気が引いていく。座っているのに、くらりとして倒れそうになったら、すかさずアレクシス様が隣に座って支えてくれた。
両手を包み込むようにされ、アレクシス様の体温が伝わってくる。じんわりと心に伝わってくる熱に、動揺していた気持ちが少し落ち着く。
「クラリスを困らせるつもりはない。クルナディア語が話せるのを知られたら困るのだろう?」
「……はい」
「クラリスが困らない状況になるまで、言うつもりはない」
困らない状況になる? どういうこと?
「俺は、お前を困らせることはしない。約束しただろう?」
「アレクシス様……」
「呼び方が違う。俺はお前には許したはずだ。忘れるなと言っただろう?」
「……アレク様」
忘れてなんていない。八年前、王妃の庭でアレクシス様に会った時、そう呼ぶことを許された。でも、もう二度と話せないと思っていた。またこんな風に手をつなげるなんて……
「申し訳ありませんが、アレクシス様、俺がいることを忘れないでください」
「ああ、悪い。クラリス、もう授業が始まる。教室に戻ったほうがいい。改めて連絡するから待っていてくれ」
「……わかりました」
マルス様がいるのに、アレク様と手をつないで見つめ合ってしまった。なんて恥ずかしいことをしてしまったのかと、慌てて立ち上がる。
急いで基礎クラスの教室へ向かったが、もうすでに授業は始まっていた。だが、令嬢たちに呼び出された件を知っているからか、こちらを見る学生たちはくすくす笑っているだけだった。
さっきあったことは本当だったんだろうか。またアレク様に会えるんだろうか……期待した後で裏切られたらもっとつらくなるのはわかっているのに、それでも信じたいと思ってしまう。アレク様にふれられた足がまだ熱を持っているような気がした。
アレク様に再会してから三週間が過ぎ、何も音沙汰がないことに不安になり始めていた。あれはやっぱり何かの間違いだったのかもしれない。
夕食時、イライラしているのか、お義姉様がフォークを雑に置いた。ここしばらくお義姉様の機嫌が悪い。
「ねぇ、お義母様。まだどちらからも求婚してこないのだけど、いい加減遅すぎると思わない? 再来週には誕生日なのよ?」
「そうねぇ。誕生日には発表になると思っていたけど、もしかしたらお二人でけん制し合っているのではないかしら?」
「二人が私を巡って争っているってこと?」
「きっとそうに違いないわ」
「もう。そんなことしなくても、選ぶのは私なのに」
そう言いながらも悪い気はしないのか、お義姉様の機嫌は直ったようだ。
やっぱりアレク様もお義姉様に求婚するのかな。そう考えたら、胸が痛くなった。最初に婚約者候補選びのことを聞いた時はあきらめていたからか、こんなにも痛くなかったのに。会えてしまったせいで、私がアレク様の隣にいたいと願ってしまう。そんな未来はありえないとわかっていても。
食事室のドアがノックされ、家令のカールが入ってきた。食事中に入ってくるなんてめずらしいと思ったら、手に何かを持っている。
「ジュディット様、奥様、お食事中に失礼いたします。王宮から書簡が届けられました」
カールが持っていたのは美しい塗箱だった。その中に王家からの書簡が入っているらしい。それを見たお義姉様がうれしそうな顔で席を立って受け取る。
「やっと来たのね! でも、手紙での求婚なんて面白くないけど」
「面と向かって求婚するのは恥ずかしいのよ。開けてみたら?」
「ええ」
塗箱を開けると、そこには手紙が一通入っていた。
「一通だけなの?」
「あら。どちらの王子かしら?」
お義姉様が開いた手紙をお母様も覗き込む。私も内容が気になるけれど、黙って待っていた。手紙を読んだ二人の顔色が変わっていく。
「……何よ、これ」
「どういうことなの! カール!」
「ど、どうかいたしましたか?」
「これは誰宛に届いたの!?」
「え? あの、バルベナ公爵家令嬢宛でございました。ですので、ジュディット様だと思ったのですが、違いましたか?」
手紙を持ったまま、わなわなと震えていたお義姉様が、急にこちらを向いたと思ったら私に手紙を投げつけてきた。
腕にぶつかったけれど、痛くはない。落ちた手紙を拾おうとしたら、その手をぱしんと振り払われた。
「なんでよ! なんでクラリスが求婚されるの!」
「え?」
「いつの間にアレクシスと会っていたのよ!」
「……どういうこと?」
落ちた手紙を拾い上げて読んでみたら、私を第一王子アレクシスの婚約者候補とすると書かれていた。
「……きゅ、求婚なんてされていないわ」
「じゃあ、どうしてなのよ!?」
怖い顔をしたお義姉様とお母様に詰め寄られても、私にもどうしてなのかわからない。
「許せない……どうして求婚されたのが私じゃないの? おかしいわよ!」
「そうよ。どうしてジュディットではないの? クラリスが求婚されるわけがないわ。……ジュディット、大丈夫よ。これは何かの間違いなんだわ」
「お義母様……本当?」
「ええ、大丈夫。万が一がないように、クラリスはすぐに嫁がせましょう。分家のダニエルの後妻にでもすればいいわ。そうすればアレクシス様からの求婚を受けることなんてできなくなるもの」
私を分家のダニエルの妻にする? ダニエルって家に愛人を住まわせているとかで妻が逃げてしまった人。そんな人の後妻にされるなんて。
「お母様! 私はそんな人の妻になるのは嫌よ!」
「うるさいわね! とりあえずダニエルの妻にして、王家に嫁げない身体にしてからこの家に戻せばいいわ。あなたはずっとジュディットのために働くと決まっているのだから。カール! クラリスを閉じ込めておいて! すぐにダニエルを呼んでちょうだい!」
「お母様! どうしてそんなひどいことを!」
「黙りなさい!」
あまりのことに驚いてお母様にすがりつくようにして叫んだら、左頬をぶたれた。その勢いで床に倒れた私を、使用人たちが引きずって部屋へ連れていこうとする。
「やめて! 離して! お義姉様! 助けて!」
「ふん……いい気味だわ。クラリスのくせに私を出し抜こうとするからよ」
「そんな! お義姉様!」
お義姉様に助けを求めても冷たい目で見られ、無理やり廊下へ連れ出され、そのまま窓のない部屋へと押し込まれる。向こう側に物を置かれたのか、ドアを押してもびくともしない。
「そんな……ひどい。アレク様……私はどうしたら」
つぶやいても助けが来るわけがない。お母様は本気だった。ここに分家のダニエルが来たら、私はどうなってしまうのか。想像したら身体の震えが止まらなくなった。どこか隠れられないかと部屋の中を見回したけれど、そんな場所は見つからない。部屋のすみで小さくなって、助けが来ないかとそればかりを考える。
「アレク様……助けて。私、他の人の妻になんてなりたくない……」
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ラデュイル国の第一王子として生まれた俺は、双子の弟ラファエルと一緒に育ってきたけれど、途中から俺の病気のせいでそういうわけにもいかなくなった。
ラファエルは性格の良い奴で、何かと俺にかまってくれていたけれど、母上は役に立ちそうにない俺を見捨てたのか冷たくなっていった。それも仕方ないことだとあきらめていたのだから、俺も子どもらしくなかったのかもしれない。
大事なお茶会があるから絶対に出席するようにと言われたのは、九歳の時だった。叔母上が嫁いだバルベナ公爵家とのお茶会だ。そういうのは面倒だと思ったけれど、母上に言われれば出席しないわけにもいかない。
お茶会の日、おとなしくラファエルと一緒にお茶会の場に向かおうとしたけれど、歩き始めたところで身体の異変に気がつく。これは……まずいかもしれない。突然立ち止まった俺をラファエルが心配そうに振り返った。
「アレクシス、どうかしたのか? もしかして、またか?」
「ああ……お茶会は無理そうだ。母上に言っておいてくれ」
「わかった……」
王妃の庭に入った後、俺だけお茶会の場ではなく奥にある小屋へと向かう。魔力を抑え切れなくなった時にやり過ごすための小屋だ。
ラファエルとは双子で生まれたのに、俺だけ桁違いな魔力を持っていた。その分、期待されていたようだが、俺は魔力を外に放出することができなかった。
もともと王族は魔力量が多いが、普通は三歳になる頃には自然に魔力を放出できるようになる。それができない場合、多すぎる魔力は身体を傷つけてしまうそうだ。俺は五歳になった時に倒れ、魔力が溜まりすぎていることがわかった。足りない場合は魔力を注いで補えても、この国の医術では多すぎる魔力を抜くことはできなかった。
六歳になった頃、溜まる一方の魔力に身体が振り回され、体調を崩すことが多くなった俺のため、国王である父上は隣国クルナディアに助けを求めた。我が国よりも魔術の研究が進んでいるクルナディアならば、俺の身体も治すことができるだろうと期待したのだ。同盟国の幼い王子が命を失うかもしれないということで、クルナディアの国王はすぐに魔術師を手配してくれた。
派遣されてきた魔術師は俺の状態を調べて、魔力を放出させるための腕輪を作ってくれた。その腕輪をつけて魔力を調整できるようになったおかげで体調を崩すことはなくなった。
それに喜んだ父上がクルナディアから魔術具を輸入すると決め、たくさんの魔術具がこの国で使われるようになった。今の王都を守っている結界もその一つだ。
ただ、クルナディアの魔術師でもこれほど俺の魔力が多いとは予想外だったのか、八歳を過ぎた頃から放出が追いつかず、また体調を崩すようになってしまった。魔術師たちが新しい腕輪を作ろうとしてくれているが、放出する力を強めるのは難しいらしく難航している。
もし、魔力が溜まりすぎて身体が耐え切れなくなれば、魔力暴走を起こしてしまうかもしれない。万が一を考え、危なくなった時に俺が一人でこもれるように小屋が用意された。
誰も来ることがない王妃の庭の奥。ここなら魔力暴走が起きても誰も巻き込まずに済む。ラファエルも護衛も使用人も、小屋に来るときは俺に付いてこようとしない。
今日のお茶会の客人はバルベナ公爵家の夫人と令嬢二人だと聞いていた。どちらも俺たちより二つ年下で七歳になったばかり。ようやく王宮に招待できると母上は喜んでいた。
降嫁した叔母が産んだ従妹は一人だけだと思っていたが、話を聞けば、もう一人は後妻の連れ子を養女にしたらしい。母上は養女のほうは気にしなくていいから、従妹を大事にするようにと言った。
ラファエルは何も考えていないようで従妹と会えるのを喜んでいたけど、俺はあまり会いたいと思わなかった。俺とラファエルをその令嬢に会わせるのは、将来の妃候補として考えているからで、その従妹と結婚するほうが王太子になるのだろう。
俺は王太子になるつもりはないし、まだ九歳なのに婚約の話は気が重かったから、会わなくて済んでよかったかもしれない。
そんなことを考えながら小屋に着いたら、小屋の中を覗こうとしている小さな女の子がいた。ドレス姿だから、どこかの貴族の令嬢か。王妃の庭にどうしているんだと思って声をかけてみたら、お茶会に招待されたバルベナ公爵家の令嬢だった。
思わず身構えそうになったけれど、連れ子のほうだと聞いてホッとする。この子は妃候補として紹介されるために来たわけじゃないし、どうやら夫人と従妹から邪魔だと言われて追い出されたようだ。
連れ子だからって、この子に責任はないのにな。濃い茶色の髪は貴族の令嬢としては評価されないかもしれない。それでもはっきりとした緑色の目は綺麗だし、よく見れば顔立ちも整っている。美しい令嬢に見えないのはおどおどした態度と、怒られるんじゃないかって不安そうな表情をしているせいだ。
なんとなくバルベナ公爵家の内情が見えた気がして、まだ会ったこともない夫人と従妹の意地の悪さが想像できた。
あまりにも不安そうにしているから、思わず頭を撫でてしまったら驚いたあとでうれしそうに笑う。
令嬢に勝手にさわってはいけないと教えられていたけれど、ついふれてしまったのは三歳下の弟と同じくらいの身長だったからかもしれない。
お茶会に戻れないなら一緒に遊べばいいかと思って、手をつないで奥へと向かう。クラリスを楽しませようと王妃の庭をあちこち連れ回して、自分が体調を崩していたのをすっかり忘れていた。気がついた時には魔力が溜まり切った身体が重くてうずくまる。
「どうしたのですか!?」
「……身体に魔力が溜まってしまっただけだ。少しすれば、落ち着く。魔力暴走するかもしれない。危ないから、離れていて……」
魔術具の腕輪が急作動して、魔力を放出しているのがわかる。ゆっくりだけど、少しずつ身体は楽になっていく。時間にしてみれば二十分ほどのことだったが、苦しんでいる俺には数時間にも感じられた。
顔を上げたら、クラリスはすぐそこに立っていた。危ないと言ったのに離れなかったのか。
「……もう、大丈夫だと思う」
「誰かに言って、水をもらってきましょうか?」
「いや、いい。あまり大げさにしたくないんだ。あぁ、でも、こんなに魔石を消耗してしまったらバレてしまうか」
いつもよりも放出している時間が長かった。その分、腕輪の魔石も消耗しているはずだ。魔術師にお願いして魔力を補充してもらわなくてはいけない。また母上が騒ぐだろうと思ったら気が重くなる。
「これに魔力を入れればいいのですね?」
「は?」
クラリスは魔術具にふれると、中に入っている魔石に魔力を入れ始めた。
魔力を持っている者は三歳頃から自然に放出できるとは聞いている。だけど、この魔石に魔力を入れられるほどの魔力量の者というと、派遣されてきたクルナディアの魔術師の中でも限られているのに。
「はい。いっぱいになりました。これでバレませんね」
あっさりと魔石に魔力を込め終えたクラリスはにっこり笑ったけれど、これがどれほどのことを意味するのか気づいた俺は笑えなかった。深刻な顔をしている俺を見て、クラリスもまずいと思ったようだ。
「あ、あの」
「クラリス、誰にも言わないから教えてくれ。魔石に魔力を入れることに慣れているんだな?」
「…………内緒にしてくれませんか?」
「もちろんだ。約束する」
クラリスの話は予想通りだった。王都に結界を張るようになってから、高位の貴族は魔石を納めることが義務づけられた。王都を守ることは自分たちの生活も守ることになる。それは問題ないと思う。
だが、バルベナ公爵家から納められている魔石は、クラリスが一人で魔力を込めているという。しかも、五歳の頃から。
貴族家ごとに割り振られた量の魔石に、誰が魔力を込めるのかはその貴族家による。当主夫妻以外に魔石を作らせることも可能だ。しかし、令息令嬢がする場合は十二歳以上でなければならない。王家からそう通達されている。それなのに、五歳から一人でさせられているとは……
「これは絶対に内緒だってお母様が……知られたら公爵家から追い出されてしまうって」
「そうか」
どうやら内緒にしておくようにと言われていたのを、すっかり忘れていたらしい。俺が困っていたから助けようとしてくれたのだろうけど。しっかりしているように見えても、まだ七歳なんだもんな。
公爵家から追い出されるというのは夫人の嘘だろう。内緒にさせていた理由はわかる。子どものクラリスに魔石作りをさせていることが知られれば、王家から処罰を受けるからだ。
これを俺が父上に話してしまえば、大きな問題になる。夫人も罰を受けるだろうが、離縁されるほどではないと思う。これからもクラリスが公爵家で生活していくことを考えたら、この件は内緒にしておいたほうがいい。
涙目になっているクラリスの頭を撫でて、安心させるように目を合わせた。
「大丈夫だ。俺は何も言わない。クラリスは俺を助けようとしてくれたんだろう? そのクラリスが困ることはしないよ」
「あ、ありがとうございます」
安心したのか、ホッとしたように笑った。よかった。クラリスには泣いてほしくない。笑ったらこんなにも可愛いし、俺も安心する。気が緩んだからか、思わず愚痴をこぼしてしまった。
「俺もクラリスみたいに魔力を外に出せたらいいのにな」
「アレクシス様は出せないのですか?」
「ああ。自然に放出することができない体質らしくて、どうやって出すのかわからないんだ」
魔術師もどうしていいのかわからないようだった。放出できない体質なのだろうとは言われたが、それを治すことができるのかどうかもわからなかった。魔力を放出できるようにならなかったら、俺は年々増えていく魔力で、いつか身体がダメになってしまう。
俺にできるのは魔術師たちが新しい腕輪を作り出してくれるのを待っていることだけ。自分の力でどうにかするのはあきらめていたのに、クラリスは一生懸命教えようとする。
「えっとね、魔石ってとても冷たいんです。だから、温めようとすると指先から魔力が出てきます」
「温めようとすると出てくる?」
「そう。あ、私の手を温めてみてください」
差し出されたクラリスの手をにぎると、さっきより冷たくなっていた。魔力をたくさん使ったからか、指先が特に冷たい。俺のために魔力を込めてくれたんだよなと思うと、申し訳ないような、うれしいような不思議な感じがした。
少しでもクラリスの冷たい手が温まればいいと、ぎゅっと握って温めようとする。その時、するりと指先から何かが抜けた気がした。
「あ! それ! 今のアレクシス様の魔力です! 続けて!」
「今のが?」
続けてと言われてもどうしたらいいのかわからない。クラリスの手を温めようとすればいいのかと思い、もう一度ぎゅっと握る。今度は確実に何かが指先から抜けていくのを感じた。これが魔力を込めるということか……
魔力を放出することができた。これで俺は死ななくていい! もう、父上や母上、ラファエルたちを悲しませないで済むんだ!
うれしくてずっと魔力を流していたら、途中でクラリスに止められた。
「アレクシス様、私に魔力を渡しすぎです。今度はアレクシス様の手が冷えてしまいますよ?」
「あ、そうか」
やりすぎたかと思ったら、クラリスが手を温めてくれる。じんわりと身体の中に熱が入り込んできて、これがクラリスの魔力なのだとわかった。身体だけじゃなく、心まで温まっていくみたいだ。まるで生まれ変わったような気持ちになって、うれしくてうれしくて、あふれそうな感情を抑え切れずクラリスを抱きしめた。
「感謝するよ、クラリス!」
「えへへ。お役に立ててうれしいです!」
「何か褒美で欲しいものはないか?」
「……褒美ですか? じゃあ、またアレクシス様と遊びたいです」
「俺と?」
「はい。誰かに遊んでもらうのは初めてだったので。またアレクシス様と遊べたらうれしいです」
誰かと遊んでもらうのは初めてって、使用人や家族も遊んでくれないってことなのか? そういえば母親と義姉に追い出されてここに来たのだと思い出した。
たった数時間遊んだだけなのに、クラリスはそれが褒美だと。本気で言っているのがわかるから、もどかしくなる。クラリスはすごいことをしたのだから、もっと望んでもいいのに。
期待するような目で見上げられて、俺はクラリスの味方になろうと決めた。家族が、母親がクラリスを守らないなら俺が守ろう。
「いいよ、また俺と遊ぼう」
「わぁ! ありがとうございます!」
こんな小さなことで喜んでいるクラリスの手をとって、その前に跪いた。まるで父上に忠誠を誓った騎士のように。
「どうかしました? アレクシス様?」
「クラリスは俺をアレクと呼んでいい」
「アレク様?」
「そうだ。俺はクラリスに何かあったら絶対に守ると誓うよ。俺はいつでもお前の味方になる。だから、困ったことがあれば俺に言ってほしい」
「はい」
七歳のクラリスには意味がわからないだろうと思いながらも、愛称で呼ぶ許可を出した。
父上たちは従妹のほうと結婚してほしいのだろうが、それはラファエルに任せればいい。俺はもうクラリスを見つけてしまったのだから。
ずっとそのまま二人でいたかったけれど、夕方になって女官が探しに来た。女官は俺とクラリスが一緒にいるのを見て驚いていたが、俺がお茶会の場に連れていくことにした。あまりにも女官の態度が悪かったからだ。
誰がそう命じたのかはわからないが、公爵令嬢へとっていい態度ではない。あとで女官長から注意させようと思いながら、クラリスを案内する。
クラリスはさっきまであんなに笑ってくれていたのに、女官のせいですっかりしおれてしまっている。いや、これはお茶会の席に行きたくないからかもしれない。母親と従妹がいるから、もう楽しいことがなくなってしまうと思っているに違いない。
屋敷に戻れば誰も遊んでくれないし、王宮にいつ来られるかもわからない。不安になるのも当然だ。
ああ、俺がもっと大きかったらな。せめて十五歳以上になっていれば、すぐにでもクラリスを助け出せるのに。まだ九歳の俺にはできることは何もない。
屋敷に帰したくなくても、帰さなくてはいけない。それが悔しくてクラリスと約束をした。大人になったら迎えに行くと。そう約束した時、クラリスは少しだけ泣いたけれど、うれしそうに笑ってくれた。
手をつないだままお茶会の場所に向かうと、お茶会の席には母上とラファエル、その向かい側に金髪の令嬢と薄茶色の髪の夫人が座っている。あれが従妹とクラリスの母親か。
俺がクラリスの手をつないで連れて帰ってきたのを見て、ラファエルは笑って迎え入れてくれたが、クラリスの母親はそうじゃなかった。俺とクラリスの手を無理やり離すと、クラリスの頬を思いきり叩いた。
「何をするんだ!」
「申し訳ございません。身分も弁えないこの子がご迷惑をおかけしました。すぐに連れて帰りますので! クラリス、帰りますよ!」
「……お母様」
「やめろ、クラリスは何も迷惑をかけていない!」
「いいえ、アレクシス様。クラリスは王子のそばにいていい者ではありません。これ以上失礼なことをする前に連れて帰らせてください。王妃様申し訳ございません。私はクラリスを連れて帰りますので、ジュディットをお願いいたします」
引きずるようにしてクラリスを連れて帰ろうとする母親に抗議しようとしたところで、母上に止められた。どうしてだと思ったら、母上はクラリスを冷たい目で見ている。
後からわかったことだが、母上は公爵夫人とジュディットから嘘をつかれていた。クラリスは礼儀作法も怪しい上に母親の言うことを聞かない、ジュディットをうらやましがり、義姉の物を盗もうとする。そんなでまかせを散々聞かされていたせいで、公爵夫人がクラリスを無理やり連れて帰っても疑問に思わなかったのだ。
クラリスが連れ帰られた後も、なぜかジュディットは楽しそうな顔で席に座ったままだった。
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