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第一章

第2話 お前には殺しの嫌疑がかけられている

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 突然首を掴まれた。
 慌てて目を開ければ、真っ暗な部屋。そこが自分の部屋で、今まで寝ていたということはすぐに理解した。

 理解できなかったのは、この首の感触と私に覆いかぶさる人影。

「何ッ……嫌、嫌ぁあああああ!!」
「うわ、うるさ」
「ッ……!?」

 悲鳴を上げた口は、大きな手に塞がれた。
 ……ちょっと待って本当に大きい。口を塞ぎたいだけだろうに、その手は私の鼻まですっぽり覆ってしまって息がしづらい。
 じたばたと必死に手足を動かして抵抗しても、私を拘束する口元の手はびくともしない。爪を立てて引っ掻いてみても、無視されるどころか気付かれていないんじゃないかと思えるくらい反応がなくて。
 相手はきっと男の人なのだろう。それは影の大きさで最初から察していた。手の大きさもさっきの声も、そしてこの力も、その考えが正しいことを裏付けている。

 ああ、無理だ。
 この男が強盗なのか何なのか分からないけれど、私にはこれ以上抵抗する術がない。指一本すら引き剥がせないのに、他に何をしたらいいか分からない。
 殺されてしまうのか、暴行されてしまうのか。少し先の自分の未来を考えて目に涙が滲んだ。

「さっさと済ますか」

 男の声がする。真っ暗で相手の姿はほとんど見えないけれど、声の方向からなんとなくこっちが顔なんじゃないかって場所が分かった。
 無意識にそっちに目を向ければ、紫色の光が私を射抜く。

 これは何?
 見たことのない、綺麗な光が二つ。相手の目の位置にあるような気がするけれど、それは有り得ないから別の何かだろう。

 胸がざわざわする。
 綺麗なはずなのに、目を逸らせないのに、何故だか胸の奥で何かが騒ぎ立てる。それは感動とか喜びとかそういうじゃなくて、ただひたすらに胸を内側から掻き毟るような、そんな不快な感覚だった。

「……はァ?」

 男の声。不愉快そうな、納得できていないような、わけが分からないとでも言いたげな声色。
 同時に少しだけ手の力が緩んで、まだ抜けられそうにはないけれど息はしやすくなった。

「何お前、シュシ持ちなの?」

 シュシ持ち――またそれか、と眉間に力が入る。この言葉を聞いたのは三日前、謎の男が目の前で死んだ日のこと。
 ああもう、嫌なことを思い出させてくれるな。こんなことだったら息ができないまま思考を手放してしまいたかったとすら思う。

「しかもこれじゃあ……うーわ、面倒くさ。すっげ面倒くさ!」
「…………」

 そんなこと私に言われても。
 男の態度と苛立ちで緊張が少しほぐれてきたのを感じながらも、私はどうしたらいいか分からずこの状況を見守ることしかできなかった。

「もしかしてさァ、これってあいつの自業自得じゃね? んでその後始末が俺で、その上こんな面倒くさいモン見つけちゃって? ……ああ、もういいや。俺は知らん。――お嬢さんよ」

 独り言を言っていたのに急に話しかけられて、私の心臓がどきりと跳ねる。
 いつの間にか紫色の光は消えていて、代わりに切れ長の目が私を見ているのがかろうじて分かった。

「ちょーっと痛いけど、ごめんな?」

 それはきっと、私の返事は求めていなかった。
 私が彼の言葉を理解するより前にお腹を襲った衝撃。それを最後に私の意識は闇に引き戻された。


 § § §


 湿っぽい臭いが鼻につく。
 冷たいゴツゴツとした床は私のお尻を冷やし、何度体勢を直しても少しすれば鈍い痛みを呼ぶ。

 目が覚めた私は、知らない場所にいた。
 床も壁も天井も石でできている部屋だった。一面だけ石ではなく鉄格子。でもおしゃれなインダストリアル風な部屋というわけではなく、どう見ても牢屋にしか見えなかった。それも現代のものじゃなくて、映画でよく見る中世とかそんな感じの牢屋。

 鉄格子の向こうには廊下があるけれど、その廊下を挟むとまた鉄格子。生憎お向かいさんはいない。
 まあ、明かりが廊下にしかないみたいだから見えていないだけなのかもしれないけれど。

「なんなの、もう……」

 ガサガサになった声で呟く。
 目覚めてすぐは何度も大声で助けを呼んだけれど、その呼びかけには誰も応えてくれなかった。体感的には二、三時間。本当はもっと長いかもしれないし、逆に一時間も経っていないかもしれない。
 突然部屋に男が乗り込んできて、お腹を殴られて、気付いた時には謎の牢屋。確かに一瞬思考を手放してしまいたいとか思ったけどさ、流石に牢屋はなくない? こんなわけの分からない状況に置かれたら時間の感覚すらなくなっても仕方がないだろう。

「お母さん、帰ってきたかな……」

 男が私の部屋にやってきた時間は分からないけれど、私が最初に大声を上げてもお母さんは部屋に現れなかった。つまりまだ帰ってきていなかったということ。
 私が攫われた後に帰ってきたお母さんは、私がいないことにいつ気付くだろう。夜は私を起こさないようにするから、きっと朝かな。そうしたら事態に気付いて警察を呼んでくれる。それまで頑張れば、家に帰れる。

「早く帰りたい……」

 できるだけ冷静に自分を励ましても、薄暗い牢の闇に飲み込まれそうになる。
 なんでこんなことになったんだろう。私をここに連れてきたのは十中八九あの男だ。何の目的で私にこんなことするのか分からないけれど、あの男自身だって面倒臭いって言ってたじゃん。

「……ならこんなことしないでよ!」

 ダン、と床に拳を振り下ろす。凄く痛い、最悪。しかも実際に聞こえた音はぺち、と来たもんだから虚しくなった。
 そりゃそうだ、固い石に乙女の拳を力いっぱいぶつけても、豪快な音が立てられるはずもない。

「もうやだ……」

 涙が滲む。痛いしわけ分かんないし、泣いたって別にいいだろう。抱えた膝に顔を押し当てれば、視界が塞がれ真っ暗になった。

 すると残された聴覚が、それまではなかった音を拾った。
 コツコツコツコツ、まばらなリズム。それは少し反響しながら、けれど確実にこちらに近付いてくる。

 嫌だ、怖い。あれだけ助けを呼んだのに、いざ誰か来そうになると怖くてたまらない。
 身体を強張らせ、それでも顔は上げて鉄格子の向こうに目を凝らす。そんなことしたって角度的に廊下の先が見えるわけではないけれど、早くその音の正体を知りたくて私は目を逸らせなかった。

 やがて大きくなる音とともにそこに現れたのは、二人の人間だった。頭から足先まで布で覆われ、顔どころか性別の判断もつかないけれど。

「あ、あの……」

 恐る恐る声をかける。二人はまるで私の声なんて聞こえていないかのように全く反応することなく、鉄格子をガチャガチャと鳴らし扉を開けた。

 出してくれるのだろうか。思わず期待で身を乗り出せば、いつの間にそんなに近付いていたのか、すぐ脇にいた一人に両腕を掴まれる。

「え、え?」

 そしてもう一人が布を出したかと思うと、それをバサッと私に覆い被せた。


 § § §


 ちゃり、ちゃり、と歩くたびに重たい鎖の音がする。
 こっちは何も見えなくて怖いのに、私を牢屋から連れ出した奴らはお構いなしに、私の首に付けた鎖を引っ張って歩いていく。そんなことをされれば転ばないようにするのがやっとで、ほとんど引き摺られているのと一緒だった。
 ていうか鎖ってなんだよ。さっきまではこんなのなかったのに、頭に布を被せられて、混乱しているうちに首に冷たい感触がガチャリとやってきた。その正体が何かも分からないうちに前に引かれ、つんのめるように歩き出してやっと鎖を付けられたんだって分かった。

 服装は家で寝ていた時のままだから、私の足は当然何も履いていない。
 だから足裏から伝わる石の感触がもっとなめらかなものに変わったことは分かったけれど、でもそれにどんな意味があるのかは知らなかった。

 怖い。恐い。コワイ。
 まるで悪夢だ。でもこれが夢だという可能性は、目覚めた瞬間から否定され続けている。
 男に殴られたお腹が鈍く痛んで、叫んだ喉がひりひりして、石を殴りつけた腕はじんじんする。

 なんなのこれ。
 答えの浮かばない問いは何度も何度も私の頭を駆け巡って、それに気を取られていた私は自分が止まっていることに気付くのに少し時間がかかってしまった。

 ドンッと急に背中を押されて、その場に倒れ込む。
 咄嗟に腕を前に出しても、何も見えなかったせいでちょっと顎を打った。思わず痛む場所に手を伸ばそうとしたところで、ガバッと視界が開ける。

「……ッ!?」

 そういうの予告してくれよ、本当。
 私は突然の眩しさに一瞬目を閉じて、しかしすぐにおずおずと目を開いた。

「何……ここ……」

 広い空間。天井は見えないくらい遠く、円柱の中にいるかのような感覚。
 私をぐるりと囲むようにしてそびえる壁は何層にもなっており、各層には所狭しと多くの人間らしき人影があるのが分かった。
 らしき、なのは姿がよく分からないからだ。照明も暗いし、なんとか見える人影も私をここに連れてきた人たちのように全身を布で覆ってしまっているから、多分人だろうということしか言えない。

 私がいるのは、そんな円の中心だった。
 前を見上げれば高い位置に数脚の椅子。そしてそこに座る人たち。唯一真ん中の人だけ身体を覆う布のデザインがちょっと違っていて、なんとなくこの人が一番偉いんだろうなと思った。

 にしても、これ。
 なんだか裁判所のようだ。勿論現代日本やたまにテレビで見る外国の裁判所はこんな形ではないのだけれど、なんとなくそんな気がする。
 ってことは、あの偉いっぽい人はさしずめ裁判長か。裁判のことは全然知らないけれど、両脇の人たちが陪審員(っているんだっけ?)か何かで、被告人は裁判長の前にいるイメージだから、そこにいるのは――。

「……私?」

 前言撤回。裁判所はナシ。
 じゃないと私が被告人ってことになる。生憎罪を犯した自覚はないし(先日の煙事件は置いといて)、証人として呼ばれるような心当たりもない。

「――――!」

 裁判長っぽい人が何かを言った。女の人なのだろうか、声が丸い。

「――――」

 裁判長、続けて何か言っている。でも何を言っているか分からない。明らかに日本語じゃないのだ。かと言って英語ではない、と思う。私のリスニング能力が低すぎるだけかもしれないけれど。
 なんとなくヨーロッパのどこかの国の言葉に近い感じがする。メルシー、ペルファヴォーレ、グーテンターク。ちなみに意味も何語かも知らないけれど、なんかそんな雰囲気。

「――――?」

 裁判長に質問された、気がする。
 でも本当に何を言っているか分からない。分からなすぎて冷静になれているのだけれど、なんかこういうのって分からないまま首を縦に振っちゃいけないって聞いたことがあるぞ。

 どうしよう、やっぱりここは身振り手振りで言葉が分からないと伝えるべきだろうか。
 でも日本人には問題のないジェスチャーも外国人にとってはやばい意味の時もあるってのも聞いたことがあるし、下手に動くのもまずいかもしれない。

 私があれこれ考えてもだもだしていると、裁判長は話を止めた。そして少し考える素振りを見せたかと思うと、ゆっくりと私の方に顔を向ける。

「日本語なら分かるか?」
「ッ……!」

 裁判長、バイリンガルだったのか!
 私はここに来て初めて自分に向けられた理解できる言葉に、気持ちが一気に高揚するのを感じていた。

「は、はい、分かります! 日本語なら分かります!」

 自分の置かれた状況も仕打ちも忘れて、必死に裁判長にアピールする。
 裁判長は顔は見えないけれどどこか呆れたような雰囲気を出しながら、「ではもう一度言おう」と話しだした。

「――お前には殺しの嫌疑がかけられている」

 高ぶっていた気持ちが、一気にしぼんでいくのが分かった。
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