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第五章
第31話 私じゃない
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怖い、ここにいたくない。
そっちは駄目、戻らなきゃ。
相反する焦燥感に頭がぐちゃぐちゃになる。その気持ちを誤魔化すように足はいつまでも止まらなくて、入り組んだ小道をめちゃくちゃに進む。
すると行き止まりに入ってしまって、そこでようやっと私の足は止まった。
一歩、二歩――行き止まりにいるのは怖いから、ゆっくりと後ろに戻る。どっちから来たんだろう。来た道を戻りたいのに、自分がどこから来たのか分からない。
その場に立ち尽くしていると、なんとなく人の気配を感じて周囲に目を配った。私の周りにあるのは壁。けれどただの壁ではなくて、建物の壁だ。この小道は密集するように建てられた建物によって形成されているらしい。
そんな周りを埋め尽くす建物の窓から、何人もの人がこちらを見ていた。
今まで気付かなかっただけで、建物の中に人がいるのは別におかしくはない。けれどどうしてみんなこっちを見ているのかが分からない。
理解できない状況にどうすることもできないでいた時、たくさんの窓のうちの一つが急に開け放たれた。
「――――!」
きつい語調で何かを言われる。だけど私にはその意味が分からない。
それなのにその言葉を皮切りにあちらこちらから似たような雰囲気の言葉が聞こえてきて、裁判所で感じたような恐怖に全身を包まれる。
「ッ……!」
ここにいたくない。それだけは確かで、私は逃げるようにまた走り出した。
背中から怒声が追いかけてくる。走っても走っても、逃げ切れない気さえしてくる。
そのまま一心不乱に走り続けていると、いつの間にか声は聞こえなくなっていた。
それでもまだ足を止めるのは怖いから、走ったまま後ろを見る。けれどそれは、前方からの衝撃に阻まれて。
「痛ッ――!」
痛いと言いかけて慌てて口を噤む。
「――――!?」
近くで聞こえた罵声に顔を上げれば、私がぶつかってしまったであろう男の人の姿。
綺麗な服装で従属種ではなさそうなことに安心したものの、物凄く怒っていることは嫌でも分かる。
「ごめ、なさ」
吸血鬼の言葉で口にした謝罪は、自分でも拙いと分かってしまって伝わるか怪しい。
それでも何度も何度も謝罪を繰り返し、どうにか相手の怒りが収まることを祈る。
だって、逃げることはできない。狭い道ではすぐに捕まってしまうだろうし、来た道を戻るのも怖い。それに下手に逃げたら余計に怒らせてしまうかもしれない。
「――――!?」
必死に謝っても相手は相変わらず怒っている。それでもなんとか「誰」「親」という言葉は聞き取れた。
もしかしたら親が誰か言えば解放してくれる? 淡い期待に少しだけ心が楽になる。
私の親はスヴァインだけれど、今はマヤさんの匂いを借りている。だからノエには、もし誰かに聞かれたらどう答えるべきか教えられていた。
「親、私の……ペイ――」
設定どおりペイズリーさんの名前を出そうとしたけれど、途中で声が出なくなった。
男に何かをされたわけじゃない。気付いてしまったからだ――私がここでペイズリーさんの名前を出せば、彼女に迷惑がかかってしまうって。
ノエはペイズリーさんの序列も高いから大丈夫だと言っていたけれど、この人が彼女よりも上だったらどうしよう。従属種というものの扱いが思っていた以上に酷いというのはこの数十分で嫌という程理解したのに、そんな従属種である私がペイズリーさんの名前を出したら、既に怒っているこの人は何をするだろう。
「……ごめなさ」
私は震えながら再び謝ることしかできなかった。
男の人からは同じ質問が聞こえてくるのに、それに答えることができない。
すると相手は私が答えないと理解したのか、急に静かになった。
やっと解放してくれるのだろうか――気になって見上げた顔には、にやりとした凄く嫌な笑顔が張り付いていて。
「――――」
知っている単語なんて一つもないのに、相手の悪意だけは確かに伝わってくる。
「――――!」
愉しそうな顔。その顔を見た瞬間、視界が動いた。
「――――!?」
怒声が響く。けれど相手の顔は何故か驚愕に歪んでいた。その前には伸ばされた男の腕。初めて見る長く伸びた鉤爪は、明らかに私を傷つけようとしたもので。
「何……!?」
男が動くと、また視界が動く。けれど変わらないのは男の歪んだ顔と、伸ばされた腕。
ああ、動いているのは視界じゃなくて私だ。私を引き裂こうとする男の爪を、知らないうちに避けている。
この感覚には覚えがあった。
初めて感じたのは、壱政さんと出会った時。次はラミア様のお城で襲われた時。
私の身体が、私の知らないように動く。
頭が熱い。息が苦しい。
そういえば壱政さんの時は酸欠になって倒れた。あの時はノエがちょうど来てくれたけれど、今倒れてしまったら間違いなく私はこの男に殺されてしまう。
息を吸い込む。ちゃんと吐き出す。
意識して繰り返しているのはそれだけ。それ以外をしようにも、私が考えるより先に身体が勝手に動いてしまう。視線すら自分の思うように動かせなくて、なんだか映画を見ているような感覚だった。
私をよほど私を殺したいらしい男は、ずっと爪を振るい続けている。一方で私の身体はそれをギリギリで避け続ける。
「――――!?」
当たらない攻撃に痺れを切らしたのか、男が苛ついたように大声を上げた。と同時に、その瞳が紫色に変わる。
ああ、ノエの眼の方が綺麗だな。
そう思った時、耳の奥で嫌な叫び声が響いた。
§ § §
腕が痛い。じくじくと鋭く痛む左腕に目を向ければ、大きな傷口。そこから滴り落ちる黒っぽい液体は、このノクステルナの暗く赤い空の下でも血だとすぐに分かった。
「――……え?」
どうして腕を怪我しているんだ。だって、全部避けていたのに。
状況を確認しようと視線をずらせば、地面には見覚えのある男が倒れていた。
「お前――何――違う――」
苦しそうに男が言う。ぽつりぽつりと聞き取れた言葉ではその意味が分からない。
けれど。
「痛ッ……!」
急に襲った頭痛。フラッシュバックする。
紫色の瞳。振りかざされた爪に、自分から差し出した腕。自分の爪についた私の血を舐めて、叫ぶような声を上げながら苦しみ始めた男。
男に殺意を抱いた私と、愉悦を感じた私。
「なんで……嫌……違う……!」
殺そうとした。苦しむ男を見て嬉しくなった。
そんなはずないと思いたくても、鮮明にその時の記憶が感情ごと蘇る。
私の知らない私がいる。
そう気付いた瞬間、視界に黒が舞った。見覚えのあるそれは男の死を報せるもの。
私がやった。私が殺した。
「嫌ぁああああぁあああ!!」
実感のあるそれは、知らないふりなどできなくて。
腕の痛みも、喉がおかしくなっていくのも感じているのに、私はただただその場で泣き叫ぶことしかできない。だってこんなこと受け入れられない。
なんで私は殺したの。なんで相手が苦しんで嬉しいの。なんで私の身体なのに、私の知らないように動くの。
なんで。なんで。なんで。
今まで出口を見つけられずに蠢いていた気持ちが、叫びとなって喉を突き破る。いくら叫んでもそれは枯れなくて、いつの間にか黒い煙はすっかり消えてしまっていて。
私じゃない。殺したのは私じゃない。
あの男が私を殺そうとしたから、私の中の知らない私が殺したんだ。
そう、思えたら。
「――ほたる!?」
ノエの声が聞こえる。肩を掴まれる。
それなのにこの叫びは止まらない。ノエが困ってるって分かるのに、その顔を見たら余計に喉が悲鳴を撒き散らす。
「ほたる! しっかりしろ!」
無理だよ、できないよ。
そう返すこともできなくて。
「ごめんな」
ノエのその言葉と同時に、懐かしい衝撃がお腹を襲った。
そっちは駄目、戻らなきゃ。
相反する焦燥感に頭がぐちゃぐちゃになる。その気持ちを誤魔化すように足はいつまでも止まらなくて、入り組んだ小道をめちゃくちゃに進む。
すると行き止まりに入ってしまって、そこでようやっと私の足は止まった。
一歩、二歩――行き止まりにいるのは怖いから、ゆっくりと後ろに戻る。どっちから来たんだろう。来た道を戻りたいのに、自分がどこから来たのか分からない。
その場に立ち尽くしていると、なんとなく人の気配を感じて周囲に目を配った。私の周りにあるのは壁。けれどただの壁ではなくて、建物の壁だ。この小道は密集するように建てられた建物によって形成されているらしい。
そんな周りを埋め尽くす建物の窓から、何人もの人がこちらを見ていた。
今まで気付かなかっただけで、建物の中に人がいるのは別におかしくはない。けれどどうしてみんなこっちを見ているのかが分からない。
理解できない状況にどうすることもできないでいた時、たくさんの窓のうちの一つが急に開け放たれた。
「――――!」
きつい語調で何かを言われる。だけど私にはその意味が分からない。
それなのにその言葉を皮切りにあちらこちらから似たような雰囲気の言葉が聞こえてきて、裁判所で感じたような恐怖に全身を包まれる。
「ッ……!」
ここにいたくない。それだけは確かで、私は逃げるようにまた走り出した。
背中から怒声が追いかけてくる。走っても走っても、逃げ切れない気さえしてくる。
そのまま一心不乱に走り続けていると、いつの間にか声は聞こえなくなっていた。
それでもまだ足を止めるのは怖いから、走ったまま後ろを見る。けれどそれは、前方からの衝撃に阻まれて。
「痛ッ――!」
痛いと言いかけて慌てて口を噤む。
「――――!?」
近くで聞こえた罵声に顔を上げれば、私がぶつかってしまったであろう男の人の姿。
綺麗な服装で従属種ではなさそうなことに安心したものの、物凄く怒っていることは嫌でも分かる。
「ごめ、なさ」
吸血鬼の言葉で口にした謝罪は、自分でも拙いと分かってしまって伝わるか怪しい。
それでも何度も何度も謝罪を繰り返し、どうにか相手の怒りが収まることを祈る。
だって、逃げることはできない。狭い道ではすぐに捕まってしまうだろうし、来た道を戻るのも怖い。それに下手に逃げたら余計に怒らせてしまうかもしれない。
「――――!?」
必死に謝っても相手は相変わらず怒っている。それでもなんとか「誰」「親」という言葉は聞き取れた。
もしかしたら親が誰か言えば解放してくれる? 淡い期待に少しだけ心が楽になる。
私の親はスヴァインだけれど、今はマヤさんの匂いを借りている。だからノエには、もし誰かに聞かれたらどう答えるべきか教えられていた。
「親、私の……ペイ――」
設定どおりペイズリーさんの名前を出そうとしたけれど、途中で声が出なくなった。
男に何かをされたわけじゃない。気付いてしまったからだ――私がここでペイズリーさんの名前を出せば、彼女に迷惑がかかってしまうって。
ノエはペイズリーさんの序列も高いから大丈夫だと言っていたけれど、この人が彼女よりも上だったらどうしよう。従属種というものの扱いが思っていた以上に酷いというのはこの数十分で嫌という程理解したのに、そんな従属種である私がペイズリーさんの名前を出したら、既に怒っているこの人は何をするだろう。
「……ごめなさ」
私は震えながら再び謝ることしかできなかった。
男の人からは同じ質問が聞こえてくるのに、それに答えることができない。
すると相手は私が答えないと理解したのか、急に静かになった。
やっと解放してくれるのだろうか――気になって見上げた顔には、にやりとした凄く嫌な笑顔が張り付いていて。
「――――」
知っている単語なんて一つもないのに、相手の悪意だけは確かに伝わってくる。
「――――!」
愉しそうな顔。その顔を見た瞬間、視界が動いた。
「――――!?」
怒声が響く。けれど相手の顔は何故か驚愕に歪んでいた。その前には伸ばされた男の腕。初めて見る長く伸びた鉤爪は、明らかに私を傷つけようとしたもので。
「何……!?」
男が動くと、また視界が動く。けれど変わらないのは男の歪んだ顔と、伸ばされた腕。
ああ、動いているのは視界じゃなくて私だ。私を引き裂こうとする男の爪を、知らないうちに避けている。
この感覚には覚えがあった。
初めて感じたのは、壱政さんと出会った時。次はラミア様のお城で襲われた時。
私の身体が、私の知らないように動く。
頭が熱い。息が苦しい。
そういえば壱政さんの時は酸欠になって倒れた。あの時はノエがちょうど来てくれたけれど、今倒れてしまったら間違いなく私はこの男に殺されてしまう。
息を吸い込む。ちゃんと吐き出す。
意識して繰り返しているのはそれだけ。それ以外をしようにも、私が考えるより先に身体が勝手に動いてしまう。視線すら自分の思うように動かせなくて、なんだか映画を見ているような感覚だった。
私をよほど私を殺したいらしい男は、ずっと爪を振るい続けている。一方で私の身体はそれをギリギリで避け続ける。
「――――!?」
当たらない攻撃に痺れを切らしたのか、男が苛ついたように大声を上げた。と同時に、その瞳が紫色に変わる。
ああ、ノエの眼の方が綺麗だな。
そう思った時、耳の奥で嫌な叫び声が響いた。
§ § §
腕が痛い。じくじくと鋭く痛む左腕に目を向ければ、大きな傷口。そこから滴り落ちる黒っぽい液体は、このノクステルナの暗く赤い空の下でも血だとすぐに分かった。
「――……え?」
どうして腕を怪我しているんだ。だって、全部避けていたのに。
状況を確認しようと視線をずらせば、地面には見覚えのある男が倒れていた。
「お前――何――違う――」
苦しそうに男が言う。ぽつりぽつりと聞き取れた言葉ではその意味が分からない。
けれど。
「痛ッ……!」
急に襲った頭痛。フラッシュバックする。
紫色の瞳。振りかざされた爪に、自分から差し出した腕。自分の爪についた私の血を舐めて、叫ぶような声を上げながら苦しみ始めた男。
男に殺意を抱いた私と、愉悦を感じた私。
「なんで……嫌……違う……!」
殺そうとした。苦しむ男を見て嬉しくなった。
そんなはずないと思いたくても、鮮明にその時の記憶が感情ごと蘇る。
私の知らない私がいる。
そう気付いた瞬間、視界に黒が舞った。見覚えのあるそれは男の死を報せるもの。
私がやった。私が殺した。
「嫌ぁああああぁあああ!!」
実感のあるそれは、知らないふりなどできなくて。
腕の痛みも、喉がおかしくなっていくのも感じているのに、私はただただその場で泣き叫ぶことしかできない。だってこんなこと受け入れられない。
なんで私は殺したの。なんで相手が苦しんで嬉しいの。なんで私の身体なのに、私の知らないように動くの。
なんで。なんで。なんで。
今まで出口を見つけられずに蠢いていた気持ちが、叫びとなって喉を突き破る。いくら叫んでもそれは枯れなくて、いつの間にか黒い煙はすっかり消えてしまっていて。
私じゃない。殺したのは私じゃない。
あの男が私を殺そうとしたから、私の中の知らない私が殺したんだ。
そう、思えたら。
「――ほたる!?」
ノエの声が聞こえる。肩を掴まれる。
それなのにこの叫びは止まらない。ノエが困ってるって分かるのに、その顔を見たら余計に喉が悲鳴を撒き散らす。
「ほたる! しっかりしろ!」
無理だよ、できないよ。
そう返すこともできなくて。
「ごめんな」
ノエのその言葉と同時に、懐かしい衝撃がお腹を襲った。
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