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第五章
第34話 一体、誰の話をしているの?
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突然紫色に染まった視界は、咄嗟に目を閉じたら明るさしか分からなくなった。同時に耳を塞いだ時のような耳閉感と、ねっとりとした不思議な感覚が全身を包む。
けれどそれは一瞬の出来事。気付いた時には瞼の裏は暗くなり、耳や肌に感じるものも元通りになっていた。
でも、なんだか懐かしい匂いがする。
そう思って目を開けてみたのに、周りは真っ暗で何も見えない。
「着いたよ」
私から手を離したノエがそう言った直後、パチンという音とともに視界がぱっと明るく開けた。急な強い光に一瞬目の前が白んだけれど、すぐにそこがどこなのか分かった。
「……私の部屋?」
一ヶ月ぶりだけど分かる。ここは私の部屋だ。
久しぶりに見る蛍光灯の明かりに照らされた私の部屋は、最後の記憶とほとんど変わらないまま。なんだかちょっとこもった匂いがするけれど、部屋の主が不在じゃあしょうがない。
「そりゃそうよ。移動すんの面倒じゃん」
よく分からないけれど、最初からノエはここを到着地点として指定したらしい。でも。
「土足なんだけど!?」
「……ああ、そっか」
気まずそうに目を逸らすノエはどうやら完全に日本文化を忘れていた様子。もしかして私を攫った時も土足だったのだろうか。身体の上に覆いかぶさっていたけれど、あの時のノエの足はまさかベッドにあったわけではないよね? ……まあ今更そんなことを確認しても遅いか。
とは言え現在進行形のこの状況は変えければならないとブーツを脱ごうとしていたら、ノエに「誰もいなくない?」と言われて思わずその手を止める。
「まだ仕事かな」
私の部屋にはスマホ以外時計がない。そのスマホもベッド脇に放置されていたのを見てみたけれど充電切れで、今が何時かは分からない。
部屋が真っ暗だったってことは夜であることは確かだけれど、日が落ちるのが早い季節だから案外まだそんなに遅い時間でもないかもしれない。私のお母さんは働いていて二十時くらいまでは帰ってこないから、そう考えると別にまだいなくても不思議ではないと思う。
けれどノエはどこか納得していない様子で、「ちょっと確認しようか」と廊下に出て歩き出した。
「え、待ってよ靴脱いでよ」
「どうせもう掃除しなきゃいけないんだから同じだよ」
「ええー」
人の家でとんでもないこと言うなと思ったものの、ちょっと悪いことをしている感じがなんだか楽しい。確かにどうせ掃除するなら変わらないかと思ってしまって、私はドキドキとしながらフローリングを汚していく。
そんな私の一方で、ノエは一体いつ把握したのか、人の家を迷うことなく進んでいた。と言っても一般的な日本の一軒家だから迷う心配はないのだけれど。
そのまま階段を下りてリビングのドアを開けると、こちらもなんだかこもった匂い。おかしいなと思ったのは私だけではなかったようで、ノエは怪訝な表情で私の方に振り返った。
「ほたるの母さんの仕事って、何日もいなくなるもの?」
「……出張はないよ。朝出かけて夜帰ってくる」
ノエの質問に漠然と嫌な予感がして、答える私の声も小さくなった。
「賞味期限短い食べ物って何?」
なんのことだと思って声のした方を見れば、いつの間にそこまで歩いたのか、リビングから続くキッチンの冷蔵庫前にノエの姿。それで何を知りたいのかが分かった私は少し考えて、「生肉とか?」と答えた。
「……二週間前だね、この日付」
「嘘……!」
ノエの言葉に慌てて私も冷蔵庫を漁る。するとそこにはノエの言う通り、消費期限がもうだいぶ過ぎている肉のパック。色も少し緑っぽく変色している。
これだけかもしれないと思って色々見てみたけれど、牛乳やヨーグルト、納豆はどれも消費期限をだいぶ過ぎていた。お母さんは結構うっかりだけれど、食べ物を無駄にするようなことはしない。何かの理由で一日二日消費期限を過ぎてしまうことはあるかもしれないけれど、こんなに放置するなんてことは有り得ない。
「――お母さん、ずっと帰ってないの?」
頭がどんどん冷えていく。お母さんがそんなに長期間家を空けたことなんて今まで一度もない。
「近所付き合いあるなら聞いてみようか? ほたるがいないから、どこかに旅行行ってるだけかもしれないし」
ノエは私を安心させようとしてくれているみたいだったけれど、日本で普通に働いている人が数日ならともかく何週間も旅行に行くことなんて滅多に無いことは私でも知っている。それにもし旅行なら足の早い食べ物は処分していくはずだ。
でもノエの言う通りであって欲しいから、私はその背中を追って家の外に向かった。
§ § §
隣の家の玄関前で、インターホンを押したノエを見上げる。流石に催眠は使わないよねと視線で訴えかければ、「なるべく言葉で聞くよ」と小声で返された。
うん、分かってくれているならいい。ちょっとくらいなら平気なのかもしれないけれど、見知った人が操られる様子というのはあまり見たくないもの。ほっとして視線を玄関ドアに戻したところで、カチャという音とともにドアが開いた。
「あら、神納木さんところの」
ドアから顔を出したのは、隣に住む昔からよく知っているおばさんだ。夕飯時だったのか、ドアを開けた途端良い匂いが漂ってくる。
お隣さんは私とノエを見て一瞬驚いたようだけれど、何故かすぐに表情を暗くした。
「このたびは本当にご愁傷さまで……」
「え……?」
なにそれ、どういう意味?
いきなり人になんてことを言うんだと思ったけれど、突然の言葉になんと返したらいいか分からない。
私が聞けないでいると、横にいたノエが口を開いた。
「ありがとうございます。故人とは親しかったんですか?」
「お隣でしたし、それなりには……。あの、貴方は……?」
「ほたるさんと下宿先が一緒なんです。訃報を聞いて心配で着いてきました」
「あら、お優しいんですね。ほたるちゃんも辛い時期でしょうから」
急にお隣さんと話しだしたノエの口調にお前は誰だと言いたくなったのに、彼らの会話を聞いていたらそんなことはどうでもよくなった。
『ほたるちゃんも辛い時期でしょうから』
ねえ、それはどういうこと?
「実は少し家の中を整理しようと思っているんです。なのでもしお宅に借りているものがあればお返ししなければと」
「神納木さんに貸しているもの? うちはなかったと思います。むしろ神納木さんにはこちらが良くしていただいて。――でも、整理って少し早くはないですか? まだ亡くなって一月も経ってないのに……」
「そんなに本格的なものではないですよ。またすぐに発たなければならないので、早めに対応しないとまずいものだけやろうかと思っていまして」
「ああ、そういうこと。旦那さんも葬儀だけしてまた仕事に戻ってしまいましたしね。密葬だから凄く手短で……。お忙しいのは分かるけど、こういう時は少し……いえ、余計に大変そうで」
ノエ達の会話がうまく理解できない。
なんでノエはそんなにすらすらよく分からないことを言えるんだろう、とか。亡くなった、とか。
一体、誰の話をしているの?
「何せ突然のことでしたから。ほたるさんもしばらく動揺してしまっていて、それで来るのが遅れてしまったんです」
「まあ、可哀想に……。私もびっくりしたんですよ、あんなにお若いのに心臓発作だなんて……。自分で救急車も呼べたみたいなのに、間に合わなかったそうじゃないですか。その間の神納木さんの気持ちを考えると……あっ、ほたるちゃんの前でする話ではなかったですね。私ったらごめんなさい」
「わ、私は……」
どうしよう、何も言えない。だってどういうことか分からない。
それ以上何も言えない私を、ノエがそっと自分の方に抱き寄せた。
「すみません、少し移動で疲れてしまったみたいです。夜分遅くに失礼しました」
「いえいえ。もしお手伝いできることがあったら言ってくださいね。ほたるちゃんも、元気だしてね」
「……はい」
お隣さんに背を向けてノエに促されるまま歩こうとしたけれど、足にうまく力が入らない。
気付けばノエに抱えられていたのは分かったのに、私は抗議することもできなかった。
「――大丈夫?」
暗い家の中。ソファに降ろした私を、ノエが心配そうに覗き込む。
「大丈夫、って……何が……」
「……ほたる」
「だって……私には、関係ないよね……? 誰か死んじゃったみたいだけど、私の知らない人のことだよね……?」
「ほたる」
ノエの声が鋭くなる。いつになく真剣な表情で私を見つめる。
ねえ、やめてよそんな顔。そんな真面目な顔する理由なんてないでしょ。いつもみたいにへらっと笑って、「そうだね」って言ってくれればいいんだよ。
それなのに。
「ほたる。死んだのは……――ほたるの母さんだよ」
そんな言葉、聞きたくなかった。
けれどそれは一瞬の出来事。気付いた時には瞼の裏は暗くなり、耳や肌に感じるものも元通りになっていた。
でも、なんだか懐かしい匂いがする。
そう思って目を開けてみたのに、周りは真っ暗で何も見えない。
「着いたよ」
私から手を離したノエがそう言った直後、パチンという音とともに視界がぱっと明るく開けた。急な強い光に一瞬目の前が白んだけれど、すぐにそこがどこなのか分かった。
「……私の部屋?」
一ヶ月ぶりだけど分かる。ここは私の部屋だ。
久しぶりに見る蛍光灯の明かりに照らされた私の部屋は、最後の記憶とほとんど変わらないまま。なんだかちょっとこもった匂いがするけれど、部屋の主が不在じゃあしょうがない。
「そりゃそうよ。移動すんの面倒じゃん」
よく分からないけれど、最初からノエはここを到着地点として指定したらしい。でも。
「土足なんだけど!?」
「……ああ、そっか」
気まずそうに目を逸らすノエはどうやら完全に日本文化を忘れていた様子。もしかして私を攫った時も土足だったのだろうか。身体の上に覆いかぶさっていたけれど、あの時のノエの足はまさかベッドにあったわけではないよね? ……まあ今更そんなことを確認しても遅いか。
とは言え現在進行形のこの状況は変えければならないとブーツを脱ごうとしていたら、ノエに「誰もいなくない?」と言われて思わずその手を止める。
「まだ仕事かな」
私の部屋にはスマホ以外時計がない。そのスマホもベッド脇に放置されていたのを見てみたけれど充電切れで、今が何時かは分からない。
部屋が真っ暗だったってことは夜であることは確かだけれど、日が落ちるのが早い季節だから案外まだそんなに遅い時間でもないかもしれない。私のお母さんは働いていて二十時くらいまでは帰ってこないから、そう考えると別にまだいなくても不思議ではないと思う。
けれどノエはどこか納得していない様子で、「ちょっと確認しようか」と廊下に出て歩き出した。
「え、待ってよ靴脱いでよ」
「どうせもう掃除しなきゃいけないんだから同じだよ」
「ええー」
人の家でとんでもないこと言うなと思ったものの、ちょっと悪いことをしている感じがなんだか楽しい。確かにどうせ掃除するなら変わらないかと思ってしまって、私はドキドキとしながらフローリングを汚していく。
そんな私の一方で、ノエは一体いつ把握したのか、人の家を迷うことなく進んでいた。と言っても一般的な日本の一軒家だから迷う心配はないのだけれど。
そのまま階段を下りてリビングのドアを開けると、こちらもなんだかこもった匂い。おかしいなと思ったのは私だけではなかったようで、ノエは怪訝な表情で私の方に振り返った。
「ほたるの母さんの仕事って、何日もいなくなるもの?」
「……出張はないよ。朝出かけて夜帰ってくる」
ノエの質問に漠然と嫌な予感がして、答える私の声も小さくなった。
「賞味期限短い食べ物って何?」
なんのことだと思って声のした方を見れば、いつの間にそこまで歩いたのか、リビングから続くキッチンの冷蔵庫前にノエの姿。それで何を知りたいのかが分かった私は少し考えて、「生肉とか?」と答えた。
「……二週間前だね、この日付」
「嘘……!」
ノエの言葉に慌てて私も冷蔵庫を漁る。するとそこにはノエの言う通り、消費期限がもうだいぶ過ぎている肉のパック。色も少し緑っぽく変色している。
これだけかもしれないと思って色々見てみたけれど、牛乳やヨーグルト、納豆はどれも消費期限をだいぶ過ぎていた。お母さんは結構うっかりだけれど、食べ物を無駄にするようなことはしない。何かの理由で一日二日消費期限を過ぎてしまうことはあるかもしれないけれど、こんなに放置するなんてことは有り得ない。
「――お母さん、ずっと帰ってないの?」
頭がどんどん冷えていく。お母さんがそんなに長期間家を空けたことなんて今まで一度もない。
「近所付き合いあるなら聞いてみようか? ほたるがいないから、どこかに旅行行ってるだけかもしれないし」
ノエは私を安心させようとしてくれているみたいだったけれど、日本で普通に働いている人が数日ならともかく何週間も旅行に行くことなんて滅多に無いことは私でも知っている。それにもし旅行なら足の早い食べ物は処分していくはずだ。
でもノエの言う通りであって欲しいから、私はその背中を追って家の外に向かった。
§ § §
隣の家の玄関前で、インターホンを押したノエを見上げる。流石に催眠は使わないよねと視線で訴えかければ、「なるべく言葉で聞くよ」と小声で返された。
うん、分かってくれているならいい。ちょっとくらいなら平気なのかもしれないけれど、見知った人が操られる様子というのはあまり見たくないもの。ほっとして視線を玄関ドアに戻したところで、カチャという音とともにドアが開いた。
「あら、神納木さんところの」
ドアから顔を出したのは、隣に住む昔からよく知っているおばさんだ。夕飯時だったのか、ドアを開けた途端良い匂いが漂ってくる。
お隣さんは私とノエを見て一瞬驚いたようだけれど、何故かすぐに表情を暗くした。
「このたびは本当にご愁傷さまで……」
「え……?」
なにそれ、どういう意味?
いきなり人になんてことを言うんだと思ったけれど、突然の言葉になんと返したらいいか分からない。
私が聞けないでいると、横にいたノエが口を開いた。
「ありがとうございます。故人とは親しかったんですか?」
「お隣でしたし、それなりには……。あの、貴方は……?」
「ほたるさんと下宿先が一緒なんです。訃報を聞いて心配で着いてきました」
「あら、お優しいんですね。ほたるちゃんも辛い時期でしょうから」
急にお隣さんと話しだしたノエの口調にお前は誰だと言いたくなったのに、彼らの会話を聞いていたらそんなことはどうでもよくなった。
『ほたるちゃんも辛い時期でしょうから』
ねえ、それはどういうこと?
「実は少し家の中を整理しようと思っているんです。なのでもしお宅に借りているものがあればお返ししなければと」
「神納木さんに貸しているもの? うちはなかったと思います。むしろ神納木さんにはこちらが良くしていただいて。――でも、整理って少し早くはないですか? まだ亡くなって一月も経ってないのに……」
「そんなに本格的なものではないですよ。またすぐに発たなければならないので、早めに対応しないとまずいものだけやろうかと思っていまして」
「ああ、そういうこと。旦那さんも葬儀だけしてまた仕事に戻ってしまいましたしね。密葬だから凄く手短で……。お忙しいのは分かるけど、こういう時は少し……いえ、余計に大変そうで」
ノエ達の会話がうまく理解できない。
なんでノエはそんなにすらすらよく分からないことを言えるんだろう、とか。亡くなった、とか。
一体、誰の話をしているの?
「何せ突然のことでしたから。ほたるさんもしばらく動揺してしまっていて、それで来るのが遅れてしまったんです」
「まあ、可哀想に……。私もびっくりしたんですよ、あんなにお若いのに心臓発作だなんて……。自分で救急車も呼べたみたいなのに、間に合わなかったそうじゃないですか。その間の神納木さんの気持ちを考えると……あっ、ほたるちゃんの前でする話ではなかったですね。私ったらごめんなさい」
「わ、私は……」
どうしよう、何も言えない。だってどういうことか分からない。
それ以上何も言えない私を、ノエがそっと自分の方に抱き寄せた。
「すみません、少し移動で疲れてしまったみたいです。夜分遅くに失礼しました」
「いえいえ。もしお手伝いできることがあったら言ってくださいね。ほたるちゃんも、元気だしてね」
「……はい」
お隣さんに背を向けてノエに促されるまま歩こうとしたけれど、足にうまく力が入らない。
気付けばノエに抱えられていたのは分かったのに、私は抗議することもできなかった。
「――大丈夫?」
暗い家の中。ソファに降ろした私を、ノエが心配そうに覗き込む。
「大丈夫、って……何が……」
「……ほたる」
「だって……私には、関係ないよね……? 誰か死んじゃったみたいだけど、私の知らない人のことだよね……?」
「ほたる」
ノエの声が鋭くなる。いつになく真剣な表情で私を見つめる。
ねえ、やめてよそんな顔。そんな真面目な顔する理由なんてないでしょ。いつもみたいにへらっと笑って、「そうだね」って言ってくれればいいんだよ。
それなのに。
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