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第六章
第35話 誰のせいでもないよ
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『死んだのは……――ほたるの母さんだよ』
聞きたくない。それなのに、ノエの言葉はちゃんと聞こえてしまって。
「お隣さんが言ってただろ? この家にほたると両親以外住んでなかったなら、お隣さんの言ってた『神納木さん』ってほたるの母さんでしか有りえ――」
「何回も言わなくても分かってるよ……!」
「……そうだな。ごめん」
違う、ノエは悪くない。私が八つ当たりしただけ。
そう言いたいのに、口が震えてしまって言えない。罪悪感はしっかりと持っているのに、謝ることもできない。
だからと言って涙が出るわけでもなくて、それが余計に私の頭の中をぐちゃぐちゃにする。
お母さんが死んだ。もう何週間も前に。
そんなこと急に言われても受け入れられるはずがない。だってこの家にはお母さんが死んだ証拠なんてどこにもない。
「本当に……死んじゃったの……?」
震える声でどうにかそれだけ絞り出せば、頭の上に冷たい手が置かれる。その途端、どういうわけか涙が一気に溢れてきて。しゃくり上げる私の背を、頭から下りてきたノエの手がとんとんとゆっくり叩いてくれた。
「どうして……お母さんっ……」
まだお母さんの死を受け入れられていないはずなのに、住む人を失って取り残されていた家の空気が私にそれを突きつけてくる。
それはお母さんが死んだ証拠にはならないと理解していても、ここにお母さんがいないのだという事実には変わりはなくて。その事実は緩やかに、私の中にその死を染み込ませていく。
あんなに元気だったのに死んでしまった。
心臓発作? そんなの若いのになるものなの? なんで突然死んじゃったの?
溢れ出した疑問にはもう、お母さんの死を疑うものなどなくて。
「……ッそうだ、ノエは私よりも後に会ってるんだよね!? その時はどうだったの、身体悪そうじゃなかった!? まさか催眠でどこか悪くなっちゃったんじゃ……」
「催眠でおかしくなるとしたら精神だけだよ。俺が会った時は、どこも悪そうには見えなかったけど……」
「じゃあなんで……」
「詳しいことはまだ分からない。ほたるの父さんは知ってるはずだよ、葬式の手配もしたみたいだしな」
「お父さんが……」
お父さんが知っていると言われても、そのお父さんにいつ会えるのか分からない。お葬式のために無理矢理仕事に都合をつけて帰ってきたなら、またしばらく帰ってこられないかもしれない。
それは心細かったけれど、私のことはいいんだ。それよりもお母さんがお父さんに会えないまま死んでしまったのだと思うと凄くやるせない。
だってお隣さんは、お母さんは一人で死んでしまったのだと言っていた。あんなに寂しがり屋なのに最期の時が一人だっただなんて、一体どんなに辛かっただろう。どうして私は傍にいてあげられなかったんだろう。
後悔が胸に押し寄せる。
ノエ達にノクステルナに留まれと言われた時に、無理矢理にでも戻ろうとしていたら違ったのかな。一回帰りたいと言えば、今回みたいにあっさりと帰してもらえたのかな。
ノエ達が、留まれと言わなかったら――。
浮かんだ言葉に慌てて首を振る。
違う、ノエ達のせいじゃない。
あの時私が偶然あの男に出会ってしまったから、ノエ達は私をノクステルナに連れて行っただけだ。私がお母さんの言いつけどおりいつもの道を通っていればよかったんだ。そうすれば少なくともお母さんが一人で死ぬことはなかった。もしかしたら発見が早くなって助かっていたのかもしれない。
私が、お母さんとの約束を守っていればよかったのに。
「ほたる」
それまで静かに背中を叩いていたノエが、不意に私の名前を呼んだ。
「誰のせいでもないよ」
「なんでっ……」
まるで私の心を読んだかのような言葉に、どうしようもない気持ちが湧き上がる。
なんで今そんなこと言うんだろう。どうして私の考えていることが分かったんだろう。
どうして、私が欲しいと思った言葉が分かるんだろう。
「どうしても誰かを責めたいなら俺にしておきな。今自分を責めたら、多分もうそこで終わる」
真剣なノエの声が、彼の本当に言いたいことを表していた。
今の私は一度折れてしまったら、もう立ち直る時間が残されていないから。
「だけどっ……ノエは、悪くないじゃん……!」
「俺は誘拐犯なんだろ? んでほたるは被害者。ほら、悪いの俺だし」
「そうじゃなくてっ……!」
なかなか引き下がらない私に顔を顰めると、ノエは俯いていた私の顔を両手で掴んだ。頬を包むひんやりとした感触に驚く間もなく、そのまま顔をノエの方に向けられる。
「つべこべ言わない。今は母さんのことだけ想って泣きなさい。誰が悪いとか考えるのは後」
「……さっきと言ってること違う」
「細かいこと気にしない。これ以上文句言うならキスするぞ」
「はあ!? なんっ……バカなの!?」
私が声を荒げると、ノエはおかしそうにケタケタと笑う。それを見てすぐにまたからかわれたのだと気付いたけれど、腹が立っているはずなのに何故か涙がぼろぼろと出てきた。
ああ、どうしよう。苦しくて、悲しい。勿論それはノエにからかわれたことではなくて。
からかわれて一回頭が真っ白になったせいで、それまで持っていた疑問とか罪悪感とか、そういった余計な考えがすっぽりと抜けてしまって。
ただただ、お母さんがもういないのだという事実が胸を締め付ける。
「うっ……お母、さっ……お母さんっ……!」
一度堰を切った悲しみの波は、もう自分じゃ止められそうにもない。
自分でもびっくりするくらいにわんわんと泣きじゃくる私の肩を、ノエがずっと支え続けてくれた。
§ § §
それからどれくらい経っただろうか。静かなリビングに、私の嗚咽だけが響く。
最初よりは随分と落ち着いてきたけれど、同時に限界はどんどん近付いていて。
「な……」
「ん?」
「はなっ……みずぅ……!」
「はな? ……っおい、待て待て待て頑張れ!」
珍しく慌てるノエに申し訳なく思いながら、私は限界に達した手をちらりと見てすぐに目を逸らした。
不思議なんだけどさ、どうして泣いたら出るのは涙だけじゃないの? 泣いている時の鼻水は実は涙だって聞いたことがある気がするんだけど、だったらなんで少しでも粘り気があるの。っていうか鼻から出たらみんな鼻水でしょ。
と、現実逃避したくなるのは人前でこんな鼻水まみれの醜態を晒してしまったからだろう。これが女友達ならまだしも相手はノエだ。しかも顔だけはいい男。
そのノエは折角の整ったお顔を盛大に歪ませて、テーブルの上に置かれたティッシュ箱から大量にティッシュを抜き取って私の手に置いた。「もうちょっと早く言いなさい」って言うけどさ、これでも結構葛藤があったんだよ私は。
「ほら、ちーんして」
「んー!」
ノエは「ちーんして」だなんて日本語、どこで覚えてきたんだろうね。
私はノエから鼻かみティッシュを受け取ると、捨てるついでに手と顔を洗ってくることにした。
ゴミを捨てて、どうにかノエの手を借りずに肘でドアを開けて洗面所に辿り着く。
鏡に写った自分の顔は酷く不細工で、こんな顔であの顔にちーんしてもらったかと思うと物凄くいたたまれない。
手を洗って顔を洗って、嗅ぎ慣れた石鹸の匂いに懐かしさを感じる。けれど同時に蛇口から流れる水を見ていると、お母さんが死んだのに家はそのままなんだと妙に虚しくなった。
「――どうしたの?」
洗面所からリビングに戻ると、ノエがリビングで何かを探すようにうろうろしていた。後ろに向かってドアを放るように押し、カチャンと閉まる音を聞きながらノエの隣に並ぶ。
「いや……日本の家って、なんか黒いやつなかったっけ?」
「黒いやつ?」
「ほら、線香とか置いとくあれ」
「仏壇のこと?」
「そうそれ」
ノエはどうやら仏壇を探していたらしい。けれど我が家にはそんなものないから、「うちにはないよ」と言うと意外そうな表情を浮かべた。
「ないの?」
「最近はない家も結構あるよ。おばあちゃん世代と一緒に住んでればあることも多いみたいだけど」
「あれって先祖祀ってるんじゃないの?」
「墓地もネットの時代だしねぇ……」
「まじかよ。流石にそこには先祖いないだろ」
先祖みたいな年齢の人に言われるとなんだかちょっと気まずい。ノエは私のご先祖様ではないけれど、なんだかご先祖様に責められているような気分になる。
「なんでお仏壇探してたの?」
私が聞くと、ノエは「念の為」と言いながら困ったような顔をした。
「ほたるの母さんのこと、俺の勘違いだったら困るだろ?」
「そりゃそうだけど……でも、お隣さんの話はお母さんのことで間違いないと思うよ」
私が少し暗くなったのが分かったのか、ノエは私の頭をそっと撫でた。
なんだか今日多い気がするのだけど、ノエは私を小さい子供か何かと勘違いしているんじゃなかろうか。……いや、してるんだった。彼に私は十三歳くらいにしか見えていないっぽいし。
さっきだって私を子供だと思っているから、「キスするぞ」だなんて言えたんだろう。そう言えば私が戸惑って頭真っ白になるところまで多分計算済みだったはず。これで少しでも私を大人だと思っていれば、下手すればそういう雰囲気になってしまうと思って流石にノエも言わなかっただろう。
「……ノエのバカ」
「何よ急に」
「こっちの話」
いけない、うっかり口から出てしまった。私は話を逸らすようにリビングの棚に向かって、ガラス戸の中から写真立てを取り出した。
「それ、ほたるの母さんだよな」
「うん。可愛いでしょ」
「これで俺が同意したら娘としてどうよ?」
「……微妙」
ノエがお母さんを可愛いと褒める姿を想像して、なんとも言えない気持ちになった。いや、知った男の人がお母さんの容姿を褒めるって、なんかその、そういうこと? って勘ぐってしまうからさ。
ノエはこう見えてお母さんよりもずっと年上な上に博愛主義でもあるらしいから、守備範囲も広そう。そうでなくたって私のお母さんは顔立ちも可愛いし年齢もあまり顔に出ていないから、ノエがいけると言い出してもそこまで不思議じゃない。しかもノエは相手を洗脳できるし。つまり彼がその気になればお母さんは簡単に落とされてしまうわけで。……嫌だな。
微妙な想像を掻き消すように、私はお母さんとの思い出を辿る。この写真は高校の入学式。背伸びして入った進学校で、受かった時はお母さんも自分のことのように喜んでくれた。入学式の日は張り切りすぎたのか、何故か朝からハンバーグなんて重すぎるものを作ってくれて。二人で吐きそうだって笑いながら高校に向かった。
今でも鮮明に思い出せる。私が手に持ったお母さんの写真を指でなぞっていると、棚を覗き込んだノエが「これで全部?」と聞いてきた。
「全部じゃないよ。私の入学式とか、そういう行事で撮ったお母さんとの写真だけここ」
「じゃあ父さんの写真は別にあるのか」
「お父さん? お父さんの写真はないよ」
「なんで?」
「なんでって……全然家にいない人だから撮る機会もないし」
私が首を傾げると、ノエは怪訝そうな表情を浮かべた。
「一枚もないのか? ほら、母さん達の昔の写真とか」
「ああ、それ失くしちゃったんだって。だからうちには私が生まれた後の写真しかないの」
「そこにも父さんは写ってない?」
「だってカメラマンだもん。そういうものでしょ?」
私が言うも、ノエは納得がいかないらしい。というかノエが生まれた時代ってまだ写真がなかったんじゃないかな。だからそういうものと言っても分からないのか。
「ほたるの父さんって全然帰ってこないんだよな。行事の写真にも写ってないってことは、そういう記念日的な日にも戻ってこないんだろ?」
「……うん」
改めて言われると少し寂しい。私でもそう思うのだから、お母さんはもっと寂しかったんだろう。
「でもほたるの母さんの葬式、父さんがやったってお隣さんが言ってたよな」
「……流石に奥さんのお葬式くらいは帰ってくるでしょ」
「じゃあなんで今まで帰ってこなかったんだよ」
「……日本の会社ってそういうとこあるからじゃない? 私用で有給は取りづらいけど、忌引は許されるみたいなのあるじゃん」
「そもそもほたるの父さんは何の仕事してるの?」
「そんなの知らないよ」
なんでノエは急にお父さんのことをこんなに聞くんだろう。聞かれても私に答えられることなんてほとんどない。だから聞かれるたびに自分はお父さんのことをなんにも知らないのだと思い知らされて、正直あまりいい気分じゃなかった。
「ほたる、ちゃんと考えろ。ほたるの父さんは本当にいるんだよな?」
「……なんでそんなこと言うの? いるに決まってんじゃん」
「なら最後に会ったのはいつ?」
「いつって……小さい時」
「今まで、なんでうちには父さんがいないのかって考えたことある?」
「ッいるもん! 帰ってこないだけなんだから考える必要ないじゃん!」
ノエの質問の意図が分からなくてイライラする。
それなのにノエはいやに真剣な表情になって、私の目をじっと見つめた。
「ほたる。さっきからほたるが言ってるのは……」
ノエが言いづらそうに言葉を切る。その表情はどこか苦しそうで、見ている私まで不安になってくる。
それでも大きく深呼吸したノエは、意を決したように口を開いた。
「ほたるの言ってることは、洗脳された奴らとよく似てるんだよ」
何を言ってるの?
そう聞き返そうとした時、閉じたはずのリビングのドアが静かに開いた。
聞きたくない。それなのに、ノエの言葉はちゃんと聞こえてしまって。
「お隣さんが言ってただろ? この家にほたると両親以外住んでなかったなら、お隣さんの言ってた『神納木さん』ってほたるの母さんでしか有りえ――」
「何回も言わなくても分かってるよ……!」
「……そうだな。ごめん」
違う、ノエは悪くない。私が八つ当たりしただけ。
そう言いたいのに、口が震えてしまって言えない。罪悪感はしっかりと持っているのに、謝ることもできない。
だからと言って涙が出るわけでもなくて、それが余計に私の頭の中をぐちゃぐちゃにする。
お母さんが死んだ。もう何週間も前に。
そんなこと急に言われても受け入れられるはずがない。だってこの家にはお母さんが死んだ証拠なんてどこにもない。
「本当に……死んじゃったの……?」
震える声でどうにかそれだけ絞り出せば、頭の上に冷たい手が置かれる。その途端、どういうわけか涙が一気に溢れてきて。しゃくり上げる私の背を、頭から下りてきたノエの手がとんとんとゆっくり叩いてくれた。
「どうして……お母さんっ……」
まだお母さんの死を受け入れられていないはずなのに、住む人を失って取り残されていた家の空気が私にそれを突きつけてくる。
それはお母さんが死んだ証拠にはならないと理解していても、ここにお母さんがいないのだという事実には変わりはなくて。その事実は緩やかに、私の中にその死を染み込ませていく。
あんなに元気だったのに死んでしまった。
心臓発作? そんなの若いのになるものなの? なんで突然死んじゃったの?
溢れ出した疑問にはもう、お母さんの死を疑うものなどなくて。
「……ッそうだ、ノエは私よりも後に会ってるんだよね!? その時はどうだったの、身体悪そうじゃなかった!? まさか催眠でどこか悪くなっちゃったんじゃ……」
「催眠でおかしくなるとしたら精神だけだよ。俺が会った時は、どこも悪そうには見えなかったけど……」
「じゃあなんで……」
「詳しいことはまだ分からない。ほたるの父さんは知ってるはずだよ、葬式の手配もしたみたいだしな」
「お父さんが……」
お父さんが知っていると言われても、そのお父さんにいつ会えるのか分からない。お葬式のために無理矢理仕事に都合をつけて帰ってきたなら、またしばらく帰ってこられないかもしれない。
それは心細かったけれど、私のことはいいんだ。それよりもお母さんがお父さんに会えないまま死んでしまったのだと思うと凄くやるせない。
だってお隣さんは、お母さんは一人で死んでしまったのだと言っていた。あんなに寂しがり屋なのに最期の時が一人だっただなんて、一体どんなに辛かっただろう。どうして私は傍にいてあげられなかったんだろう。
後悔が胸に押し寄せる。
ノエ達にノクステルナに留まれと言われた時に、無理矢理にでも戻ろうとしていたら違ったのかな。一回帰りたいと言えば、今回みたいにあっさりと帰してもらえたのかな。
ノエ達が、留まれと言わなかったら――。
浮かんだ言葉に慌てて首を振る。
違う、ノエ達のせいじゃない。
あの時私が偶然あの男に出会ってしまったから、ノエ達は私をノクステルナに連れて行っただけだ。私がお母さんの言いつけどおりいつもの道を通っていればよかったんだ。そうすれば少なくともお母さんが一人で死ぬことはなかった。もしかしたら発見が早くなって助かっていたのかもしれない。
私が、お母さんとの約束を守っていればよかったのに。
「ほたる」
それまで静かに背中を叩いていたノエが、不意に私の名前を呼んだ。
「誰のせいでもないよ」
「なんでっ……」
まるで私の心を読んだかのような言葉に、どうしようもない気持ちが湧き上がる。
なんで今そんなこと言うんだろう。どうして私の考えていることが分かったんだろう。
どうして、私が欲しいと思った言葉が分かるんだろう。
「どうしても誰かを責めたいなら俺にしておきな。今自分を責めたら、多分もうそこで終わる」
真剣なノエの声が、彼の本当に言いたいことを表していた。
今の私は一度折れてしまったら、もう立ち直る時間が残されていないから。
「だけどっ……ノエは、悪くないじゃん……!」
「俺は誘拐犯なんだろ? んでほたるは被害者。ほら、悪いの俺だし」
「そうじゃなくてっ……!」
なかなか引き下がらない私に顔を顰めると、ノエは俯いていた私の顔を両手で掴んだ。頬を包むひんやりとした感触に驚く間もなく、そのまま顔をノエの方に向けられる。
「つべこべ言わない。今は母さんのことだけ想って泣きなさい。誰が悪いとか考えるのは後」
「……さっきと言ってること違う」
「細かいこと気にしない。これ以上文句言うならキスするぞ」
「はあ!? なんっ……バカなの!?」
私が声を荒げると、ノエはおかしそうにケタケタと笑う。それを見てすぐにまたからかわれたのだと気付いたけれど、腹が立っているはずなのに何故か涙がぼろぼろと出てきた。
ああ、どうしよう。苦しくて、悲しい。勿論それはノエにからかわれたことではなくて。
からかわれて一回頭が真っ白になったせいで、それまで持っていた疑問とか罪悪感とか、そういった余計な考えがすっぽりと抜けてしまって。
ただただ、お母さんがもういないのだという事実が胸を締め付ける。
「うっ……お母、さっ……お母さんっ……!」
一度堰を切った悲しみの波は、もう自分じゃ止められそうにもない。
自分でもびっくりするくらいにわんわんと泣きじゃくる私の肩を、ノエがずっと支え続けてくれた。
§ § §
それからどれくらい経っただろうか。静かなリビングに、私の嗚咽だけが響く。
最初よりは随分と落ち着いてきたけれど、同時に限界はどんどん近付いていて。
「な……」
「ん?」
「はなっ……みずぅ……!」
「はな? ……っおい、待て待て待て頑張れ!」
珍しく慌てるノエに申し訳なく思いながら、私は限界に達した手をちらりと見てすぐに目を逸らした。
不思議なんだけどさ、どうして泣いたら出るのは涙だけじゃないの? 泣いている時の鼻水は実は涙だって聞いたことがある気がするんだけど、だったらなんで少しでも粘り気があるの。っていうか鼻から出たらみんな鼻水でしょ。
と、現実逃避したくなるのは人前でこんな鼻水まみれの醜態を晒してしまったからだろう。これが女友達ならまだしも相手はノエだ。しかも顔だけはいい男。
そのノエは折角の整ったお顔を盛大に歪ませて、テーブルの上に置かれたティッシュ箱から大量にティッシュを抜き取って私の手に置いた。「もうちょっと早く言いなさい」って言うけどさ、これでも結構葛藤があったんだよ私は。
「ほら、ちーんして」
「んー!」
ノエは「ちーんして」だなんて日本語、どこで覚えてきたんだろうね。
私はノエから鼻かみティッシュを受け取ると、捨てるついでに手と顔を洗ってくることにした。
ゴミを捨てて、どうにかノエの手を借りずに肘でドアを開けて洗面所に辿り着く。
鏡に写った自分の顔は酷く不細工で、こんな顔であの顔にちーんしてもらったかと思うと物凄くいたたまれない。
手を洗って顔を洗って、嗅ぎ慣れた石鹸の匂いに懐かしさを感じる。けれど同時に蛇口から流れる水を見ていると、お母さんが死んだのに家はそのままなんだと妙に虚しくなった。
「――どうしたの?」
洗面所からリビングに戻ると、ノエがリビングで何かを探すようにうろうろしていた。後ろに向かってドアを放るように押し、カチャンと閉まる音を聞きながらノエの隣に並ぶ。
「いや……日本の家って、なんか黒いやつなかったっけ?」
「黒いやつ?」
「ほら、線香とか置いとくあれ」
「仏壇のこと?」
「そうそれ」
ノエはどうやら仏壇を探していたらしい。けれど我が家にはそんなものないから、「うちにはないよ」と言うと意外そうな表情を浮かべた。
「ないの?」
「最近はない家も結構あるよ。おばあちゃん世代と一緒に住んでればあることも多いみたいだけど」
「あれって先祖祀ってるんじゃないの?」
「墓地もネットの時代だしねぇ……」
「まじかよ。流石にそこには先祖いないだろ」
先祖みたいな年齢の人に言われるとなんだかちょっと気まずい。ノエは私のご先祖様ではないけれど、なんだかご先祖様に責められているような気分になる。
「なんでお仏壇探してたの?」
私が聞くと、ノエは「念の為」と言いながら困ったような顔をした。
「ほたるの母さんのこと、俺の勘違いだったら困るだろ?」
「そりゃそうだけど……でも、お隣さんの話はお母さんのことで間違いないと思うよ」
私が少し暗くなったのが分かったのか、ノエは私の頭をそっと撫でた。
なんだか今日多い気がするのだけど、ノエは私を小さい子供か何かと勘違いしているんじゃなかろうか。……いや、してるんだった。彼に私は十三歳くらいにしか見えていないっぽいし。
さっきだって私を子供だと思っているから、「キスするぞ」だなんて言えたんだろう。そう言えば私が戸惑って頭真っ白になるところまで多分計算済みだったはず。これで少しでも私を大人だと思っていれば、下手すればそういう雰囲気になってしまうと思って流石にノエも言わなかっただろう。
「……ノエのバカ」
「何よ急に」
「こっちの話」
いけない、うっかり口から出てしまった。私は話を逸らすようにリビングの棚に向かって、ガラス戸の中から写真立てを取り出した。
「それ、ほたるの母さんだよな」
「うん。可愛いでしょ」
「これで俺が同意したら娘としてどうよ?」
「……微妙」
ノエがお母さんを可愛いと褒める姿を想像して、なんとも言えない気持ちになった。いや、知った男の人がお母さんの容姿を褒めるって、なんかその、そういうこと? って勘ぐってしまうからさ。
ノエはこう見えてお母さんよりもずっと年上な上に博愛主義でもあるらしいから、守備範囲も広そう。そうでなくたって私のお母さんは顔立ちも可愛いし年齢もあまり顔に出ていないから、ノエがいけると言い出してもそこまで不思議じゃない。しかもノエは相手を洗脳できるし。つまり彼がその気になればお母さんは簡単に落とされてしまうわけで。……嫌だな。
微妙な想像を掻き消すように、私はお母さんとの思い出を辿る。この写真は高校の入学式。背伸びして入った進学校で、受かった時はお母さんも自分のことのように喜んでくれた。入学式の日は張り切りすぎたのか、何故か朝からハンバーグなんて重すぎるものを作ってくれて。二人で吐きそうだって笑いながら高校に向かった。
今でも鮮明に思い出せる。私が手に持ったお母さんの写真を指でなぞっていると、棚を覗き込んだノエが「これで全部?」と聞いてきた。
「全部じゃないよ。私の入学式とか、そういう行事で撮ったお母さんとの写真だけここ」
「じゃあ父さんの写真は別にあるのか」
「お父さん? お父さんの写真はないよ」
「なんで?」
「なんでって……全然家にいない人だから撮る機会もないし」
私が首を傾げると、ノエは怪訝そうな表情を浮かべた。
「一枚もないのか? ほら、母さん達の昔の写真とか」
「ああ、それ失くしちゃったんだって。だからうちには私が生まれた後の写真しかないの」
「そこにも父さんは写ってない?」
「だってカメラマンだもん。そういうものでしょ?」
私が言うも、ノエは納得がいかないらしい。というかノエが生まれた時代ってまだ写真がなかったんじゃないかな。だからそういうものと言っても分からないのか。
「ほたるの父さんって全然帰ってこないんだよな。行事の写真にも写ってないってことは、そういう記念日的な日にも戻ってこないんだろ?」
「……うん」
改めて言われると少し寂しい。私でもそう思うのだから、お母さんはもっと寂しかったんだろう。
「でもほたるの母さんの葬式、父さんがやったってお隣さんが言ってたよな」
「……流石に奥さんのお葬式くらいは帰ってくるでしょ」
「じゃあなんで今まで帰ってこなかったんだよ」
「……日本の会社ってそういうとこあるからじゃない? 私用で有給は取りづらいけど、忌引は許されるみたいなのあるじゃん」
「そもそもほたるの父さんは何の仕事してるの?」
「そんなの知らないよ」
なんでノエは急にお父さんのことをこんなに聞くんだろう。聞かれても私に答えられることなんてほとんどない。だから聞かれるたびに自分はお父さんのことをなんにも知らないのだと思い知らされて、正直あまりいい気分じゃなかった。
「ほたる、ちゃんと考えろ。ほたるの父さんは本当にいるんだよな?」
「……なんでそんなこと言うの? いるに決まってんじゃん」
「なら最後に会ったのはいつ?」
「いつって……小さい時」
「今まで、なんでうちには父さんがいないのかって考えたことある?」
「ッいるもん! 帰ってこないだけなんだから考える必要ないじゃん!」
ノエの質問の意図が分からなくてイライラする。
それなのにノエはいやに真剣な表情になって、私の目をじっと見つめた。
「ほたる。さっきからほたるが言ってるのは……」
ノエが言いづらそうに言葉を切る。その表情はどこか苦しそうで、見ている私まで不安になってくる。
それでも大きく深呼吸したノエは、意を決したように口を開いた。
「ほたるの言ってることは、洗脳された奴らとよく似てるんだよ」
何を言ってるの?
そう聞き返そうとした時、閉じたはずのリビングのドアが静かに開いた。
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