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第六章

第36話 それはもういらない

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 リビングのドアが開いた時、最初に動いたのはノエだった。
 驚いたようにびくりと身体を揺らし、背後を勢い良く振り返る。同時に私を庇うように後ろに隠して、普段の彼からは想像できないくらいの緊張感を漂わせていた。
 一体何が起こったのだろう。ノエの背中から少しだけ顔を出して、彼の視線の先を覗き込む。

「ノエ、どうし……――お父さん?」
「は?」

 私の言葉に、ノエが有り得ないとでも言いたげな顔を向ける。けれど私はもうノエのことを気にすることはできなくて、久々に見るお父さんから目が離せなかった。

 最後にちゃんと会った記憶はほとんど残っていない。夢の中で思い出すくらいしか、お父さんの顔は最近ではもうはっきりと思い出せなかった。
 だけど、分かる。
 外国人のような顔立ちに、少し色素の薄い髪。瞳はほんの少しだけ明るい茶色で、お母さんが大好きな格好良いお父さん。
 お母さんをいつも大事にしていた、私のお父さん。

 ほら、ちゃんといるじゃん。ノエはさっきまで存在を疑うどころか私にとんでもないことを言っていたけれど、今ここにお父さんがいるんだから全部ノエの勘違いだ。

「ああ、ほたるか。みおと似ていなくて分からなかった」

 お父さんはそう言って、深い溜息を吐いた。
 澪というのは私のお母さんの名前だ。そういえばお父さんはお母さんをずっと名前で呼んでいたな、と幼い頃の記憶が蘇る。
 お母さんと似ていなくて分からないと言われるのが少し悲しかったけれど、今の私は泣き腫らした顔だし、そもそも何年も会っていなければそういうものだろうと自分を納得させた。

 それよりも今は、お父さんが現れた驚きの方が上だった。
 目の前のお父さんは、夢の中で会ったお父さんと同じ。私とは少し距離があって、あまりこちらを見てくれない。
 けれど今、お父さんは私をしっかりと見ていた。そのまま少し考えるような素振りを見せると、視線をゆっくりとノエへと移す。
 ああ、そうだ。お父さんはノエのことを知らないんだ。知らない男の人が急に家にいたら驚くだろうと思って、事情を説明するための言葉を用意する。
 この人は大丈夫、少しお世話になっているの――咄嗟に思いついたのはそれくらい。もっと伝わりやすい言葉はないかと考えていたら、お父さんが先に口を開いた。

「それはもういらない。ノクステルナの連中の好きにすればいい」
「え……?」
「お前っ……!」

 どうしてお父さんがノクステルナを知っているの?
 そんな疑問を抱いたのに、考えるより先にその前の言葉が頭の中から離れない。

『それはもういらない』

 それって、なんのこと?

「何年だ」

 私の疑問を打ち消すように、ノエの低い声が響く。それは滅多に聞かない怒っている時の声で。

「何年ほたるを騙してた? ――スヴァイン」

 まるで確認するようにはっきりとノエが呼んだのは、最近何度も聞いた名前だった。
 でもなんで今ノエが口にするのかが分からない。聞きたいけれど、背中越しにもノエが凄く怒っているのが分かる。私はもう何がなんだか分からなくて、ノエの服を掴むことくらいしかできなかった。

「何をそんなに憤ることがある?」

 お父さんが嘲笑わらう。あんな表情、見たことがない。だって記憶の中のお父さんは無表情で、でもお母さんを見る時だけほんの少し表情を和らげて。
 決して、あんなふうに人を嘲笑うような顔はしない。そう思って見ていると、お父さんの瞳が紫色に変わった。

「えっ……?」

 その瞬間、身体が嘘みたいに強張るのが分かった。指一本動かせないどころか、息もできない。
 急な出来事にノエに助けを求めようとしても、声すら出せないから伝えるすべがない。

「人間なら今ので死んでいるはずだが」

 お父さんが意外そうに呟く。その瞳は、紫色のままで。
 今ので死んでいるはずってことは、お父さんは私を――。

「今まで生きていたくらいだ、大して不思議じゃないか。――全く、澪はあの人によく似ていたのに、お前はちっとも似ないどころかあいつの種子まで奪って……もっと早く処分しておいてもよかったな」

 そう語るお父さんの顔は、酷く冷たい。いつもの無表情と変わらないはずなのに、人はこんなに冷たい表情を作れるのかというくらい、恐ろしくて。
 その得体の知れない不気味さは、以前怒るラミア様を見た時に感じた恐怖にも似ていた。

「それにしても随分種子の侵食が進んでるじゃないか。このまま放っておいても死ぬが……まあ、澪のお陰で俺も大切なことに気付けた。苦しんで衰弱死する前に殺してやろう」

 お父さんがそう言うと、急に呼吸ができるようになった。
 身体はまだ動かないけれど、私は慌てて空気を取り込んで必死に呼吸を整える。けれどそれは私の本能がやっていることにすぎない。頭の中ではお父さんの話がぐるぐると廻っていて、一体何が起きているのかさっぱり分からない。

「折角だから最期に言い残したいことがあれば聞くが?」
「お父、さん……?」
「澪はなんと言っていたかな。――ああ、『ほたるのことは守って』だったか。だがいいだろう、俺は了承した覚えはないし」

 お父さんはなんともないことのように言うけれど、それは私の記憶とは合わない。私が聞いた、お母さんの最期はそんなはずがない。

「どういうこと……? お母さんは一人で死んだんじゃ……」
「それは周りの連中にそう思わせただけだ。澪は大事だったからな、ちゃんと血の一滴も残さず食ってやったから安心しろ」
「食って……?」

 食う、ってなんだろう。周りにそう思わせたって……私のことを殺すって……。
 多分もう答えは出ているのに、私の心はそれを否定している。だってそれを信じてしまったら、何もかもが。

「ノエ……助けて……」

 どうにか声を絞り出すと、お父さんが馬鹿にするような笑みを浮かべた。

「そいつも動けないさ。安心しろ、お前を殺した後でちゃんと殺しておいてやるから」
「なんでっ……! なんでそんなこと言うの!? なんでノエを……意地悪ならやめてよ! 私お父さんに何かした!? 何かしちゃったなら謝るからっ……元のお父さんに戻ってよ……」

 私が叫んでもお父さんは表情を変えない。ずっと顔に嘲笑を貼り付けたまま。

「俺はお前の父親じゃない」
「え……?」
「お前の父親はとっくに殺した。今のお前によく似た顔の男だったな。子供の頃のままもう少し澪に似てくれれば生かしておいてもよかったが……残念だ」

 そう言いながら、お父さんが手を胸の前に上げる。普通の人と同じだったはずの手には、次の瞬間には長い鉤爪が生えていて。
 それはこの間私を襲った吸血鬼の男と同じ――人を傷つけるための形。

「人間は悲しいな。年月を経れば容姿が変わる。この十年でお前が澪の面影を薄くしたように、澪も以前ほどの若さは持っていなかった。このまま年を取れば更に変わる。それを防ぐためには殺して時を止めるしかない。死んでしまえば、もう年月に左右されない」

 お父さんが悲しそうに微笑む。その顔には、見覚えがあって。

『死ぬってなあに?』

 頭の中で幼い声が問いかける。
 これは――そうだ、私の声だ。確か仲良くしてくれていた近所のおじいさんが亡くなってしまって、そのことをお父さんに話すお母さんにした質問。

『お星さまになるってことだよ』

 お母さんが悲しそうに眉根を寄せる。その隣でお父さんが『星か……』と呟いた。

『死んだ後もしばらく色褪せないという意味ではそうだろうな。実際は消えていくだけなのに』
『きえる?』
『ちょっと、なんでそういうこと言うの! ――ほたる、死んじゃった人は消えないよ。もう会えないけど、おじいちゃんはほたるのことこっそり見守ってくれてるの』

 そう言って私に笑いかけるお母さんの隣で、お父さんは少し悲しそうに微笑んでいた。

 ――あの時と同じ顔。あれは今と同じ感情だったのだろうか。死について私に教えるお母さんを見ながら、いつかお母さんを止まった時の中に閉じ込めるために殺さなければならないと考えていたのだろうか。

 そんな私の思考は、目の前の光景に掻き消された。
 鋭い爪の生えたお父さんの手が、こちらに伸びてきていたから。

「嫌っ……!」

 怖いのに逃げられない。動けない。
 お父さんが小さく腕を振りかぶる。殺されそうなのに、私の身体はあの時のように動いてくれない。頭の中も熱くはならない。

 私の身体が、お父さんに殺されることを受け入れている。
 振り下ろされる手を見ているだけで、私は瞬きすらできない。

「嫌……やめて……嫌ッ――!?」

 嫌な、肉を裂く音がした。暗い室内に、もっと暗い色の液体が舞う。

 それなのに私はどこにも痛みを感じなかった。どうして――疑問に思った直後、身体を何かが包み込む。

「ノエッ……!?」

 気付けばノエに抱き締められていた。視界の端に見えた細い鎖を目で追えば、ノエが片手にあの懐中時計を持っているのが分かった。

「逃げるぞ……!」

 苦しそうな声でノエが言う。それが聞こえたと同時に、辺りが紫色の光に包まれた。

「――……どうしてお前が動ける?」

 微かにお父さんの声が聞こえた気がしたけれど、もう姿を見ることはできなかった。


 § § §


 頭の中が気持ち悪い。内側から掻きむしりたくなるほどの、不快な何かが――。
 そう思って頭に手にやろうとした時、ぬるりとした感触が私の意識を戻した。慌てて見てみれば、手には黒っぽい液体がべっとりと付いている。色がよく分からないのはノクステルナの淡い赤い光に照らされているせいだ。いつの間にか帰ってきていたらしい。

 明らかに水じゃない。黒っぽいけれど、よく見れば赤さもある。これは……。

「血……?」

 そうだ、血だ。昨日自分の腕から滴るそれを見たばかり。あの時も赤い光に照らされてこんな色をしていた。
 でも私の腕はもう治っている。ならこれは、私の血じゃない。

「ッ……!」

 記憶が一気に頭を駆け巡る。お父さんの振りかぶった爪、飛び散った血、苦しそうなノエの声。
 思い出すと同時にノエを探せば、すぐ隣で彼は仰向けに倒れていた。抱き締められていたはずなのに、ノクステルナに着いた時に離れてしまったんだろう。すぐにそう理解できたのは、倒れるノエの身体に力が入っていないのが見て分かったからだ。

「ノエ! ノエ!」

 近付いてみれば、ノエの胸が血だらけなのが嫌でも分かる。その出血量がとてもまずいことだって、医学の知識なんてこれっぽちもない私にも分かる。

「ノエ!」

 ノエの頭をぎゅっと抱き締める。すると微かに息が聞こえて、まだ彼が生きているのだと実感できた。

「どうしよう……ノエ、死なないで……!」

 助けを求めようと周りを見渡したけれど、そこは何もない荒野のような場所だった。見える範囲に家のようなものもなくて、どうしたらいいか分からない。

「ノエ……」

 蹲るように、再びノエの頭を抱きかかえる。いつもどおりの冷たい肌のはずなのに、今は一層私の不安を掻き立てる。

「誰か……助けて……」

 涙声でそう言った瞬間、背後に嫌な気配を感じた。
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