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第六章

第38話 そんなこと言うな

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 キィ、と金属が鳴く声。直後にバタンと大きな音がして、誰かが入ってきたのだと悟った。
 ガチャンという重たそうな音は扉が施錠された音だろうか。私達は檻に入れられているのに何故そんな必要があるのだろうと考えていると、暗がりの高いところから人影が三つ現れた。やはり階段があったようで、一歩一歩進むごとに下りてくる。同じ高さになると今度はこちらにどんどん近付いてきて、やがてその姿をはっきりと見ることができるようになった。

 一つ目の人影は、若い男の人だった。色の暗い肌にノエよりもずっとたくましい体格をしている。目線はずっとノエを捉えたまま、彼を少し見下すような表情だった。
 その後ろには二人の人。体つきから多分男の人だと思うのだけれど、顔を隠してしまっているので確信が持てない。本来頭だけ隠せればいいような黒い布を顔にも巻いている姿は凄く異様だった。
 でも更に異様だったのは、後ろの二人が持っていた物。
 ジャラジャラと重たい金属音を鳴らしながら存在を主張するそれは、とても太い鎖。よく見ると金属の輪が三つ付いていて、大きさから考えると手枷と首枷だろうか。私も初めてノクステルナに来た時に鎖を付けられたけれど、あれよりも頑丈なのだろうということはなんとなく分かる。

 そんな男達の姿を、ノエは薄く笑みを浮かべて見ていた。「リード」、小さく呟いたのは名前だろうか、それとも何か意味のある単語だろうか。聞こうにも私は今従属種のふり、日本語を話すことも避けるべきだ。それに彼らの雰囲気は私に緊張をもたらしていて、知らず識らずのうちにゴクリと喉が鳴った。

「――――」

 檻の前までやってくると、先頭の男がノエに向かって話しかけ始めた。ノエもちゃんと受け答えているみたいだけれど、さっぱり内容が分からない。
 でも相手の男の人がすぐにイライラし始めたことは分かった。その原因が多分ノエだということも。
 だってノエ、いつもと話し方の調子が全然変わらない。相手は真面目な様子で話しているのに、ノエときたらへらっとしているどころか時々普通に笑っている。……ノエって空気読めないのかな。

「――――」

 男の人が何かを言いながら、私の方に視線を向けた。すぐに視線を逸らしたけれど、その前にノエがラミア様の名前を出して男に何か言っていたのが分かった。

 一体、この人達は誰なんだろう。
 聞きたいのに私は日本語を使うわけにはいかないから聞くことができない。彼らの会話から探ろうにも、知らない言葉ばかりで何を言っているのか想像もできない。

 状況が分からなくて不安なまま様子を見ていると、男が檻の扉を開け始めた。
 もしかして出してもらえるのだろうか――けれどそんな期待はすぐに消えた。男が後ろの人達に持たせていた鎖を檻の中に投げ込んだのだ。

「ノエ……?」

 投げ込まれた鎖を、ノエが面倒臭そうに自分につけている。首と、それから両手首。手首の方は器用に足を使ってはめていたけれど、どうしてそんなものをノエがつけなくちゃいけないのか全く分からない。

「――――」

 ノエが私に向かって言う。吸血鬼の言葉だったけれど、それはノエに教えてもらったことのある言葉で。
 その言葉の意味をはかりかねているうちに、ゆっくりと立ち上がったノエの頭に布が被せられる。そして鎖を引かれて、そのまま男たちと一緒に部屋から消えていった。

「ノエ……?」

 待ってよ、どこに行くの? そんな状態で連れて行かれるなんてどうせろくなことじゃないんでしょ?
 ノエ達が消えていった扉に向かってそう叫びたくなったけれど、ノエに言われた言葉がそれを止める。

『大丈夫だよ』

 私が理解できる、数少ない吸血鬼の言葉。だけど意味が分からない。あんなことをされているのに、何が大丈夫なのか分からない。

「どうして……痛ッ――!?」

 ノエが何故連れて行かれたのか考えようとした時、それまで静かだった頭痛が急に痛みを増した。それはどんどん強くなって、頭が中から張り裂けそうな気さえしてくる。

「ッ……!」

 痛みで声が出ない。背中を裂かれた時よりも、腕を切られた時よりも、ずっと。
 あの時の痛みが大したことじゃなかったと思えるくらい、頭の中から痛みが走る。

 それはとても気持ちが悪くて。
 痛みと気持ち悪さと、胸を掻き毟られるような感情の波。助けを求めたくても、痛みがそれを遮る。

「い、や……嫌だっ……!!」

 辛うじてそう声を上げたのを最後に、私の視界は真っ暗になった。


 § § §


 息ができない。溺れるような感覚に、必死で口を開けて空気を吸い込む。

「――ゴホッ……ッ……」

 なんとか呼吸が戻って安心したのもつかの間、今度は頭がカッと熱くなった。
 痛みは……もうない。けれど熱と共に色々な感情が押し寄せてくる。悲しい、辛い、苦しい、許せない――それはどれも今まで感じたことがないくらい大きくて。頭の中の熱が目元まで溢れてくると、涙となってぼろぼろと零れ落ちる。

 最近、泣いてばっかだ。
 そう思うのに止められない。頭の中を色んな出来事が駆け巡っていって、そのすべてに強い感情を抱くのに、次から次へと対象が変わっていくものだからどうしたらいいか分からない。
 まるで海の中で波に翻弄されているかのように。何度水から顔を出しても、また波が襲ってくるようで。

 けれどそれは、時間の経過とともに速度を落としていった。

 やがて頭の中がぼんやりとしてくると、さっきまでの感情の嵐が嘘のように、胸の中には虚無感が広がっていた。
 何かを考えたくても、考えが纏まらない。纏まらないから、また虚無に引き戻される。
 冷たい床に寝転んだまま、私はそこから動けずにいた。

「――……ノエ」

 しばらく経った後、なんとなく呟いてみた。特に意味はなかったつもりだけど、口にした途端それまで虚無だった胸の中にどんどん色んな感情が湧き上がってくるのを感じた。

 未だ戻らないノエはどうなっただろう。鎖を付けられたのはどうしてだろう。
 相手は友好的には見えなかった。友好的ならそもそも鎖なんてつけたりしないはず。

「ノエッ……!」

 不安が身体を突き動かす。力が入っていなかったはずの身体は知らないうちに起き上がっていて、私は檻を掴んで何度もノエを呼んだ。

 繰り返しノエの名前を呼んで疲れてきた頃、今まで静かだった扉が再びガチャンと大きな音を立てた。嫌な金属音と共に現れたのはさっきの三人。それから顔の見えない二人によって、引きずられるように歩くノエ。

「……ノエ!」

 檻にしがみついてノエを待てば、男達はノエをまた檻に押し込んで去っていった。

「ノエ! ノエ!」

 押し込まれた時に倒れたノエは、意識はあるけれど凄く辛そうで。

「……お、頭痛いの治った?」
「そんなことよりノエは大丈夫だった? 何されたの? どうしてそんなにしんどそうなの!?」

 なんとか上体を起こしたノエに詰め寄ると、ノエは困ったように笑いながら「それが素か」と私の頭を撫でた。

「え……?」
「前よりも随分積極的っていうか、がつがつ来るようになった感じ?」
「なにそれ、私は別に変わってないけど……」
「うん、変わってない。変わってないけど、こっちが本当のほたるだと思うよ」

 ノエの言うことがよく分からない。だけど悪い気はしない。
 だって私のことを見るノエの目が、なんだか凄く嬉しそうに見えたから。

「……私のことは今はいいんだよ。それよりノエに何があったのか知りたい。あの人達、友達じゃないんでしょ」

 私が改めて問うと、ノエは観念したとばかりに肩を竦める。

「まァ、ほたるも知っといた方がいいだろうな」
「じゃあ教えてよ。っていうか私達さっきからずっと日本語で話してるけど大丈夫……?」
「今更。この部屋は大丈夫だよ、外部に音が漏れない造りだから」
「そう……なんで?」
「なんでが増えたなー」

 茶化すように言うノエに、私は眉間に皺を寄せる。
 なんだろう、私は私が変わったとは思えないけれど、ノエは私の発言の節々に変化を感じるらしい。これがただの揚げ足取りならいいものの、そうじゃないならちょっと自分がどういう奴になってしまったのか非常に気になる。自分のことだから自覚できないだけで、本当はもっと物凄く変わってしまっているなら――そう考えると、怖いし気持ち悪い。
 そんな私の感情が伝わったのか、ノエは「悪いことじゃないよ」と安心させるように微笑った。

「あいつら――顔を隠してない奴はリードって名前な。まあノストノクスに不満を持ってる吸血鬼の過激派ってやつだよ」
「だからノエと仲が悪いの?」
「そう。仲が悪いどころか、執行官はノストノクスの狗だからやっちまえって考えの奴ら。全く、よりにもよって嫌な奴らに見つかっちゃったよなー」

 ノエは冗談っぽく言うけれど、結構深刻なのは考えなくても分かった。そうじゃなければノエがこんなに弱っているはずがない。何をされたかは未だに分かっていないけれど、連れて行かれる前よりも明らかに顔色が悪くなっている。

「……何されたの?」
「お話し合いってやつ」
「ちゃんと言って!」
「うーん……俺から色々聞き出そうとした感じ?」
「ノエは話したの?」
「話さないよ。世間話はしたけどね」
「……嫌なこと、されてない?」

 私が問うと、ノエはほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。

「されてないことはない」
「何されたの」
「ちょっと痛いこと」
「……拷問?」
「物騒な言葉知ってるな。まあ大丈夫よ、もう全部治ったし」

 ノエの言葉に慌てて彼の身体を確認すると、ところどころに行きはなかったはずの血の痕があるのが分かった。今まで胸の血が酷すぎて気付かなかったけれど、足や手にも明らかに乾ききっていない血がまだ残っている。

「……分かってて行ったの?」
「この場でやられるよりはいいでしょ。元々ここはそういう部屋だろうしね」
「そういう部屋って……だけど殺されちゃったらどうするの……!?」

 吸血鬼は意外と簡単に死んでしまう。身を以てそれを知っている私は、ノエが死んでしまうかもしれないと思うと怖くてたまらなかった。

「向こうに殺す気はないよ。どこも欠けてないだろ?」
「……それがなんだって言うの」
「吸血鬼の治癒力舐めんなよ。大抵の傷はほたるよりも圧倒的に早く治ります」
「大抵じゃない傷は?」
「失くなった部分は復活しないからな。手足くらいならいいけど、頭潰されたり内臓取られたりしたら流石に死ぬ」

 だから大丈夫だとノエは言いたいのだろうけれど、それってつまり何回でも身体を痛めつけられるってことだ。今はこうしてここに戻してもらえたけれど、ノエが話さなければきっと何度だって同じことをされる。

「何を聞かれたの……?」
「最新のスヴァイン情報とかかなー」
「言えばいいじゃん」
「駄目だよ、俺にだって守秘義務はあるの」

 その守秘義務はノストノクスから課せられたものだろう。ノストノクスの目的はスヴァインを捕らえること。でももう、現実的にそれは不可能だ。
 だってスヴァインを捕らえるために私は囮になるはずだった。種子を与えるくらいだからきっと私のことは死なせないようにするだろう、だからその隙をつく――でもそれは、絶対に実現しない。もうスヴァインと接触してしまったからじゃない。もっと根本的な問題があったんだ。

「ノストノクスが私を守る理由はもうないよ」
「いきなりどうした」
「私のことはもう秘密にする必要ない。だから次に聞かれたら私がスヴァインの子だって言って。そうしたらもうノエは痛い思いしなくて済むでしょ!?」

 私が言うと、ノエは顔を顰めた。「それがどういう意味か分かってるのか?」、小さく尋ねてくる声はいつもよりもずっと低い。

「分かってるよ……分かって、言ってる。だけどノストノクスが私を守っていたのはスヴァインを捕まえるためでしょ? それなのに私にはそんな価値なかった。種子を与えるくらい大切などころか、利用価値すらあいつにはなかった。スヴァインにとって私はお母さんのおまけで、種子だって本当はお母さんにあげようとしてたんじゃないの!? それなのに私が奪ったって……事故で私に渡ったんだったら、スヴァインにとって本当に私はどうでもいいんだよ。だから最初から殺そうとした……私なんていらないから……!」

 ああ、なんでだろう。言葉が止まらない。
 さっき通り過ぎていったはずの感情がどこからか戻ってきて、胸の中をいっぱいに覆い尽くす。
 悔しくて、悲しくて。とても寂しい。

「もうお母さんも死んじゃったんだよ……本当のお父さんだって殺されてた……。私に何かあっても悲しむ人はいないの。どうせもうすぐ死ぬんだろうけどさ、死ぬしかないなら少しは意味があって欲しいじゃん。私のことをあいつらに言ってノエが助かるなら、ただ死ぬよりそっちの方がずっといい……!」

 ぽたぽたと、膝に置いた手の上に涙が落ちる。けれど泣いているところを見られたくなくて、私は慌てて顔を俯かせた。
 大丈夫、死ぬのは怖くない。怖いのはこのまま何の意味もなく死んでいくこと。ノエが傷つくのを見ながら、何もできずに死んでいくこと。

 ぎゅっと拳を握り締めた時、私の身体がノエに引き寄せられた。

「そんなこと言うな」

 落ち着いた声が、ゆっくりと私の中に染み込んでいく。

「少なくとも俺は、ほたるといて楽しいよ」

 ノエの身体はいつもよりも冷たいはずなのに、どういうわけか胸の奥が暖かくなる。

「俺じゃほたるの父親にはなれないし、ラミア様の命令にも逆らえないけど、ほたるが助かりたいと思うならできる限り力になりたいとは思ってる。だから死ぬことなんて考えるな」

 そう言ってノエは、私の背に回した腕に力を込めた。
 ノエだって分かっているはずだ。組織として判断した時、私はもうそれほど重要じゃないって。だからきっと自分の気持ちとして言ってくれたんだろう。
 それでも、今はそれが嬉しかった。こんな形でもノエ自身が私の力になりたいと思ってくれていると知れたから。そんなふうに喜んでいる場合じゃないはずなのに、なんて私は調子がいい奴なんだろう。

 だけど、まだ足りない。
 ノエが私を一番に考えられないのは分かっているのに、それじゃあ足りないんだ。……でも。

「……うん」

 聞き分けの良いふりをしながら、ノエの背に手を回した。
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