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最終章
第74話 私もすぐにいくよ
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今まで聞いた中で一番小さな爆発音は、それでも辺りの土を一気に巻き上げた。
「ノエ……?」
土煙が舞う。その中から、低い呻き声が聞こえる。
僅かな隙間から見えた目は、私の方を向いていて。紫色に染めたまま、ノエは酷く辛そうに顔を顰めていた。
良かった、生きてる――そう安堵したのも束の間のこと。次の瞬間に目に飛び込んできた光景に、体温が一気に下がるような感覚を覚えた。
「ッ……!」
薄くなった土煙から次に見えたのは、ノエの右腕。真っ赤な血を滴らせ、だらんと地面へと垂れ下がっているそれは明らかに普通の状態ではなくて、どうにか皮一枚で繋がっているような有様だった。
「休んでいる暇はないんじゃないか? お前は俺を殺したいんだろう?」
スヴァインが嘲笑うように言えば、ノエが「うるせぇなクソッ……!」と小さく悪態を吐く。
ああ、ノエだ。目の色はそのままだけど、ノエは元に戻っているんだ。
「無茶をする」
アイリスの声にそちらを見れば、さっきまでノエを挟んで反対側にいたはずのスヴァインがそのすぐ傍にいた。アイリスはそれに気付いたようだけれど、一瞥しただけで気にした様子はない。
それでもスヴァインはアイリスにもう一歩近付いて、そのままその華奢な身体をふわりと抱き締めた。
「こうするのは久しぶりだな」
「だからどうした。まさかこんなことがしたいからノエの催眠を解いてやったのか? らしくない」
「まさか。あの男には俺を手伝わせているだけだ――早くしろ、ノエ」
どういうこと? 状況が理解できずノエに視線を戻せば、「無茶言うな……!」と言いながら口で槍を拾う姿が見えた。両腕が使えないから仕方がないとは分かるのに、なんで今そうするのかが分からない。
「ッ……スヴァイン、お前――!」
アイリスがノエを見て驚いたような声を上げる。けれどスヴァインはそれを無視して、アイリスを抱く腕に力を込めた。
直後、私の目の前にいたノエが姿を消した。どこだと探すより先に、スヴァインの背後に黒い影が現れる。影が、ノエを形作る。
影から現れたノエは、その一瞬の移動の勢いのまま身体を大きく捻った。口に咥えた槍を投げるように上半身ごと首を振り、何かに思い切り突き刺す。
ドッ……――と、嫌な音が響き渡った。体内で肉と骨が引き裂かれるような、くぐもった、湿り気を含んだ音。
槍を離したノエは、後ろに数歩よろけてそのまま地面に崩れ落ちた。腕が使えないせいか、ほとんど倒れるように。それを見た私はやっと混乱から解放されて、慌ててノエの元に走り寄った。
「ノエ!」
「……くっそ、いいように使われた」
そう呟くノエの顔は酷く不機嫌で。青色に戻ったその目が睨みつける先には、アイリスごと槍に貫かれたスヴァインの背中。
その背中を見た瞬間に私の胸を覆い尽くしたのは驚きと、何故か悲しい感情ばかりだった。
「スヴァイン……死んじゃうの……?」
私の問いかけに、スヴァインがアイリスを抱き締めたままこちらに意識を向ける。
「まだ死なない。これくらいじゃあ、俺達は死なない」
そう言って、スヴァインはアイリスを抱き締め直した。
「この槍を引き抜きたいか?」
「スヴァイン……」
「引き抜けば俺は流石に死ぬだろう。お前が俺を殺すんだ、アイリス」
「……馬鹿なことを。それがお前の望みか? 私が影になれば、こんなこと全て無駄になるのに」
ここからでは顔はよく見えないはずなのに、スヴァインが微笑んだ気がした。
「影にはならないさ、お前は。子の意思は無駄にはしない――そうだろう?」
「思い違いをしているね。私はお前に付き合って死んでやるつもりなんてないよ」
「いいや、違わない。お前がそういう奴じゃなければ、こんなにも永く共にはいない。お前がいたから、俺はこれまでずっと生きてきたようなものだ」
そこまで言うと、スヴァインはアイリスの頬を両手で包み込んだ。
「ずっと考えていた、お前を俺だけのものにするにはどうしたらいいか。お前が心を割くもの全てを消したところで、お前がそれらの喪失を嘆くのには変わらない。失ったことを嘆くお前の姿は美しいが、それが自分に向けられたものではないと思うと身が引き裂かれそうになる」
その声は本当に彼の声かと思うくらい、熱が込もっていて。けれど同時に、聞いているだけで苦しくなってくるような悲壮感を漂わせていた。
ああ、この人は本当にアイリスを愛しているんだ。心の底からだなんて表現では足りないくらい、もっともっと深く、暗いところまで――声を聞いているだけで、嫌でもそう実感させられた。
「だが澪を殺した時に気付いた――これだ、と。自分の手で愛する人を殺す……他の誰でもなく俺がその命を奪うという行為は、相手の命を自分のものにするのと等しい。だから俺はお前をこの手で殺したい。もっと先でもよかったが、あんな子供までお前の命を狙っていると知ってじっとしているわけにはいかないだろう? お前の命を奪うのは、俺以外の誰であってもならない」
だからスヴァインは、ノエがアイリスを殺そうとしていると気付いた時に怒ったんだ――彼のあの時の感情の理由が、やっと分かった。
ただアイリスを失うのが嫌なだけじゃなかった。自分自身の手でその命を奪うことに意味を見出しているから、だからノエに手を出されるのが嫌だったんだ。
他の誰かに奪われるなら、それよりも先に自分の手で――スヴァインがいつアイリスを殺すと決めたのかは分からないけれど、きっとそういうことなんだろう。ノエに自分の手伝いをさせると言ったのも、多分このことを指していたんだ。スヴァインは序列のせいで簡単にはアイリスを殺すことはできないから。でも自分を殺そうとしているノエを使えば、この状況を作り出せるから。
それは誰のためでもなく、ただ、自分のために。他の誰にもアイリスを殺させないために。
命を奪うことで、アイリスを自分のものにするために。
「娘に情が移ったのではなく?」
そんなわけないよ――アイリスのスヴァインへの問いに、心の中で答える。今までの彼の話を聞いていたら、この行動全てが彼自身のためのものだと簡単に分かる。私とノエが生きるために必死でやった一連の行動は、スヴァインにとっては何の意味もなかった。
だから、利用した。アイリスを殺すのにちょうどいい道具があるぞ、使ってやろうって。ノエに自分を攻撃させてそこにアイリスを巻き込めば、こうして選択を迫れるから。
「俺はお前だけのものだ、アイリス。そしてお前にももう俺だけ――そうだろう?」
ほら、やっぱりそうだ。スヴァインの答えは私の考えが間違っていないのだと裏付けるようだった。胸が張り裂けそうになるのはきっと、ただ利用されただけだと実感したからだ。
「……お前は帰ってこないのかと思っていた。かつて勝手にお前から全てを奪い、苦しめてしまった私を恨んでいるのだと。だから私から離れ人間とそれを、家族をやり直している――そう思っていたんだ。お前には、もう私はいらないんだって」
スヴァインに答えるアイリスの声にもさっきまでの冷たさはなかった。どことなく言い訳するようなその口振りは、ただの人のようで。
話している内容は私には分からなかったけれど、自分がスヴァインにしたことに対してアイリスが後ろめたく思っているのは考えるまでもなかった。
「そんな感情はとうになくなった。お前の元に帰れなかったのは困らせたくなかったからだ。お前が血族を守るために、それを脅かす者を消していたことは知っている。お前なりの明確な基準があって、自制のためにそれを厳格に守ろうとしていたことも――その基準に則って俺を殺したいのに、お前は俺を殺すことはできない。俺を殺せば自分が死ぬからじゃない、お前自身が俺の存在を否定することができないからだ。それなのにそんな俺が近くにいたら、お前には苦痛でしかないだろう?」
「随分自意識過剰なことを言っているね。私がお前を殺せないのは、そうしたら自分が死んでしまうからだよ」
「だったらどうしてラーシュとオッドを殺さなかった? 本当は自分であいつらを殺して、争いを止めかったんだろう? だがお前はあいつらの命を奪うことを躊躇った。感情や記憶を書き換えることすらも、お前にはできなかった。何度やろうとしても結局お前にはあいつらを傷つけられなかった。……だから、俺がやったんだ」
スヴァインの言葉に、アイリスがくしゃりと顔を歪める。下唇を噛んだその姿は、まるで泣くのを我慢しているかのように見えた。「知っていたのか」、囁くような声で零れた言葉は、とても弱々しくて。
今まで感情の存在を感じさせなかったのが嘘だと思えるくらい、頼りなくて。
「……滑稽だろう? 自分でもなんでかよく分からないんだ。他の子達はどうとでもできるのに、二人に対しては駄目だっただなんて。そんなの、いけないことだと分かっていたのに」
それはきっとあなたが――頭に浮かんだ言葉に眉根を寄せる。
当たり前のことなのに、アイリスには理解できていないんだ。この人は自分がラーシュ達を傷つけられなかった理由を知っているのに、知っていることに気付いていない。
さっきノエに平然と語った彼らを殺さなかった理由も、きっと本当の理由じゃなくて自分自身を納得させるためのものだったんだろう。けれどそれすらも、この人には理解できていない。
どうして彼らを傷つけられなかったのか。どうして別の理由で自分を納得させなければならなかったのか。
その答えはどちらも同じで、とても簡単なことなのに。
「殺せなかったのは、愛していたからだろう」
その言葉に、アイリスが目を大きく見開いた。
「でも……愛しているんだったら、間違いは正してやらなきゃいけないだろう? それができなかった私は、あの子達を正しく愛せてはいなかったんじゃ……」
間違いを指摘された子供のように視線を動かすその姿は、さっきまでとは別人のように見えた。
この人はもしかして、自分の感情すらちゃんと理解できていないのだろうか。自分の中にあるのは人間を真似ただけの偽物だと、疑っていなかったのだろうか。
気持ちに正しいも正しくないもあるわけがないのに。真似ることはできるくせに、それにすら気付いていないの? ――そう思うと、何故か悔しくなった。
「気持ちも、それによる行動も、常に一定とは限らない」
「そんな……」
「俺から見て、お前は間違いなくあいつらを愛していた。だから二人の存在を自分で否定することができなかった。それにもしあいつらを殺して自分が死ねば、俺に合わせる顔がないとも思っていたんじゃないか?」
「どうして……それを……」
「お前はそういう奴だからだ」
スヴァインの言葉に、アイリスが視線を落とす。あちらこちらに彷徨わせていた視線は、だんだんと一ヶ所に留まるようになっていった。その先にあるのはきっと、自分とスヴァインの身体を貫く槍だろう。
しばらくそれを見ていたアイリスは、やがてゆっくりと視線をスヴァインへと向けた。
「……そこまで分かっているのに、私にお前を殺させるのか?」
ふわりと、アイリスが泣きそうな顔で微笑う。それはとても人間らしい、複雑な表情だった。
ああ、そんな顔もできるんだ。他の人達に対しては何の感情も持ってなさそうだったのに、スヴァインやラーシュ達に対してはちゃんと感情を持っていたんだ。
ここからではスヴァインの顔を見ることはできなかったけれど、同じような表情をしているのだろうということは背中から伝わる雰囲気で分かった。
なんでこの人達はお互いにそういう感情を持てるのに、それを他の人達には向けてくれなかったんだろう――悔しさで眉間に力が入る。
本当に感情がない方がマシだったかもしれない。だってこんなの、自分達以外どうでもいいと言っているようなものじゃないか。どうでもいいとされた人達がどんな想いでいるかだなんて、きっと考えてすらいないんだろう。
そう、思うのに。完全にお互いしか見ていない二人から目が逸らせなかった。彼らのその言葉も、些細な動きでさえも、お互いを想う気持ちを表すように感じられてしまったから。とても、綺麗なもののように思えてしまったから。
「俺を終わらせるのはお前がいい。お前を終わらせるのも、俺以外は駄目だ」
「……酷い奴だな。それを叶えてやりたいと思ったら、こんな状況じゃあ拒みようがないじゃないか」
一歩、アイリスが後ろに下がる。ずるりと音を立てて彼らの間から槍の柄が姿を現した。
「……案外悪くないかもな、自分の手で愛しい人を殺すというのも。ラーシュとオッドにも、こうしてやれればよかった」
「それは困るから俺があいつらを殺したんだ」
「ああ、そうだったね。お前もあの二人とは付き合いが長かったのに、嫌なことをさせてしまった」
そう言って槍を握りながら、アイリスはスヴァインに微笑みかけた。
「私もすぐにいくよ」
その声と同時に、スヴァインの身体から勢い良く槍が引き抜かれた。飛び散ったたくさんの赤は、青い月の光に照らされながら地面に落ちていく。
必要な臓器を失ったスヴァインの身体は少しの間アイリスに支えられていたけれど、やがてさっと舞うように黒く解けた。
「ノエ――」
スヴァインだった黒を纏って、アイリスがこちらに視線を向ける。
「――お前はクビだ」
意地悪く口角を上げているのはアイリスなのに、その表情はまるでラミア様のようで。
「アイ――」
ノエがその名前を呼び切る前に、アイリスの身体もまた黒い影の中に消えていった。
「ノエ……?」
土煙が舞う。その中から、低い呻き声が聞こえる。
僅かな隙間から見えた目は、私の方を向いていて。紫色に染めたまま、ノエは酷く辛そうに顔を顰めていた。
良かった、生きてる――そう安堵したのも束の間のこと。次の瞬間に目に飛び込んできた光景に、体温が一気に下がるような感覚を覚えた。
「ッ……!」
薄くなった土煙から次に見えたのは、ノエの右腕。真っ赤な血を滴らせ、だらんと地面へと垂れ下がっているそれは明らかに普通の状態ではなくて、どうにか皮一枚で繋がっているような有様だった。
「休んでいる暇はないんじゃないか? お前は俺を殺したいんだろう?」
スヴァインが嘲笑うように言えば、ノエが「うるせぇなクソッ……!」と小さく悪態を吐く。
ああ、ノエだ。目の色はそのままだけど、ノエは元に戻っているんだ。
「無茶をする」
アイリスの声にそちらを見れば、さっきまでノエを挟んで反対側にいたはずのスヴァインがそのすぐ傍にいた。アイリスはそれに気付いたようだけれど、一瞥しただけで気にした様子はない。
それでもスヴァインはアイリスにもう一歩近付いて、そのままその華奢な身体をふわりと抱き締めた。
「こうするのは久しぶりだな」
「だからどうした。まさかこんなことがしたいからノエの催眠を解いてやったのか? らしくない」
「まさか。あの男には俺を手伝わせているだけだ――早くしろ、ノエ」
どういうこと? 状況が理解できずノエに視線を戻せば、「無茶言うな……!」と言いながら口で槍を拾う姿が見えた。両腕が使えないから仕方がないとは分かるのに、なんで今そうするのかが分からない。
「ッ……スヴァイン、お前――!」
アイリスがノエを見て驚いたような声を上げる。けれどスヴァインはそれを無視して、アイリスを抱く腕に力を込めた。
直後、私の目の前にいたノエが姿を消した。どこだと探すより先に、スヴァインの背後に黒い影が現れる。影が、ノエを形作る。
影から現れたノエは、その一瞬の移動の勢いのまま身体を大きく捻った。口に咥えた槍を投げるように上半身ごと首を振り、何かに思い切り突き刺す。
ドッ……――と、嫌な音が響き渡った。体内で肉と骨が引き裂かれるような、くぐもった、湿り気を含んだ音。
槍を離したノエは、後ろに数歩よろけてそのまま地面に崩れ落ちた。腕が使えないせいか、ほとんど倒れるように。それを見た私はやっと混乱から解放されて、慌ててノエの元に走り寄った。
「ノエ!」
「……くっそ、いいように使われた」
そう呟くノエの顔は酷く不機嫌で。青色に戻ったその目が睨みつける先には、アイリスごと槍に貫かれたスヴァインの背中。
その背中を見た瞬間に私の胸を覆い尽くしたのは驚きと、何故か悲しい感情ばかりだった。
「スヴァイン……死んじゃうの……?」
私の問いかけに、スヴァインがアイリスを抱き締めたままこちらに意識を向ける。
「まだ死なない。これくらいじゃあ、俺達は死なない」
そう言って、スヴァインはアイリスを抱き締め直した。
「この槍を引き抜きたいか?」
「スヴァイン……」
「引き抜けば俺は流石に死ぬだろう。お前が俺を殺すんだ、アイリス」
「……馬鹿なことを。それがお前の望みか? 私が影になれば、こんなこと全て無駄になるのに」
ここからでは顔はよく見えないはずなのに、スヴァインが微笑んだ気がした。
「影にはならないさ、お前は。子の意思は無駄にはしない――そうだろう?」
「思い違いをしているね。私はお前に付き合って死んでやるつもりなんてないよ」
「いいや、違わない。お前がそういう奴じゃなければ、こんなにも永く共にはいない。お前がいたから、俺はこれまでずっと生きてきたようなものだ」
そこまで言うと、スヴァインはアイリスの頬を両手で包み込んだ。
「ずっと考えていた、お前を俺だけのものにするにはどうしたらいいか。お前が心を割くもの全てを消したところで、お前がそれらの喪失を嘆くのには変わらない。失ったことを嘆くお前の姿は美しいが、それが自分に向けられたものではないと思うと身が引き裂かれそうになる」
その声は本当に彼の声かと思うくらい、熱が込もっていて。けれど同時に、聞いているだけで苦しくなってくるような悲壮感を漂わせていた。
ああ、この人は本当にアイリスを愛しているんだ。心の底からだなんて表現では足りないくらい、もっともっと深く、暗いところまで――声を聞いているだけで、嫌でもそう実感させられた。
「だが澪を殺した時に気付いた――これだ、と。自分の手で愛する人を殺す……他の誰でもなく俺がその命を奪うという行為は、相手の命を自分のものにするのと等しい。だから俺はお前をこの手で殺したい。もっと先でもよかったが、あんな子供までお前の命を狙っていると知ってじっとしているわけにはいかないだろう? お前の命を奪うのは、俺以外の誰であってもならない」
だからスヴァインは、ノエがアイリスを殺そうとしていると気付いた時に怒ったんだ――彼のあの時の感情の理由が、やっと分かった。
ただアイリスを失うのが嫌なだけじゃなかった。自分自身の手でその命を奪うことに意味を見出しているから、だからノエに手を出されるのが嫌だったんだ。
他の誰かに奪われるなら、それよりも先に自分の手で――スヴァインがいつアイリスを殺すと決めたのかは分からないけれど、きっとそういうことなんだろう。ノエに自分の手伝いをさせると言ったのも、多分このことを指していたんだ。スヴァインは序列のせいで簡単にはアイリスを殺すことはできないから。でも自分を殺そうとしているノエを使えば、この状況を作り出せるから。
それは誰のためでもなく、ただ、自分のために。他の誰にもアイリスを殺させないために。
命を奪うことで、アイリスを自分のものにするために。
「娘に情が移ったのではなく?」
そんなわけないよ――アイリスのスヴァインへの問いに、心の中で答える。今までの彼の話を聞いていたら、この行動全てが彼自身のためのものだと簡単に分かる。私とノエが生きるために必死でやった一連の行動は、スヴァインにとっては何の意味もなかった。
だから、利用した。アイリスを殺すのにちょうどいい道具があるぞ、使ってやろうって。ノエに自分を攻撃させてそこにアイリスを巻き込めば、こうして選択を迫れるから。
「俺はお前だけのものだ、アイリス。そしてお前にももう俺だけ――そうだろう?」
ほら、やっぱりそうだ。スヴァインの答えは私の考えが間違っていないのだと裏付けるようだった。胸が張り裂けそうになるのはきっと、ただ利用されただけだと実感したからだ。
「……お前は帰ってこないのかと思っていた。かつて勝手にお前から全てを奪い、苦しめてしまった私を恨んでいるのだと。だから私から離れ人間とそれを、家族をやり直している――そう思っていたんだ。お前には、もう私はいらないんだって」
スヴァインに答えるアイリスの声にもさっきまでの冷たさはなかった。どことなく言い訳するようなその口振りは、ただの人のようで。
話している内容は私には分からなかったけれど、自分がスヴァインにしたことに対してアイリスが後ろめたく思っているのは考えるまでもなかった。
「そんな感情はとうになくなった。お前の元に帰れなかったのは困らせたくなかったからだ。お前が血族を守るために、それを脅かす者を消していたことは知っている。お前なりの明確な基準があって、自制のためにそれを厳格に守ろうとしていたことも――その基準に則って俺を殺したいのに、お前は俺を殺すことはできない。俺を殺せば自分が死ぬからじゃない、お前自身が俺の存在を否定することができないからだ。それなのにそんな俺が近くにいたら、お前には苦痛でしかないだろう?」
「随分自意識過剰なことを言っているね。私がお前を殺せないのは、そうしたら自分が死んでしまうからだよ」
「だったらどうしてラーシュとオッドを殺さなかった? 本当は自分であいつらを殺して、争いを止めかったんだろう? だがお前はあいつらの命を奪うことを躊躇った。感情や記憶を書き換えることすらも、お前にはできなかった。何度やろうとしても結局お前にはあいつらを傷つけられなかった。……だから、俺がやったんだ」
スヴァインの言葉に、アイリスがくしゃりと顔を歪める。下唇を噛んだその姿は、まるで泣くのを我慢しているかのように見えた。「知っていたのか」、囁くような声で零れた言葉は、とても弱々しくて。
今まで感情の存在を感じさせなかったのが嘘だと思えるくらい、頼りなくて。
「……滑稽だろう? 自分でもなんでかよく分からないんだ。他の子達はどうとでもできるのに、二人に対しては駄目だっただなんて。そんなの、いけないことだと分かっていたのに」
それはきっとあなたが――頭に浮かんだ言葉に眉根を寄せる。
当たり前のことなのに、アイリスには理解できていないんだ。この人は自分がラーシュ達を傷つけられなかった理由を知っているのに、知っていることに気付いていない。
さっきノエに平然と語った彼らを殺さなかった理由も、きっと本当の理由じゃなくて自分自身を納得させるためのものだったんだろう。けれどそれすらも、この人には理解できていない。
どうして彼らを傷つけられなかったのか。どうして別の理由で自分を納得させなければならなかったのか。
その答えはどちらも同じで、とても簡単なことなのに。
「殺せなかったのは、愛していたからだろう」
その言葉に、アイリスが目を大きく見開いた。
「でも……愛しているんだったら、間違いは正してやらなきゃいけないだろう? それができなかった私は、あの子達を正しく愛せてはいなかったんじゃ……」
間違いを指摘された子供のように視線を動かすその姿は、さっきまでとは別人のように見えた。
この人はもしかして、自分の感情すらちゃんと理解できていないのだろうか。自分の中にあるのは人間を真似ただけの偽物だと、疑っていなかったのだろうか。
気持ちに正しいも正しくないもあるわけがないのに。真似ることはできるくせに、それにすら気付いていないの? ――そう思うと、何故か悔しくなった。
「気持ちも、それによる行動も、常に一定とは限らない」
「そんな……」
「俺から見て、お前は間違いなくあいつらを愛していた。だから二人の存在を自分で否定することができなかった。それにもしあいつらを殺して自分が死ねば、俺に合わせる顔がないとも思っていたんじゃないか?」
「どうして……それを……」
「お前はそういう奴だからだ」
スヴァインの言葉に、アイリスが視線を落とす。あちらこちらに彷徨わせていた視線は、だんだんと一ヶ所に留まるようになっていった。その先にあるのはきっと、自分とスヴァインの身体を貫く槍だろう。
しばらくそれを見ていたアイリスは、やがてゆっくりと視線をスヴァインへと向けた。
「……そこまで分かっているのに、私にお前を殺させるのか?」
ふわりと、アイリスが泣きそうな顔で微笑う。それはとても人間らしい、複雑な表情だった。
ああ、そんな顔もできるんだ。他の人達に対しては何の感情も持ってなさそうだったのに、スヴァインやラーシュ達に対してはちゃんと感情を持っていたんだ。
ここからではスヴァインの顔を見ることはできなかったけれど、同じような表情をしているのだろうということは背中から伝わる雰囲気で分かった。
なんでこの人達はお互いにそういう感情を持てるのに、それを他の人達には向けてくれなかったんだろう――悔しさで眉間に力が入る。
本当に感情がない方がマシだったかもしれない。だってこんなの、自分達以外どうでもいいと言っているようなものじゃないか。どうでもいいとされた人達がどんな想いでいるかだなんて、きっと考えてすらいないんだろう。
そう、思うのに。完全にお互いしか見ていない二人から目が逸らせなかった。彼らのその言葉も、些細な動きでさえも、お互いを想う気持ちを表すように感じられてしまったから。とても、綺麗なもののように思えてしまったから。
「俺を終わらせるのはお前がいい。お前を終わらせるのも、俺以外は駄目だ」
「……酷い奴だな。それを叶えてやりたいと思ったら、こんな状況じゃあ拒みようがないじゃないか」
一歩、アイリスが後ろに下がる。ずるりと音を立てて彼らの間から槍の柄が姿を現した。
「……案外悪くないかもな、自分の手で愛しい人を殺すというのも。ラーシュとオッドにも、こうしてやれればよかった」
「それは困るから俺があいつらを殺したんだ」
「ああ、そうだったね。お前もあの二人とは付き合いが長かったのに、嫌なことをさせてしまった」
そう言って槍を握りながら、アイリスはスヴァインに微笑みかけた。
「私もすぐにいくよ」
その声と同時に、スヴァインの身体から勢い良く槍が引き抜かれた。飛び散ったたくさんの赤は、青い月の光に照らされながら地面に落ちていく。
必要な臓器を失ったスヴァインの身体は少しの間アイリスに支えられていたけれど、やがてさっと舞うように黒く解けた。
「ノエ――」
スヴァインだった黒を纏って、アイリスがこちらに視線を向ける。
「――お前はクビだ」
意地悪く口角を上げているのはアイリスなのに、その表情はまるでラミア様のようで。
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