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新菜いに/丹㑚仁戻

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第三章 グッバイ、ハロー

【第十話 秘密】10-3 ……絶対笑わねェ

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 西陽に照らされながら本を虫干しするために作っていた場所を片付けて、屋敷に戻ると大きな息が零れた。
 だけど不思議と嫌じゃない。一仕事終えた時と同じそれは溜息とは少し違う、落ち着く感覚。

 俺は何をやっているんだろう。

 大嫌いだった吸血鬼の屋敷にいるどころか、その手伝いをして満足感を抱いている。だいぶ痛みの和らいできた身体中の怪我も、手当てを受けたのはこの場所だ。
 この屋敷では完全に警戒を解いているわけではない。けれど時々思い出したように神経を張り詰めさせなければならないのは、無意識のうちに気が抜けてしまっているからだろう。
 いくらこの屋敷の奴らと自分の敵が別だと思うようになったとはいえ、流石にこれではまずい。何がまずいのかと問われれば答えに詰まるものの、良くないことは確かだ。

「――

 和室で待っていた相手にわざと丁寧な言葉で言ったのに、返ってきたのは「ああ」だなんて全く意に介していない返事で悔しくなった。この人なら俺の口調の違いに気付いているはずなのに、表情一つ変えることはない。
 だがそんなこと、気にしたところで無駄なのだろう。気を紛らわすように部屋の中にざっと視線を配ると、そこにいるはずの人物がいないことに気付いて首を傾げた。

「一葉は?」

 俺が尋ねると、その人――壱政さんはじろりとこちらを睨むように見て、溜息混じりに口を開いた。

「風呂だ。うどんを食おうとしてぶちまけたらしい」
「怪我は?」
「大したことはない。風呂に入っているうちに治るだろ」

 壱政さんの言葉を聞いて、気分を変えたはずなのにまた自分の眉間に皺が寄っていくのを感じた。さっきまでだんごを食っていたのにまだ食べるのかという呆れは遠くに過ぎ去り、火傷を負ったへの心配が乱暴に蹴散らされた気分だ。
 人間でも熱湯がかかっただけなら、応急処置ができればそれほど酷い火傷にはならない。そんなことは分かっている。だけどそんな短時間で治るという言葉も、壱政さんの態度も、自分とは常識が違うのだとまざまざと思い知らせてくるようで嫌になった。

「……治るって言っても、痛みはあるんだろ?」

 少し離れたところに腰を下ろしながら出た苦し紛れの言葉は、自分でも呆れるほどに中身がなかった。
 熱湯でのやけどの痛みなんてたかが知れている。普通の人間でさえ我慢することは難しくないのに、その痛みについてわざわざ聞くなんて他に何も考えがないと言っているようなものだ。

「痛みは変わらないからこそ、それに耐えられるように鍛えてある。お前だって今回の怪我で泣き喚いたわけじゃないだろう?」
「そうだけど……」

 聞きたいことはそれじゃない。聞きたいことがあるのかすら分からない。
 ただただ小さな不満が腹の中で渦巻いて、俺の表情を固くさせる。

 その表情を隠すように俯いた俺を、壱政さんが見ているのが分かった。視線に込められた感情は敵意ではない。探られているわけでもない。
 多分、呆れられている。あれだけ人の精神を抉るような物言いができる人だ、それほど知らない相手であってもそいつが何を考えているのか測るのが得意なのだろう。

「お前は本当に子供だな」
「ッ……うるせェよ」

 急にかけられた言葉は、やっぱり俺の頭の中を見透かしているようだった。
 自分が子供なことくらい、俺が誰より分かっている。あれだけふざけた性格の一葉でさえ時々驚くくらいまともなことを言う。生きている年数が違うからだと自分に言い聞かせようとしても、そうしようとしている時点でその理由は本当の理由ではないのだと思い知らされる。
 一葉のことですら子供扱いしているこの人にとって、俺は赤ん坊同然なのだろう。どっち付かずで、誰かに甘えたくて、受け入れがたい事実を知って拗ねている――取引の時に言われた言葉は俺を試すためのものだったのかもしれないが、だからこそ紛れもない事実なのだと突きつけられた気がした。
 未だ両親に会う決意ができないことにこの人が触れてこないのも、今日のように借りを返すものを用意してくれたのも、子供だから大目に見てやるぞと言わんばかりで。大人として扱っていないと、断言されているようで――。

「俺には人間だった頃に妻子がいた」
「……いきなり何の話だ?」

 不意に始まった話に思わず顔を上げる。脈略がないこともそうだが、この人が俺に自分の話をするというのが意外だった。

「黙って聞け。俺が人間を捨てた時には、既に家族は全員死んでいた。当時はその死を受け入れきれずにいたが、今ではあのタイミングで死んでいてくれてよかったと思う」
「なんでだよ。受け入れられないってことは大事だったんだろ? なのに死んでて良かったって……」

 理解ができない。壱政さんの家族が命を落とした理由は分からないが、それでも死んでて良かったなんて普通は思わないだろう。

「時の流れが違うんだ。家族も全く年を取らない俺を受け入れられなかっただろうし、俺も彼女らを襲う時間の残酷さに耐えられなかったかもしれない」
「ッ……」

 ああ、そういうことか――壱政さんが何を言おうとしているのか分かった瞬間、自分の身体が強張るのが分かった。
 やはり見透かされている。俺がここにいる理由も、さっき彼らと過ごしている時に感じた安堵も。吸血鬼でも人間の、日の当たる世界に馴染めるんだと思ったのに、それは違うのだと釘を刺されている。

「子供のお前が置かれた状況には同情する。当時の年齢を考えれば些か酷だったろう。だが今のお前は年齢だけで言えばそれほど子供でもないはずだ。それぞれの行動によって何が起こったか、何が起こり得るか……考えられないわけではないだろ?」
「……俺の両親の話だよな?」

 何を言われているか分かったからこそ、この問いにはそうだと答えて欲しかった。今俺が考えていることはただの勘違いだと、そう言って欲しかった。
 けれど向けられたのは呆れたような、咎めるような視線。

「自分の欲しい言葉を相手に言わせようとするな」

 その声にそこまで厳しさなんてなかったはずなのに、俺は何も言うことができなかった。


 § § §


「――ふおー! いい湯でござった! いやぁ、キョンキョン悪いねぇ。労働した人より先にお風呂入っちゃ……て……?」

 一葉を部屋で待っていると、風呂から出てきた彼女は俺を見るなり首を傾げた。「壱政様は帰ったんだよね?」と聞いてきたあたり、俺が一人で待っていることが意外だったのかもしれない。

「ああ。俺ももう帰る」
「もしかして私が戻るの待っててくれたの? なんかごめんね、好きな時に帰っていいよって言っておけばよかった」
「休んでたから丁度いい。案外疲れるな、あれ」
「分かる? 神経使うよねぇ。それにキョウは久しぶりにまともに動いたんじゃない? そしたら疲れて当然だよ」

 湯上がりの一葉が俺の隣に腰を下ろす。いつもと変わらない格好だったが、髪だけがまだ少し湿っていた。
 それでも多少は乾かしてから来たのか、水が滴る様子はない。肩にタオルを掛けていないのもそのためだろう。なら全部乾かしてくればよかったのにと思いながらぼんやりと彼女を見ていると、「……なんかあった?」と焦茶色の瞳が俺を覗き込んだ。

「何かって?」
「いや、何もないんならいいんだけど……なんかキョウ、いつもより暗い気がして」
暗くて悪かったな。疲れただけだろ」

 誤魔化しながらゆっくりと視線をずらす。視界から姿が消えたことで、彼女から漂う石鹸の匂いが俺の意識を奪う。
 こんなの、ただの薬品の匂いだ。うちの風呂場だって同じような匂いがするのに、いちいち気にするなんて馬鹿らしい。

「今日非番だっけ? ならゆっくり休めるね。あ、帰るの面倒だったら泊まってく? 部屋はいくらでもあるし」
「……怪我もしてないのに俺がいたらおかしいだろ」
「確かにそっか。じゃあキョンキョンは日が暮れたらお帰りくださいませ!」
「なんで日が暮れたらなんだよ」
「じゃないと駅まで見送れないじゃん!」

 当たり前のように一葉が言う。逸らしていたはずの視線はいつの間にか彼女を捉えていて、その楽しげな顔に縫い付けられる。「……そりゃどうも」、心ここにあらずといった声色の自分の言葉がどこか遠くに聞こえる。自分の頬が、緩く笑みを浮かべている感覚がする。

「ッ……キョンキョン最近よく笑うねぇ! あ、写真撮っていい?」
「撮るな」
「ちぇっ。まあいっか、今後はいくらでも見れそうだし」
「……絶対笑わねェ」
「なんで! いいじゃん格好良いんだから! キョウが笑うと私楽しいよ?」
「……アンタの都合なんて知るかよ」

 そう言いながらも、再び口角が上がるのが分かった。自分の顔なのに勝手に動いてしまうのは、このくだらないやり取りを楽しんでしまっているからなのだろう。
 思えば年の近い人間とはろくに関わってこなかった。学校は仕方なく行っていただけで、クラスメイトに話しかけられても必要がない限り無視してきた。だから一見すると同年代にしか見えない一葉と話すのはそれに近い感覚なのかもしれない。

『――それぞれの行動によって何が起こったか、何が起こり得るか……考えられないわけではないだろ?』

「ッ……!」

 急に脳裏を過ぎった声に、頭を殴られた気がした。一葉が不思議そうに俺を見ている。なんでもないと返そうとした口を、頭の中に蘇った会話が止める。

『……俺の両親の話だよな?』
『自分の欲しい言葉を相手に言わせようとするな』

 肯定しなかったということは違うのだ。俺の両親の話にも通じるかもしれないが、それだけではない。

「――やっぱりもう帰る。寄りたいとこあるの忘れてた」

 本当はそんな場所なんてないのに、口をついて出たのは使い古されたような言い訳だった。そのことに気付かれないように腰を上げれば、一葉が「そうなの?」と俺を見上げる。

「じゃあ見送りは玄関までだね。気を付けて帰るんだよ」

 そう言って立ち上がった一葉は俺の言葉を信じているのだろう。

 屋敷を案内するように前を歩く彼女の後ろ姿を見ながら、静かに拳を握り締めた。
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