東雲を抱く 第一部

新菜いに/丹㑚仁戻

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第一章

〈一〉夕影の君、碧天の犬

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 それはまだ、新しい年を迎えて間もない頃。
 昊涯国こうがいこくの都、月霜つきしもにもやっと雪が降り積もり、月霜宮げっしょうきゅうは白に覆われていた。働く人の姿はあるものの、一面の雪がその音を吸収し、辺りを静寂が包み込む。
 唯一、行雲ゆくも御所と呼ばれる一帯を除いて――。

「嫌ですはく様ぁああああ」

 行雲御所内の一際大きな屋敷――ではなく、脇にひっそりと佇む小さな離れ。隠れるようにして建つその建物の中から、盛大に泣きじゃくる女の声が響いていた。
 声の主は、青みがかった銀色の長い髪を持つ女。頭の下の方で一つの結ばれたそれは力なく垂れ下がり、彼女の心境を表わしているかのようだった。その銀色の尻尾が乗るのは、紺桔梗色こんききょういろの男物の小袖を着た背中。下には濡羽色ぬればいろ裁付袴たっつけばかまを身に付けており、後ろから見ただけでは男か女かの判断が付かない。しかしその高い声と頼りなげに何かに縋り付く仕草が、彼女が女であることを強調していた。

 女が縋り付いていたのは、自分よりも幾分か小さい子供だった。ふわふわとした深紅の髪を持つ少年で、一見少女とも取れそうな顔立ちをしている。少年は感情を抑えるように眉間に皺を寄せ目を伏せていたが、ぴくぴくと痙攣する額はその苛立ちが限界を迎えたことを表していた。

「――いい加減にしろ三郎さぶろう! 鬱陶しい!」

 少年の、小さな身体には見合わぬ力強い叱責が飛ぶ。その細腕で三郎と呼ばれた女の愛らしい顔を遠慮なく掴み、思い切り自分から引き剥がそうと力を込めた。
 しかしそれに全く怯まないのが三郎という女である。多少顔は離すものの、それ以上は顔が崩れるのもお構いなしに、少年の腕に従うことなくその場に留まり続ける。そしてこの世の終わりかのような悲痛の面持ちを浮かべ、「酷い!」と少年のそれを上回るほどの大声を張り上げた。

「鬱陶しいだなんて、白様は鬼ですか!?」
「こうも毎日癇癪を起こされたら鬼にでもなるわ!」

 白と呼ばれた少年は更に目尻を吊り上げ、腕に込めた力を強める。だが、全く効果が出る気配はない。それどころか三郎は少年の手を掴み、何の苦労もする様子もなく自らの顔から引き剥がした。

「毎日じゃありません! 昨日は我慢しました!」
「その前は騒いだだろう! ここ二週間ずっと騒ぎ立てて、少しでも離れがたいと思った俺が馬鹿だった!」
「白様……馬鹿なんですか?」
「黙れ阿呆」
「ひぇ」

 鋭い視線で睨まれ、やっと三郎が勢いを弱める。それに少年――白柊はくしゅうはふうっと大きな溜息を吐いて、咎めるように三郎を見やった。

「大体、お前は虚鏡うつみの人間だろう? それなのにこんなにしょっちゅう素顔を晒して……。いくら人払いをしてあると言っても、少しは気を付けたらどうだ?」
「こーんな場所、誰も来やしませんよ。それに誰もいないのは気配で分かりますもん」
「『こんな場所』っていうのは、この行雲御所のことか?」
「……あ」

 まずい、と三郎が頬を引き攣らせる。その様子を見て白柊は、「失言だと分かるなら最初から言うな」と疲れたように呟いた。

 御所とは、この昊涯国においては最上位の貴人の住まいである。しかし出自が確かであれば誰でも持てるものではなく、時嗣ときつぎという他国で言うところの王と、時嗣の御子みこと呼ばれる者しか自分の御所を持つことはできない。
 時嗣の御子とは、いわば王位継承権を持つ者のことだ。この国で王位継承権を持つための条件は唯一つ、時和ときなぎであること。時和でなけば時嗣の実子であっても、次期時嗣となる資格を得ることはできない。逆に時和であれば、時嗣の直系でなくともその資格を持つ。
 現在、時和たる証――御所を持つのは時嗣を含め三名。そのうちの一人が、先程から怒鳴り声を上げている白柊だ。

 つまり行雲御所を馬鹿にすることは、そのまま御所の主――白柊を馬鹿にすることを意味する。この月霜宮においてそんなことをしようものなら、口頭での注意どころでは済まされない。
 しかしそれは一般的な考え方で、実際のところ白柊はそれほど腹を立ててはいなかった。三郎の言葉は行雲御所を馬鹿にしたものではなく、この御所には人が寄り付かないことを指してのものだと分かっていたからだ。

「まあ滅多に人が来ないからって、面を外しっぱなしにするのは虚鏡としてどうかと思うけどな」

 そう言いながら、白柊は畳に転がった狐面を一瞥した。
 三郎は平時面を身に付けている。それは顔も性別も他者に悟らせないための虚鏡のしきたりで、いくら素顔を知っている自分の前とはいえ、平気でその面を放り出すべきではないと白柊は指摘したつもりだった。

「嫌ですよう白様、面をしたまま泣いたら蒸れるじゃないですか?」
「いっそそのまま溺れてしまえ」
「面では溺れようがないですよ……?」
「お前っ……」

 本気で困ったような表情を浮かべる三郎に、白柊の眉間には再び深い皺が刻まれた。主人を主人とも思わぬ三郎の言動を見逃し、さらにはその程度まで合わせてやっているというのに――という不満は、これまで何度抱いたか分からない。それでも彼女を自分の守護という役目から外さないのは、それだけ気心知れた仲だからだ。

 だがそれも、もうすぐ終わりを迎える。三郎が泣き喚いているのは二週間前にそのことが正式に決まったからだ。いくら三郎が嫌がっても、白柊自身が受け入れ難いと思っても、決まってしまったことを覆すことなどできない。だから白柊にできるのは、めそめそと悲しむ三郎を叱咤することくらいだった。

「――お前は虚鏡の首領に明月あつきの名を賜ったんだろう? 一人前と認められたってことじゃないか。そんな奴が他の手本になるよう振る舞えなくてどうする」

 虚鏡明月介あつきのすけ三郎――それが今の三郎の名だ。彼女の生家、虚鏡家では実力に応じて水月みずき、明月、真澄まその名が与えられる。これまで三郎が持っていた水月の名は一番下で、いわばひよっこの証だった。それがこのたび明月と名乗ることを許されたということは、実力を認められたと同時にそれ相応の責任が伴うことを意味する。
 言外にそれを指摘された三郎はしゅんと縮こまり、言い訳をするように「……白様の前だけですもん」と口を尖らせた。

「主人である俺の前でこそちゃんとしろよ」
「分かってますよ! でも……やっぱり寂しいじゃないですか。私は白様がこーんなちっちゃい頃からお傍にいたのに」

 そう言いながら、三郎は顔の前で両手の平をうんと近付けた。

「そんなに小さくはない」
「小さいこと気にしない! それで、そう……こんなどうしようもない理由で白様のお傍にいられなくなるなんて……。白様、男になんてならないでください」
「俺は生まれた時から男だ」

 言い返す白柊の目線が強くなったのは、三郎のふざけた物言いのせいだけでなかった。
 今回三郎が白柊の守護を外れることになったのは、二人の性別のせいだ。白柊の血を守るため、女の三郎が隠れてその子を産めないように二人を離すことになったのだ。これまでは白柊が子供だったため黙認されていたが、彼も今年十一になる。大人になる前に、白柊と三郎を遠ざける必要があった。
 ならば最初から三郎が白柊の守護に就かなければよかっただけの話なのだ。しかしどういう経緯でこうなったのか、三郎も、白柊すらも、掟を破って時和の能力を駆使したにも拘わらず、その経緯を知ることは叶わなかった。

(どちらにせよ、上の連中の判断は間違ってはいない)

 そう思って、白柊は自嘲するように口端を上げた。じき十六歳になる三郎にとって、五つも年の離れた白柊はただの子供。さらには彼が五歳の頃から仕えているのだから、主人を異性として認識していなくても当然のことだ。
 そうでなくても、虚鏡と言えば守護御三家の中でも特に個を滅する家。三郎もひとたび切り替えれば、感情を持っていないかのような振る舞いを見せる。

(三郎が俺の守護の任を解かれれば、こうして話すこともなくなるだろう)

 相手が虚鏡では娶ることもできない。泣きたいのはこちらだと思いながら、しかし白柊はそれを悟られまいと背筋を伸ばした。

「――とにかく! まあ百歩譲って白様の守護じゃなくなるのは受け入れましょう。でも白様の次の守護、羽刄はぎりですよ? 羽刄家と言えば顔が良いだけの性悪集団との噂!」
「お前羽刄に謝れよ」
「しかも私が次にお仕えするのはこと様です」

 紫明宮しめいのみや琴――この国で御所を持つ貴人の、最後の一人。時嗣の実子の中で、唯一時和の能力を引き継いだ娘。年は白柊の一つ下だが、時嗣である紫明院しめいいんを父に持つためか、中々の傍若無人で知られている。
 三郎がこの時機に白柊の守護を外れることになったのも、琴が自らの守護を変えろと時嗣に上申したからだ。通常、守護は余程のことがない限り一人の主人に仕え続ける。そんな中で今回の対応は異例で、しかし三郎と白柊を引き離す機を窺っていた者達からすれば都合が良い上、琴が次に守護を解任するのもいつになるか分からない。ならばこの機に乗じて各守護を調整しようというのが今回の狙いらしい、と三郎は自分の兄弟から聞かされていた。

「……次の主人を悪く言うのだけはやめろよ」

 琴が次の主人だと言った時の三郎の声色に、白柊はそう苦言を呈した。自分と三郎の関係が特殊なだけで、本来守護が主人の悪口を言うことは勿論、このように砕けた会話をすることも有り得ない。三郎も分かってはいるだろうが、つい自分との癖が出てしまわないか心配になったのだ。 

「分かってます。……でも、白様と敵対するのだけは嫌です」

 同時に存在する、二人の時嗣の御子。この二人の関係性が良くないことは周知の事実で、白柊の御所に人があまり来ないのはこのことが関係している。

「私情は挟むな。お前は虚鏡なんだから」
「……はい」

 そう小さく返事をして、三郎は目を伏せる。白柊の言い分は正しく、それ以外に答えようがなかったのだ。

(それでも私は、白様だけにお仕えしていたいです)

 三郎が心の中で小さく呟いた時、彼女の耳に御所への来客を告げる鈴の音が届いた。
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