東雲を抱く 第一部

新菜いに

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第五章

〈三〉狩りの獲物・参

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 滝之助の脳裏に、昼間見た光景が蘇る。初めて鹿に止めを刺し、震えていた昇陽。そんな彼を気遣うようにして以降の処理を申し出た雪丸。
 何の変哲もない、兄弟仲の良さを感じさせる出来事だ。全く警戒などしていなかったのに、それがまさか――自身の落ち度に気付いた滝之助の額に、じわりと汗が滲む。

「その雪丸殿の行動は意外か?」
「いえ……あのお方であれば、ごく自然にそういった行動を取られます。現にこれが初めてではありません」
「ということは昇陽殿にも予想できたし、何だったらそうするよう誘導することもできたというわけだ。大方その後の昇陽殿は極力自分で鹿の処理をしたのではないか? そして自分から休憩にしようと言い出した」
「何故それを……」

 まるで見ていたかのような口振りに、滝之助の言葉が詰まる。それは白柊がここまで知っていることに驚いたからではない。ここまで言い当てられるということは、これから続く言葉もまた事実を言い当てるものなのではないかと思わされたからだ。

「矢に毒を塗ってあったのならば、それに触れた雪丸殿に毒を含ませるため、他の物には触らせたくないだろう」

 白柊の言葉は、先程滝之助の頭の中に浮かんだ考えと同じだった。勿論、滝之助は矢を警戒していなかったわけではない。しかしそこらへんに置いてあるものならともかく、既に昇陽が鹿を射るのに使った後だった。
 無意識のうちに警戒対象から外してしまっていたのだ――はっきりとそう自覚すると同時に、滝之助の額の汗は一気に吹き出した。自分の気が緩んだせいで主人に毒を盛られてしまったという焦りから、彼の口からは「しかし!」と勢いよく否定の言葉が飛び出す。

「いくら昇陽様が指を舐らないと言っても、毒が塗られた矢に触れた手で物を食べるのは危険では!? たとえその場で手をすすいだとしても、場所が山ならそこまで丁寧には洗わない――確実に毒を落としきれるかは分かりません!」
「毒はの真ん中あたりにでも塗っておけばいい。下の方は鹿に刺さっているし、上を持って抜けば矢が折れる。自然と毒が塗られたあたりを掴むだろう」

 箆というのは、矢の棒部分のことだ。

「これなら鹿にも付かんし、昇陽殿自身は毒に触れないよう気を付けることができる。矢に触れる手も左右どちらにするか選べるから、不安ならその手は使わないようにすればいいだけだ」
「しかし毒の付いた矢はどう用意するのです!? 目の前で毒を塗るような動きは……!」

 自分の見ている前で矢に毒を塗れるはずがない――何度も同じ主張をしなければならない苛立ちが滝之助を襲う。確かに矢を見逃すという失態を犯してしまったが、それが毒とは無関係であればその失態もなかったことになる――そう思うと、白柊の言葉を簡単に受け入れるわけにもいかなかった。
 そもそも滝之助にはまだ白柊の言葉を完全に信じることもできないのだ。何せ彼の言っていることは状況と辻褄が合うように思える一方で、自分の目の前では不可能なこと。それをさも事実として話されてしまえば、信じるどころか自分のことを馬鹿にされているようにすら思えてしまう。
 その苛立ちと、けれどもし事実だったらという焦りから、滝之助は自分の言葉が荒くなりそうなのを感じて咄嗟に口を噤んだ。相手は時嗣の御子なのだ、こんな状況でも流石に暴言を吐くべきではない。
 そう思って自分を抑えたのに、白柊は相変わらず涼しい顔をしている。それが余計に滝之助の気持ちを荒れさせたが、白柊が口を開いたことでそれは表に出さずに済んだ。

「事前に矢に塗っておけばいいだろう。矢筒の中に仕切りのような細工をしておけば他の矢に毒が触れてしまうのも防げるし、常に決まった位置にあるから間違えずに取ることもできる」
「ならば昇陽殿の矢を調べれば、毒の証拠が見つかると?」
「いや、何も出ないだろうな」
「は……?」

 それまでの苛立ちもあって、滝之助は顔に不信感を顕にした。そんな彼の感情の動きを警戒して見ていた三郎は、そろそろはっきり言わないといつ滝之助が爆発するか分からない、と小さく咳払いをした。流石に他の守護相手に主を守るのは荷が重い。穏便に済むならそうして欲しい、と主人に伝えたつもりだった。
 すると白柊はほんの少しだけ首を三郎の方に傾けて、彼女にだけ聞こえるように溜息を吐いた。それにちゃんと伝わったようだと安堵して、三郎は視線を滝之助に戻す。

「血の付いた矢は拭ってしまうだろう?」
「ならば矢筒の細工は……!」
「大方小さな枝か何かを引っ掛けてあっただけだろうな。それくらいであれば毒ごと血を拭き取った矢をしまう時に外せてしまえるだろうし、山の中に捨ててしまえば見つけられない。矢筒に毒が触れないようにするにも、枝のような形状の方が都合が良いはずだ」
「つまり根拠はないと……?」

 滝之助の視線が再び強まる。先程よりは多少落ち着いているようだが、明らかに怒りを抱いているのだと分かる状態だ。
 無駄に怒らせないで欲しいと伝えたつもりなのに――三郎がもう一度白柊に向けて咳払いをするかどうか悩んでいると、主が小さく手で制してくるのが見えた。つまり分かっていてやめないのだと示されて、三郎は狐面の下で顔を顰める。こういうところが白柊の悪いところだと思いながらも、三郎には主を信じるしかなかった。

「言わなかったか? 矢に付いた血は拭ったと」
「それに使った布が根拠だと? そんなものどこにあるのです!? それがなければ貴方様の話は想像にすぎない!」

 証拠もなく雪丸に毒が盛られたと認めるわけにはいかないのだ。滝之助が声を荒らげて食い下がったが、白柊は意に介した様子もなく昇陽に視線を移した。

「『慌てて落としてしまった』。そうだろう?」

 自分に向けられた言葉ではないのに、滝之助は頭に一気に血が上るのを感じた。落としてしまったなどと、そんな戯言で済まされるはずもない。確かに白柊の言う方法ならば雪丸に毒を含ませることは可能だが、『かもしれない』だけで自分の仕事に難癖を付けられたら困るのだ。
 しかしそう指摘したくとも、白柊の視線が向いているのは昇陽だ。自分には今ここで口を開く権利はない――滝之助はぐっと拳を握って、昇陽の反応を待った。

『――私に隠し事ができるとでも?』

 白柊に布の行方を問いかけられた時、昇陽の頭の中に蘇ったのはこの言葉だった。最初に聞いた時はただただ驚きと焦りしかなかったが、今はもう違う。白柊と滝之助の会話を聞きながら、まるで全てを見ていたかのような白柊の口振りに実感させられていたのだ――本当に、この小さな子供には隠し事ができないのだと。
 そしてそれは、もう腹を括るしかないのだと昇陽に思い知らせるものだった。

「……はい」

 小さな声で昇陽が答える。そこからはもう、先程までの緊張が嘘のようにするすると言葉が出始めた。

「矢を拭うのに使った私の手拭いは、兄上を運ぶ道中で落としてしまいました。しかし、

 視界の隅で滝之助が息を飲むのが昇陽には分かった。滝之助は立場上白柊の言葉を否定していたが、内心では信じ始めていたはずだ。でなければ一守護が時嗣の御子に向かってあのような物言いをするはずがない。だから自身の発言に対する滝之助の反応は、至極当然のものだと思った。
 しかし一方で、昇陽にとっては白柊の反応が不気味だった。自分が断言したことを真正面から否定されたのに、顔色一つ変えていない。もしやこれすらも想定内なのでは――そう不安を抱いたが、白柊は過去読みしかできない時和だ、有り得ない、とその考えを否定する。しかしここで自分が少しでも中途半端な態度を取れば、途端にこの目敏い子供はそこを突いてくるのだろう――ごくりと昇陽の喉が動いた。

「落とした場所は定かではありませんが、きっとまだそこにあるでしょう。探して調べていただいても構いません」

 そう言いながら、昇陽は自分に大丈夫だと言い聞かせた。血を拭った布は、守護達の目を盗んで小川を狙って投げた。川に届かずともその付近は湿っているから、毒は血ごと地面に染み出しているだろう。
 そして一度地面に触れたのならば、たとえ毒を検知されたとしても、地面に落ちた時に付いたと説明できる。そのためにあの山にいる生き物――ネツガエルの毒を用いたのだ。季節は初春、早くに冬眠から目覚めている個体がいてもおかしくはない。

「ああ、そうだ。あの布に毒が付いていることで、私が兄上に毒を盛った証拠となるならば、毒が付いていなければ逆に私は無実であるという証明もできるはず。今の私に権限はないと思いますので、行雲宮の命で是非とも人を動かして探していただきたい」

 何も知らないふりをしながら、昇陽はこれが覚悟が決まるということか、とどこか場違いなことを考えていた。つい先程までは何か言いたくても何も言えなかったのに、今はもうまるで口が意思を持ったかのように滑らかに動く。――そう思うと、昇陽は白柊に対する恐れも忘れるようだった。

 さあ、どう出る――気分が高揚し始めた昇陽が白柊を見上げれば、相手は薄い笑みを浮かべて自分を見下ろしていた。

「なるほど、捨てたのは毒の付着場所を分からなくするためか」
「な……!?」

 何故そんな発想になる――昇陽は目を見開いた。確かにそれは事実だが、今の自分の話の中のどこにそう思わせる内容があったのか。
 昇陽が言葉を返せないでいると、白柊は愉快そうに話し出した。

「症状から見て、使ったのはウルシガエルか、ネツガエルの毒だろう? ――ああ、指に触れても平気ということはネツガエルの方か。まあどちらにせよ、あれらの毒は皮膚にある。こんな季節に山の中に落ちてしまった時点で、蛙がその布の上を歩いたのだと言われれば誰もそれは嘘だと証明できないな」

 自分の推測を崩す状況だと言うのに、白柊はずっと笑みを浮かべていた。それが、昇陽には恐ろしく感じる。恐れを誤魔化すように口を開けば、普段の自分では考えられないくらいに淀みなく言葉が出た。

「いくら行雲宮といえど、あまりに無礼ではありませんか? 私の行動をそんなふうに捉えるだなんて――」
「事実だろう?」

 昇陽の言葉を遮るようにして、白柊が言う。それをされた昇陽はぎり、と奥歯を噛み締めた。何故この子供はこんなにも自信を持って断言するのだろう――まるで自分の言葉がこの世の全てとも言わんばかりの不遜さに、昇陽の中に怒りが芽生えた。
 たった一つ、時和であるかどうかの違い。彼が時和でなければ自分よりも身分が低かったはずなのに、それなのに時和というだけでこうも自分を馬鹿にした態度を取る。

(私を馬鹿にするのは、母上達だけで十分だ)

 時嗣の正室でありながら、時和を産めなかった母・菖蒲。時嗣の長男でありながら、権力のためには妹に謙るしかない兄・日永。自分の境遇は時和を産むことができなかった母の、そして有能さを時嗣に示せない兄のせいなのに、あの二人はいつも自分のことを見下す。
 それは自分が日永と違い、琴の後見人となることもできないからだと昇陽には分かっていた。分かってはいたが、いつも不満に思っていた――何故生まれた時点で、自分の運命は決まっているのだろう、と。

「証拠もなく決めつけるのは、琴様と同じでは?」

 ありったけの悪意を込めて、昇陽は白柊に歪な笑みを向けた。琴の無能さは兄弟間でも有名なのだ。それをあの白柊が知らないはずはないし、同じにされて不快に思わないはずもない。少しでもこのいけ好かない子供の鼻を明かせれば――そう思って言葉を投げかけたのに、相手は一層笑みを深めるだけだった。

「嬉しいよ。証拠はあるから、私は琴殿とは違うと認めてくれるということだな」
「何を言って……」

 反応に困る昇陽を置き去りに、三度みたび、白柊が三郎に声をかける。すると三郎は懐から折りたたまれた布を取り出した。見覚えのないそれに昇陽は訝しげな顔をしたが、三郎が布を広げ始めたことで、すぐにそれは驚愕の表情へと変わった。

「貴殿の落とし物は、ちゃんと回収しておいてやったぞ」

 見知らぬ布に包まれていたのは、自分が捨てたはずのものだった。
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